初雪いろは
かなぶん
初雪いろは
記憶の最初にある、外の風景。
それは、物心がついてからしばらく経ってのことだった。
育ての親に言われるがまま、洞窟の奥で暮らしてきた彼は、ある日、ふと思う。
この「奥」には、何があるんだろう?、と。
洞窟の奥で暮らしてきた彼が言う「奥」とは、そこから外へ続く通路に他ならない。人が人たる所以か、人とは異なる生き方をしていても、彼には人並みの好奇心が存在しており、これを自制できるほど、彼はまだ、多くの年月を生きてはいなかった。代わりとばかりに彼の周りで、彼の友となりながら、彼の自制に努めていた者たちも、この時、彼を止めることが出来なかった。
正確に言えば、彼の周りにいられなかったのである。
人ではない存在ゆえに。
それこそが、彼の好奇心に火を点けた切っ掛けと言えた。
ある時期になると決まっていなくなる友――
彼は、彼らのその習性に気づいて、洞窟の奥に興味を持ってしまったのだ。
いつの間にか一人になっている自分を知り、退屈を知り、一人の理由を考え、友の行方を考え、そうして行き当たったのが「奥」への好奇心だった。
彼を庇護してきた存在が、その時、何らかの理由で不在だったことも、彼が「奥」へ進むのを躊躇わない要因になっていた。
遠く、天井から差し込む光の恩恵により生い茂っていた、鮮やかな草花へ束の間の別れを告げ、土の地面を踏み、岩肌の壁に囲われた通路を行く。
生まれてこの方、靴というものを知らない彼の足は、その年月分、皮がぶ厚くなっていたため傷つくことはなかったが、土の地面は一歩進む度に、草花にはない冷たさを彼に伝えてくる。
足先が赤くなり、痺れてくるほどの寒さ。
しかし、一人の冒険に胸を躍らせていた彼にとって、それは些細なことだった。
暗闇の続く通路さえ、彼の足を止めるには至らず、先の見えない不安も、先に待ち構えている何かを期待する心には敵わない。
――否、それでは語弊があろう。
何せ、彼の目を通して見る洞窟内は、必ずしも暗闇に覆われてはいないのだ。
よく見える、というほどでもないが、彼が見ている洞窟の姿は、薄明かりで照らされたように、くっきりと陰影をつけて存在していた。
しかもその光量は、彼の周囲という限られた空間の話でもなく、曲がりくねった洞窟の奥まで続くほどだった。
お陰で、もしくは、そのせいで、彼は引き返すという選択肢を一度も考える事なく、洞窟の外へ辿り着くことになる。
外が近づくにつれ、彼の目は徐々に洞窟を本来の暗闇の中へ落としていく。
そうして黒い壁となった岩肌に、今頃になって彼が不安を感じたなら、差し込む光がこれを遮るように現れた。
誘われる形で歩みを進める彼の目に、まず入ってきたのは、洞窟の途切れを知らせる白。
黒と白。
くっきりとした境は、まるで黒い空間に白い穴を穿ったかのようで、彼の心を高揚させた。
光り輝く世界。
見たこともない光景に、彼の足は不安を忘れてしっかりと地に着き、地を蹴る。
近づくことで彼は気づく。その白い穴の上から黒を侵食するように、ひらひらと舞い落ちるものがあることを。
降っては消え、降っては消えを繰り返していたソレは、いつしか消えずに残り、洞窟の地面を斑にしていった。
黒と白が溶け合う、不確かな色。
不鮮明な様に惹かれ、彼はその場所まで歩くと、思い切ってソレを踏んでみた。
冷たい。
それでいて何だか、水っぽくて、べちゃべちゃする。
もしかしてこれは……水?
育ての親に拾われる前から、何かの術で巻きつけられた包帯の手を掲げれば、舞い落ちる白が水のように染み込んでくる。
やっぱり……冷たい。
黒く暗い洞窟よりも冷たい、白く光り輝くソレ。
それでも彼は初めて目にするソレに、どうしようもなく惹かれ、ソレばかりが広がる外へ、大きく一歩、踏み出していった。
何故自分が、ソレから遠ざけられて育ったのか、考えることもなく――。
* * *
「ちょっと!? そんなとこで何してんのよ!?」
上から降ってくる、素っ頓狂な少女の声。
過去に耽っていた頭で振り返り、二階にある自室の窓から青ざめた顔でこちらを見つめる少女を認めたなら、
「……あ、おはようございます」
現在へ戻る過程のように一拍置いてから、挨拶を口にした。
だが、その一拍の間で、少女の姿は閉め切られた窓の奥へと消えており、代わりに家の中からドタドタと荒々しい音が、上から下へ移動していく。
次いで玄関扉がガチャッと開き、チェック柄の半纏を羽織った寝巻き姿の少女が、長い黒髪を跳ねさせながら駆け寄ってきた。
「もう!」
「そんな格好で外に出てきたら、風邪を引いて――」
「それはこっちの台詞! んなことより、どうしてこんな朝っぱらから、しかも雪が降っているってのに、庭でぼーっと突っ立ってんのよ!? 風邪引くでしょ!」
一応、今降っている雪は彼と同じく少女にとっても初雪と呼べるもののはずで、少しくらいはしゃいでも良さそうなものなのだが、これを二の次にした彼女は、怒り肩で彼の腕をぐいっと引っ張った。
「わわっ! そ、そんな強く引っ張らなくても、僕なら平気ですから。この程度で風邪なんか引きませんよ?」
「分かんないじゃない、そんなの! 腕だってこんなに冷えているのに!」
「いえ、確かに服の上からだとそう感じるかも知れませんが、中は魔法で暖かくしていますし、それよりも貴女の方が」
「だから私はいいんだって! それより――ぃっくしゅっ」
「……だから言ったじゃないですか」
自分を心配しながら、先に冷えたくしゃみをする少女に、半分呆れつつも、ほんのり温かくなった心で口元を緩ませる。
これを見た少女は、決まり悪そうに目を逸らすと、ぐずつく鼻ごと頬を赤く染め、唇を少し尖らせて文句を言った。
「あ、貴方が悪いんでしょ? こんなところに突っ立って。……起きたらいないってだけでも、心臓に悪いのにさ」
「それは……」
成り行きで言葉通り、深い意味もなく同じベッドで眠る少女の非難に、やはり温かな気持ちを抱いた彼は、唇を微笑ませると、掴まれている腕を引き、少女の身体を背中からすっぽりと抱きすくめた。
「わわっ!?」
突然の行動に驚いた少女だが、黒い外套に包まれたなら、「あ、ほんとだ。あったかい」と言って、肩の重みを預けてくる。これをしっかり受け止め、回した腕に力を込めれば、そこへそっと触れる少女の指先。
「で? なんでこんなところに?」
どうやら少女は、ここにいる理由こそを知りたいらしい。
言外でも、暖かいことだけを伝えれば良いと思っていた彼は、探る黒い瞳の中に、好奇心とは違う、彼の危うさを案じるような光を見て取り、短い息をついた。
外套の中の暖かさを自分の周りにまで広げ、雪の変わり落ちる雨粒を、魔法の防壁で避ける。言葉も発さずにこれをやってのけた彼は、更に少女の身体を自分に引き寄せると、黒髪に頬を寄せながらもう一度息をついた。
本当は、彼女自身にも同種の魔法を掛けることが出来る。
彼女はその昔――というほど昔でもないが、彼が本来在るべき世界にいたことがある。だから、
初めて彼に、人の温もりというものを与えてくれた少女。
一度でも抱えてしまえば、放し難い、得難き人。
ゆえに彼は少女を寒さから守る名目で、彼女を抱き寄せている。
劣情にも似た思いを彼女が知ったら――たぶん、あまり代わり映えはしない。
恥ずかしがりはするだろうが、少女は決して、彼を拒んだりはしない。
それが分かっているからこそ、彼は彼女に何も言わず、腕を回していた。
これは自分の我が侭で、一から受け入れて貰うようなものではないのだから。
反面、自分というものを知って貰いたいという気持ちもあった。
このため彼は、少女が今、尤も知りたがっていることに、初雪を眺めながら耽っていた過去を乗せて口にする。
「冷えるなって思ったんです。それで窓の外を見たら雪が降っていて」
「寒かったの? 言ってくれればくっついて寝たのに」
「…………」
時々彼女は大胆なことをさらっと口にする。
かといって、彼を男として全く見ていない訳でもないのだから、始末に悪い。
まあ、今こうして、抱き締めている格好を取って置きながら、意識するのも変な話だ。気を取り直した彼は話を進めていった。
「寒いとか寒くないとかは二の次でした。雪を見て、ふと思ったんです。こちらの雪も、あちらと同じなのかなって」
「ふぅん? 雪に思い出があるとか?」
時々彼女は鋭い指摘をする。
こういうと、普段がかなり鈍いみたいに聞こえるが、そんなことはない。
只今は、それがあまりにも的を射ていただけで、驚かされただけだ。
「ええ。思い出、と言えるほどでもありませんが。僕が最初に見た外の景色が、雪だったんです。だから――」
そして、血の色というものを初めて見、死というものを初めて知った時でもある。
* * *
白ばかりが広がる景色。
しんしんと降り積もる白に音はなく、静寂だけが辺りを包んでいる。
その見事さに呑まれた彼は、呑まれた瞬間、過ぎった恐怖に支配されてしまう。
恐怖の正体は、生きる者なら誰しも一度は恐れるモノ――死だった。
だが、まだ死を知らない彼は、内側から生じてきた恐怖の正体が分からず、また、分からないことに恐怖して、出てきたばかりの洞窟へ戻ろうと踵を返した。
刹那、背中に通る風。
風といってもその風圧は激しく、彼の小さな背中を強く飛ばした。
お陰で洞窟には近づけたものの、訳も分からず振り向けば、それまでそこにはいなかった魔物が、ギラつく瞳で牙を剥く姿があった。
彼の友たる小さな魔物たちとは違う、大柄な魔物。
雪上こそを縄張りとするこの魔物は、人間にとって、遭遇すれば死は免れないと言わしめる存在だったが、この時の彼には分からないことだった。
ただ、恐怖を通り越した感情が、この時の彼を支配していたのは確かだ。
逃げれば良いものを、彼は怯えもせず魔物を見つめ、感嘆の吐息を白くつきながら思った。
なんて綺麗な――……。
狙い定めた強靭な爪が自身に振り下ろされても、彼は魔物を見つめ続けていた。
だからこそ、彼の目はその後の顛末を、強く焼き付けることになる。
魔物の爪が彼に触れる間際、斜め上空から鋭い速さで落ちてくる黒い影。
彼が何と理解する前にソレは魔物を斜めにひしゃげさせ、一拍の間を置いて、袈裟斬りの軌跡を魔物の血で魔物の身体に描いた。
白に散る血は例外なく彼にも掛かり、生温く生臭い赤は、魔物に心奪われていた彼を一気に現実へと引き戻していく。
と同時に、斜めに断ち切られた魔物の身体が、彼の横に倒れてきた。
今更の恐怖に歯を打ち鳴らし、それでも魔物の動きを追ってしまった彼は、無機質に開かれた目に映り込む自分の姿を認め、声にならない悲鳴を上げた。
もしあの時、魔物が黒い影――彼の育ての親たる魔物が放った魔法に貫かれていなかったのなら。
そこに転がっていたのは間違いなく自分……
勝手に外へ出た彼を叱らなかった育ての親は、その代わり、見せしめのように彼の前でその魔物を食らい始めた。
まるで、これが正しいことだと教えるように、溢れる血を飲み下し、骨を破り、肉を散らして、魔物の身体を貪っていく。見ようによっては、魔物を殺した非難を彼から受けたくないがために、自分が殺さなければお前はこうなっていたのだと、言い訳しているようにも見えるのだが。
初めて血と死に触れた彼は、育ての親の行いを見つめながら、冷えた身体よりも凍てつく心を知り、しばらくの間、洞窟の奥で心を閉ざした生活を余儀なくされた。
食料の少ない冬を越すため、冬眠していた友が春に目覚める、その時まで。
* * *
「で、最初に見た雪の感想は?」
再び過去に思いを馳せれば、抱え込んだ少女が焦れたように問いかけてきた。
彼は我に返ると、フードの中の視線を泳がせ、言葉を探した。
さすがに、そんな血生臭い過去を彼女に聞かせたくはない。
そうしてようやく出てきた言葉といえば、
「ええと、寒かった、ですかね」
心に強く残る記憶への表現にしては、些か陳腐に過ぎる節がある。
それでも間違いではないと、凍りついた己の心身を思って言えば、少女がムッとした顔で睨みつけてきた。
どんな魔物や人間に睨みつけられても、もうあの時のように怯むこともない、逆に嘲弄すら出来るはずの魔術師は、少女の不機嫌に頭を真っ白にして慌ててしまう。
「ぅええ? あ、あのぉ……?」
どうしてそんなに睨まれているのか分からず、泣きたい気持ちにまでなっていけば、外套の下でくるっとこちらに向き直った少女が、何を思ったのか腕を回してきた。
「ふわっ!!?」
不死に近い長寿ゆえ、後世を残す能力は衰えているものの、彼だって一応は男だ。
好意を寄せる少女に抱きつかれたなら、うろたえもするし、赤くもなる。
けれど少女は全く意に介さず、ぎゅーっと彼を抱きしめると、茹蛸状態の顔をキッと睨みつけて言う。
「結局、寒いってことじゃない! ほら、さっさと家に入ろ? 確かにこうしていてもあったかいけど、やっぱり見た目寒いし、雪なら部屋の中からでも十分見れるんだから!」
そうして彼の腕を取った少女は力一杯引きずっていこうとする。
外套から出たせいで雪を被る少女に慌て、随従するしかなくなった彼は、ちらりと舞い落ちる雪を見て、口元に笑みを刻んだ。
この世界にも降る、冷たい雪。
それは暗に、この世界にも彼の居場所はないと言われているようで。
懐かしい孤独に惹かれ、寒空の下で、冷えた感傷に浸る。
けれど彼の手を引く少女は、外界を閉ざす彼を許さず、自分も同じ場所に身を置くと、温もりを取り戻させようと腕を引いてきた。
人によってはお節介とも取れる行為だが、彼は思う。
もしも本当に自分が孤独を望んだなら、彼女は不用意に近づいたりしないだろう。
だからこれは、孤独に浸りながらも、彼がどこかで望んでいたこと。孤独に浸ることで、そこから救い出してくれる手を期待する、幼子の甘えのような……。
それゆえ彼は、儚い白の一片に願う。
願わくは、この温もりが長く続くことを――……
初雪いろは かなぶん @kana_bunbun
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