二一世紀特急
@bigboss3
第一話
私達はその日、多くの報道陣と共に目の前に天高く飛ぶ丸い筒状の形をした金属の塊が白い湯気を作って、楕円状の軌道を作りながらこちらにやってくる。最初は私達3人に光の嵐を浴びせていたピラニアたちは身の危険を感じ、いつもの報道合戦で鍛え抜かれた、脚力を使い、その物体の影から逃げ惑った。その物体は爆音を轟かせながら、地面についた。そしてそれと共に、凄まじい熱気と蒸気、そして爆発とともに破片となった金属を周辺に被害を与える。
私達3人はその現実とも思えぬ、事態に体が反応することもできずに見つめていた。そして地面二着した金属の塊とは反対方向に視線を向ける。そこには線路上にボイラーという心臓を失った機関車の抜け殻が上半分の残った部品を歪ませて、修理街をしているかのようにたたずんでいた。しかし、後ろには燃料と水のつまった随伴と、減免蒼白で事態を見つめる偉そうな人たちが詰め込まれていた、古風な客車が繋がれていることからそれが修理待ちではないことは明らかなのだが。
事の始まりは3時間くらい前になる。私はホームに運転士の格好をして立っていた。京都のホームには何両もの無人電車や無人ディーゼルカーが通り過ぎたり止まったりして乗客を乗り降りさせていた。
『間もなく回送列車が到着します。白線の後ろに御下がりください。』
ファンの目がその回送列車に釘付けになる。そしてその回送列車がやってきた。無人運転の電気機関車に惹かれ5両の旧型客車を模した客車と私達が作り上げた新型の蒸気機関車がホームを滑り込み停車した。
私は京都駅に緊張の糸を張り巡らせて目の前の黒い巨体に立った。威圧的な日本では破格の煙管式ボイラーに、自らの元になった汽車会社製のD52型貨物用機関車がつけていたものを大きくした高さ175㎝の波板型ディスク動輪に、先頭に取り付けられた煙避け板にステンレス製の、3つの9。そして運転室や煙室扉に取り付けられた。C6250と刻まれたナンバープレート。その姿は人気アニメに登場する機関車のものであった。周囲の鉄ちゃん、鉄子達はデジタルカメラやスマホで撮りながら、その機関車にストロボもどきを浴びせる。私はそのような周囲の熱気を無視して、目の前の黒鉄の運転室に向かっていく。そこには2人の運転士が私を迎えていた。
この時代の鉄道はUAVやドローンによって養われた技術をそのまま鉄道に応用したことにより、無人化、もしくは半自動的な鉄道ネットワークを完成させた。そのため、鉄道を有人で運転できるその技術は、もはや職人芸に近く、システムエラーなどの急を要する事態や、機械に任せられないという保主的な地方私鉄に限られていた。
ましてや新造困難とされた蒸気機関車の登場など、だれが予想しえたであろうか。ほぼすべての報道陣がシャッターを押しながらその興奮を抑えきれないでネットワークを介して熱く熱弁を語っていた。その様子を私達は自慢そうな顔を作りながら見つめるのであった。
私は今回、今世紀に初めて登場した大型蒸気機関車、C6250号機を使って現在、名古屋市にあるリニア鉄道館に保存されているC6217号機が打ち立てた世界狭軌蒸気機関車の最高記録129キロを更新するために、この機関車に乗り込むことになったのだ。
「お前か、この機関車を運転するのに必要な人間というのは。」
まず、驚きの声を上げたのはこの機関車の機関士であろう中年運転士の方であった。どんなに若くても、もうすぐ定年が近く、いかにもベテランという顔つきをしていた。まあ、驚くのも無理はない。自分で言うのも難だが、私はどう見ても蒸気機関車の運転士に不適格な体格で、どう見ても理科学系の女科学者にしか見えなかったからだ。
「一応、聞きますけど、あなた朝(あさ)治(じ)真(ま)琴(こと)さんですよね?」
今度は隣の若い運転士が私の顔を見て質問した。その人物は入社したてで、ようやく運転士として配属されたという風貌をしていた。私はただ「はい、そうですけど。」と返事を返した。
「えっと、そっちのおっさんが多田(ただ)幸次郎(こうじろう)さんで、若いほうが小林(こばやし)翼(つばさ)ですか。」
「おう、俺が多田だ。」
「僕が小林です。」
「初めまして、私が朝治です。」
私は儀礼だけのあいさつを交わした。いつも資料とにらみ合いを続けていたせいもあって、自分で意識していないけど、世間知らずのところがあった。
「でも、姉ちゃん、SLの運転は体力がいる仕事だぞ、姉ちゃんみたいなのは、言っとくけど、どう見ても顕微鏡と睨めっこしている科学者みたいで、とても運転には身が持たないんじゃないか?」
多田運転士の指摘に私は論理めいて反論を返した。
「言っときますけど、この機関車はあなた達が運転していた車両と一緒にしないでください。この機関車は世界から見ても特別な機関車なんですから。」
「聞いた話だと、GPCS、ガス燃焼システムとかいう、火力発電所に使うシステムを搭載しているというが、いったいどういうものなんだ。」
「かいつまんで言うと、石炭などの固形燃料を完全燃焼させてその一酸化ガスを燃焼させる技術よ。今この機関車を扱えるのは、日本で今のところ私だけだから、態々(わざわざ)こうやって機関士の格好をしてきたの。」
「それじゃ、お手並み拝見とするか。今回の高速試験は、あんた等にも責任を取ってもらうという条件ですから。」
そういわれた私は、ただ黙って運転室に入った。
中に入る際にスマホのバイブ音が聞こえた気がした。私が見ると、おめでとうの文字と何かのアプリが入っていた。それは鉄道グループからのプレゼントのようであったが、何のアプリか気にはしたが、確認を後にして運転室に入っていった。
運転室の中は、カマからあふれ出る熱量とバルブや速度計などのメカらしく光り輝していた。
私は熱の中心部を覗き込み運転の合図を待った。
蒸気の排出音に混じって駅員のホイッスルと旗を上げる動作が挙げられた。
それに合わせて中年運転士は空気ブレーキのレバーを回し、機関車のアクセルに当たる上部のレバーを前に押した。
「それじゃ、この機関車がただの蒸気機関車じゃないことを見せてやろうじゃない。」
私は声高らかに鉄道サークルと大学の研究員達みんなで苦心して作った機関車の威信を見せつけようと心に誓った。
このC6250号機は、ただ水を沸かして車輪を動かすだけの蒸気機関車ではない。日本で初めて誕生した、第二世代型蒸気機関車なのだ。
第二世代蒸気機関車とはアルゼンチン人の鉄道技術者、リビオ・ダンテ・ポルタが提唱した次世代型蒸気機関車の事である。デゴイチをはじめ今までの既存蒸気機関車が第一世代とするなら、ガス燃焼システム(GPCS)が搭載した窒素酸化物などの公害を伴う煙を提言したクリーンな機関車の事が次世代の蒸気機関車だと提言している。
第二世代型蒸気機関車の始まりは第2次世界大戦終結後にさかのぼる。この時代になると隆盛を誇った蒸気機関車は日の出のごとき勢いで、台頭した内燃機関車や電気機関車に変わろうとしていた。そんな時、一人のフランス人が南米に移住しそこで一人のアルゼンチン人と出会ったことから生まれることになる。フランス人の名はアンドレ・シャプロン。フランス国鉄(SNCF)の技術者で蒸気機関車を科学的に改良してきた鬼才。もう一人は前途のリビオ・ダンテ・ポルタ。20世紀最後の蒸気機関車技術者。彼らは後に蒸気機関車の命脈を繋げるために抵抗することになった。シャプロンが死に、自分の娘を汚い戦争で誘拐されても、ポルタはガス燃焼システムという機構を蒸気機関車に取り付けて蒸気機関車の改良に心血を注ぐ。彼はどこにでもある普通の蒸気機関車を四気筒の複式機関にして、ガス燃焼システムを取り付けた「ラ・アルゼンチナ」を開発。その後、ポルタは日本製の蒸気機関車にキルポワエキゾーストとラ・アルゼンチナで取り付けられたガス燃焼システム(GPCS)が取り付けられ出力を倍にした。この機関車は日本製蒸気機関車が活躍した鉱山鉄道で同鉄道が廃線になるまで活躍した。そしてポルタはアパルトヘイト時代の南アフリカで真の意味での第2世代蒸気機関車26型蒸気機関車を生み出した。この機関車は元になった25型蒸気機関車の3000馬力から1.5倍の4500馬力近くの出力を記録し世界を驚かせた。そのため危うく高速試験でC6217号機の記録が抜かれそうになったほどである。幸い動輪が小さいという理由で認められはしなかったけど。しかし、南アフリカの電化無煙化は阻止できず、そればかりかポルタはよそ者として白目で見られ南アフリカを離れた。
その後もポルタはACE3000やラ・アルゼンチナの大型機関車、更にはニュースにもなったイギリスのアーサー・ペパコーンが設計したLNER・A1などの開発などに携わり、人生のすべてを蒸気機関車に捧げ2003年に亡くなった。
私達、大学の鉄道サークルは、50両目のC62の新造を計画した。目的は昔ながらの技術の維持と蒸気機関車の技術向上というのが目的だった。またさっきも登場したLNERA1型をはじめとした大型蒸気の製造も後押しになり、私達はC62をシャプロン、ポルタの技術や論理で改良しようと各所に計画案を提言した。しかし、それに保守的な鉄道会社や蒸気機関車を整備するおっさんからはひどい拒否反応を示された。彼らからは鉄道世界一という自負と技術の継承を大切にしようとする良くも悪くも保守的な考えの為、それと逆行する私達の計画を受け入れられなかったようだ。実際、彼らは蒸気機関車にコロ軸受けをあえて採用せずに、平軸受にこだわり続けている事からも見て取れた。また、鉄道会社からすれば、新幹線やリニアの時代に公園に展示されている機関車を修復すれば安上がりなのになぜわざわざ新しく作る必要があるのかと言ったのである。当然、私達の言い分はこうである。このまま公園や博物館から発掘同然で修復していれば、いつかは枯渇してしまうこと、それに今の時代鉄道も環境に配慮しなくてはいけないし、電車や気動車に迷惑をかけないだけの性能を出さなくてはいけないから、技術停滞を防ぐためにも新造は必要だと強く訴えた。だが、私達の訴えは鼻先で一蹴されたため結局、私達はSNSクラウドやコネクション、補助金などを四方から集めて自前で作ることになった。当然C62の新造には国内外の協力者をかたっぱしからお願いして、ようやく作り上げた。
まず、Ⅽ62の設計図を関係各所から集め、それをCADに落とし込み、更に京都鉄道博物館などにスパイとして潜り込み、3dスキャンで部品の一つ一つをデータして吸収して、そのデータを僕らや海外の蒸気機関車技術者でどこ修正しどこを改良するかで話し合った。その結果、足回りは車輪すべてとロッドなどの回転部全てにコロ軸受けを採用し、排気ノズルは南アフリカのレッドデビル(26型蒸気機関車)と同じもの、過熱管は国鉄(シュ)の(ミッ)使用(ト)して(A型)いたものからシャプロンが好んだフランス型(フ―)の(レ)もの(型)に変えシャプロンの提唱したボイラーの内的流線化(インターバルストライニング)、ほぼ別形式ともいわれる、全体の70%の改良修正が行われた。
また、現在の鉄道システムの時代に合わせるため東海道本線や山陽本線などで使用されるATSも取り付けたし、ブレーキも高速でも600mで止まれる強力なものにしたりして日本の幹線で走っても問題ないものにした
法律では鉄道車両はブレーキをかけて600m以内止まれないといけないため、多くの人は石炭の量を調節したり、自動給炭機を撤去するなどの重量調節で行うのだけど、私達はブレーキを変えることにした。今まで日本で使われていた蒸気機関車のブレーキは前時代的な車輪を押さえつけるものから新幹線などに使用されるディスク式に切り替えた。蒸気機関車には品質過剰ではないのかとの意見が内側にも外側にも出た。蒸気機関車は重量が重いのと、蒸気機関車は今の機関車と比較して速度が遅いため、重量を変える方がより現実的だというのが意見であった。
それに対して私達はこういって論破を図った。
「今のSLはATSでさえ義務化されている。安全面には過剰と見なされても1%以下の危険性があるなら、万一つに対する可能性も潰しておくに越したことはない。」
その言葉を聞いて批判の声は風船のように小さくなっていった。彼等も人を乗せる乗り物のため、命などを預かる以上安全面をおろそかには出来なかった。最も私たちにも自信はなかった。いくらブレーキを変えたからと言って法定通りの結果を出すという確信を持てなかったから。
法定通りの基準内に抑えるため、何度もブレーキの試験を繰り返し、何とか600mに止まることができた。
製造の際に、わかりやすい妨害や警告も受けた。その抗議者は名前こそ言わなかったが、大体の察しがついた。それは抗議者の内容から理解ができた。
「もし蒸気機関車の新造を進めるのであれば、法的圧力も辞さない。」という固い分もあれば、「貴様我々に泥塗りおって、走行の時は覚悟しておけ
がSNSの拡散でそれらを跳ねのけ、ついにこの日にたどり着いたのだ。
C62は49両が作られたため、それに続くという意味で50号機というナンバーが与えられた。しかし、これが私達に著作権という強大な壁を立ちふさがった。元の始まりを言うと、C62は知っている人もいるが某有名マンガの主役機関車の主人公のモデルになった機関車だ。それは原作者が九州から上京する際にC62のような機関車を見たのが印象に残ったのは勿論、彼がC62ナンバープレートを持っていたことも、主役として選ばれたゆえんである。
この漫画のアニメ化の際、一つの対策が取られた。主役の機関車のナンバーは48号機になっていた。これは前途のナンバープレートを持っていたからであるが、アニメの場合は49に続くという意味で50号機にされた。これはスタッフが現物に敬意を表しての事であるのと同時に、関係某所からの非難をかわすためでもあった。もっとも劇場版では元の48号機に戻されはした。つまるところを言うと先に著作権に引っ掛かりを受けて、訴えられる可能性があったのだ。しかも、模型ではなく本物の機関車なのだ。短期の使用権ではなく、永久物になる。
さすがに著作権がシビアな時代、愛称は原作者やアニメ制作会社の許可を受けなくてはいけなかった。最初のころはアニメ会社も原作者も渋い顔とまではいかないまでも困惑の顔を隠さずにはいられなかった。私達はこういって口説きにかかった。
「あなた達の主人公が現実の世界で実現するのですよ。今まで空想だったものが現実になる。あなた達の宣伝にもなるし、ファンからの支持を多く得られると思いますよ。」
この言葉にアニメ会社は腰を低くしたが、原作者はそんなことに利用しないでほしいと、言われた。さすがに製造と並行しながら、時間をかけて、彼の作品の批評を交えながら説得した。さすがの原作者も僕らの熱意に理解を示し、条件付きではあるが愛称とマークの使用を認めた。条件とは独占をしないということである。私達はそれに同意した。
著作権は70年まで保護されているため、著作権料の支払いはべらぼうではないにしても支払わなくてはいけなかった。しかし、私達は何度も話し合ううちに自然と理解を示してくれて、使用許可が下りてくれた。原作者は勝手に使うことなどに対して厳しい反面、使用したいと願い出たことに関しては寛容だったことも手助けになってくれた。
こうして、幾多の障害を乗り越えて今日の速度試験に乗り込んだのだった。
私達のC62はゆっくりと鉄工所が特注で作り上げた汽車会社型のディスク動輪を動かし、一回転ごとにその速度メーターを上げていった。そしてロッドが一回転するごとに蒸気機関車の特有のシュッシュっというシリンダーから排出され蒸気のドラフト音を周辺に響かせながら、加速し始めた。
「火室の様子はどうですか。」
「石炭は大丈夫か。」
二人からの同じ質問に私はすぐに振り向いた。
「心配しないでください、石炭の流動床は私が見ています。」
私はそう言って火室内部の石炭の様子を見極めていた。GPCSは石炭を燃焼する際に石炭がタール化して床にへばりついてしまう欠点があり、それを防ぐため床に蒸気を送るのだが、蒸気量が石炭によってまちまちなため、慎重に見極めなくてはいけない。しかもその傾向は火室が大きくなればなるほど、更に石炭を半自動的に行う自動給炭装置がつけばさらにひどくなる。そのために私が乗り込んだ。みんなは私が蒸気機関車の運転に耐えられるのかと心配していたが、今の日本にこの機関車を扱える人間はいないと強く訴え乗り込むことができた。当然ではあるが、私は法律で定めた蒸気機関車の運転資格とボイラー取り扱いの資格を取っていたため、認めるだけの材料を持っていたことも大きい。
私が火室と睨めっこをしているときに多田のおっさんは、ホームにいるファンや報道関係者にファンサービスの手を振っていた。一夫の小林運転士はC62の圧力計をにらみながら最大圧16気圧を超えないか見ていた。こうして、誰もが支援を交わさないままⅭ62は京都のホームから離れていった。
京都駅から走り出して10分、C62はまるでジェット機の轟音のような音を運転室に響かせ始めた。既に速度計は時速85キロを示した。これは現在のJRが使用する機関車の常用速度と同じくらいであった。運転室内はスマホの温度計で50℃くらいになっていた。まるで服を着たままサウナか温室に入っている気分だ。「SL甲組」の気分を生で体験している。
「しかし、驚いたな。普通なら振動が始まるのに思ったほど滑らかな走りだな。」
それもそうでしょ、だって私達はこの蒸気機関車のロッドとかシリンダーを軽合金や中空化して往復運動を軽くしているのだ。蒸気機関車にはハンマーブローという現象を起こすこと知られる。これはロッドをはじめとした往復運動によって線路や軌道にハンマーのような振動を起こす現象で、これが乗り心地の悪化や軌道への負担につながる。対策として多気筒化するかシリンダーやロッドなどの往復部の軽量化が望まれる。C62は2気筒のため後者を取った。ロッドなどを軽合金化したり、強度に問題のない所は中空化したりした。これはアメリカや満鉄で学んだ考えで、これによって線路と乗務員の負担を軽減できると上層部や蒸気機関車を整備する人たちに説明して納得させることができた。最も本音は、牽引力の強化とスピードアップが目的であるのだけれど。
それを心の中で毒づきながら私は石炭の状況をつぶさに観察していた。いつ見ても火室の中は美しく、中から『火の鳥』が登場してもおかしくないほど鮮やかであった。この時の私の気持ちはGPCSをポルタはどのように扱ったのだろうという考えに浸った。彼は娘さんを汚い戦争で奪われ、それでも開発を続けた彼は、自分の機関車をどのように見ていたのだろう。それにしても神経を使うなあ、と感じた。このGPCSが先見性はよかったのに世界に浸透しなかったのもうなずける。少し気を抜けば、タール化した石炭が床にへばりつきかねない。彼の開発した機関車を扱う運転士の気苦労がしのばれる。
「おい、どうなってるんだ。」
それは一緒に乗務した中年運転士の怒号から始まった。いったい何があったのと聞く。彼は返事の代わりに汽笛を鳴らして返した。その汽笛はファンサービスではなく警告の汽笛であった。私は思わず運転室から外を見ると、三脚を立てた二、三人の人影が慌てふためいて撤退しているのが見えた。
「ざけんなよ、本線は封鎖していんじゃ、ねえのかよ。」
思わず私はヤンキー交じりの非難の言葉を口走った。私がC62の高速試験を行う条件の一つとして東海道本線の一帯の封鎖という条項があった。もしこのことができなければ認めることは出来ない。理由としては沿線の人身事故防止のためだという。この時代、蒸気機関車が走るというだけでニュースになる。もし、封鎖しなければ人だかりで人身事故につながりかねないというのが理由であった。私達はその条件を呑んだ。それぐらいは予想と許容の範囲に収められるから。それなのに人が入っている。話が違うじゃない。私はそれに頭に血圧をあげてしまったのだ。
「ブレーキをかけるぞ。」
多田運転士は慌てて蒸気機関車の運転ブレーキとATSのスイッチに手を置いた。私は思わずその多田運転士の手を跳ねのけようとする。
「おい、何やっているんだ、やめろ。」
「止めないで、まだ目標速度まで来てない。」
私は思わず叫んでしまう。このまま止めてしまうと折角の速度実験がそのまま中止になると感じたからである。
幸いにも不法侵入した人物たちは、すぐに危険を感じて線路の脇から三脚を持って、駆け足で逃げていった。それを確認した時の私は気を取り直して火室の中を再び覗き込んだ。
「姉ちゃん、運転士として言っておくぞ。今度、ブレーキをかけるのを邪魔するようなことした、運転中でも汽車から蹴飛ばすからな。」
多田運転士の雷級の叱責に対して私は変わりの返事をした。
「うるさいわね、今度怒鳴ったら、石炭の代わりにおじさんを燃料にするわよ。」
運転室の空気が機関車の火より高くなることを感じた、小林運転士はすぐに私達をなだめすかせて、運転に集中するよう言った。もし、彼がいなかった運転士は一人減っていたのかもしれない。
そのようなこともあって、私はイライラを押さえつけながらも、石炭の状況をつぶさに観察しながら、蒸気量を調整していた。
「現在時速110キロに入りました。」
さっきの事件から3分経った。現在の速度は110キロ。機関車につないでいる客車の最高速度にまで達し、運転室内にも微小ながら左右動が出始めていた。
「少し、揺れだしたな。」
「さすがに二軸従台車をつけていても厳しいですか。」
「まあな、でもデゴイチと比べればまだましな方だ。」
「それにしても、これだけ石炭を焚いているのに、こんなにクリーンな煙は見たことないですね。」
「そう、私は何か燃えカスのせいかしら、眼鏡に黒いのがへばりついて、すごく見にくくなっているのだけど。」
「でも、高品質な石炭を普通に炊いている時より燃料効率は劇的に違いますよ。」
若い機関士は驚きの声を上げた。どうやらいつも機関車を扱っている彼らにしてみればこんなに調子のいい事はないようだ。
そんな運転士の驚き声を背に火室とにらみ合いをしていると私の無線機に通信が入った。
『運転室、こちら一号客車。これ以上速度を上げると脱線の恐れがある。至急ATSの作動を要求する。』
それは、この機関車に連結されている5両のSLやまぐち号用客車の先頭で速度や振動を図っていた計測班の無線通信であった。どうやら客車内でもひどい揺れが起きて脱線するのではないかと、計測班と背広組の中で抗議の声が上がっているみたいだ。彼らの頭の中には福知山線の二の足を踏んで世間から安全を軽視した危険な速度実験をした、という安全第一という皮をかぶった保身の二文字が頭の中を駆け巡っているに違いなかった。
「こちら、運転室。無線の調子が悪く、はっきりと聞こえません。もう一度復唱願います。」
私は聞こえていなふりをしながら、速度実験の続行を無言のうちに運転室の人間に指示を出した。二人は怪訝な顔をしながらも、責任が自分達にかぶさらないことをいい事に、私の指示を暗黙の内に従った。
私は、聞こえないふりをしながら無線機のレシーバーを切り、運転室の手すりに立てかけた。既に運転室の速度は120キロを示していた。もしこのままいけば、かつてC6217号機が打ち立てた、時速129キロを超えるのも時間の問題であった。
「あ、大変なことを忘れてた。」
「どうしたの?」
「この先の線路、急カーブになっていて、このまま行くと脱線しちゃう。」
「大丈夫なの。」
私の不安の声は中年機関士の覚悟とぎりぎりの速度制限で押し切られた。
「仕方ない、脱線覚悟で曲がるしかない。」
中年運転士はそう言うとスロットルを後ろに引き、速度を緩めた。速度はさっきの120キロから100キロぎりぎりのラインまで落ちた。急カーブに差し掛かった時、凄まじい振動を感じた。
「ほんとに脱線しないのかな?」
私はそうつぶやきながら蒸気機関車の速度計に目をやった。速度計の針は120の位置から一度ずつ変わっていく。体の平衡感覚をつかさどる三半規管がおかしくなっているのか、それとも微妙な角度だから人間には感じることができないのか、急カーブの遠心力を感じることができなかった。
「そろそろ、最高記録まで行くぞ。」
私は火室から観察眼を速度計に集中させる。速度は再び一度筒上がり速度はついに赤い印が示していた、130のラインを超えた。その瞬間私達三人は喜びの声を一瞬湧き立てたが、すぐに冷静に戻って運転に集中した。そんな状況をしり目に速度計はいまだに上がり始めついには、最高速度が140の場所にまで上り詰めた。ネットを介してある機関士の話したところによると、これがC62が控えめで出す速度だという。蒸気機関車は400回転前後が限界の範囲だとしている。数学でC62の最高速度を出すと1750mm×3.14×400×60で約131キロと出る。これはⅭ6217号機が出した129キロほぼ近い速度だった。勿論これより早く高い回転速度を出して非公式の速度を出した例はある。世界一速いのはイギリスのA4型のマラード号とされてはいるが、実際は非公式でもっと出たという機関車はある。一例としてレイモンドロウウィデザインの流線型車体とデュプレックス式の機構を持つペンシルバニア鉄道のS1型蒸気機関車は公式では191キロとされるが、実際は215キロとも251キロ出したといわれている。
『おい聞いているのか、これ以上は危険だ。』
『緊急システムを作動するぞ。』
無線機越しに、お偉いさんの怒号が聞こえてくる。私達はそれを黙殺する。するとどういうわけか速度が落ちていく感じがした。速度計を見てみるとそれとなく落ちてきていた。どうやら1号車の乗客が後ろに補器としてつないでいた無人電気機関車を使って、無理やり速度を落としにかかっているみたいだ。力関係では私たちが不利なのは目に見えていた。
「ボイラー圧を2気圧あげて。」
「そんなことしたら破裂するかもしれないぞ。」
「かまわないわ。やって頂戴。」
小林運転士は恐怖で顔をにじませつつもボイラー圧を18気圧に針を進めた。これはC63型蒸気機関車と同じ圧力だった。常用圧力を超えるのは労働局の厳しい圧力検査を受けたとき以来だった。ボイラ圧検査でC62の常用圧である16で申請したが、検査ではその1.5倍の圧に30分耐えなくてはならなかった。実際にその厳しい検査に通らないため、別のボイラーで代用したという例もあった。私たちもそのことを知っていたため、ボイラの圧を18の常用でも耐えられるように作っていた。そのため、実際の圧でも耐えられるため性能は原設計よりも高かった。
しかし、私たちの努力も電気機関車の皮をかぶったロボットの前にはほぼ無力だった。速度計はまるで相撲取りのせめぎあいのような状態が徐々に押されていた。蒸気機関車は見た目によらず非力であったとは知ってはいたけど、その現実をいやおうなしに突き付けられた感じだった。
私がここまでだと覚悟を決めたときスマホの振動を感じて取り出した。機関車の振動に比べれば微々たるものであったが、胸ポケットの光ですぐに取り出した。そこには緊急アプリというものがあった。私がそれをタップすると、今まで押されていた速度計の針が逆転をして、とどまっていた目盛の130から140と一気に加算にスピードを上げた。
「な、何が起きたんだ?」
多田の状況の呑み込めない混乱の声が響いた。
「わかりませんが、無人電気機関車の動力が切れたと考えられます。」
その瞬間私は悟った。あの時みんなが私に送ったアプリは無人鉄道の動力やシステムを無効化するものだと。私はチャンスとばかりに二人に速度を上げる指示を下した。二人もスロットルをいっぱいにして、速度を上げた。速度計は140キロから150キロを超えついに160ぎりぎりにまで上り詰めた。さすがに私もこれ以上上がると命の危険感じ始め最後の指示を下した。今頃線路の枕木に打ち込まれた犬釘もはじけ飛んで砂利の上で転がっているかもしれない。
「いいわ、もう止めても。」
その声を合図に二人は空気ブレーキとATSのスイッチを押した。
ATSのけたたましい音と共に蒸気機関車はゆっくりと足の動きを緩めて速度計の針を反時計周りで足を止めようとする。私は火室内の蒸気に神経をとがらせながらも、まるで暴れ龍が怒りを鎮めて、再び眠りにつくような動作をする自分達が作り上げた鉄の塊の抜くもありを感じていた。
「列車停止を確認。」
中年運転士の声と同時に私は熱と精神的ストレスであふれ出た額の脂汗を首に巻いていたタオルで拭き取った。二人の運転士は労いの言葉の代わりに私の肩にそっと手を置いた。口より行動で表した態度であった。
私は目をこすりながら、運転室の外の涼しい冷気に当たるために顔を出した。瞬間目の前に伏兵として待機していた取材陣の群れが一斉に飛び出て、カメラやマイクを片手に機関車の周りを取り囲みだした。外で蒸気機関車の熱と同じくらいに噴出して駆け寄ってきた客車の計測班の存在を脇に追いやり、私達の活躍やこの蒸気機関車への称賛と新時代の蒸気機関車の新造に対する喜びの声などそのすべてが好意的な質問に覆いつくされた。
「姉ちゃん、あんた有名人だよ。」
「真琴さん、あなたは無茶をしたかいがありますね。」
さすがに、この状況だと二人とも周りの空気からそれなりに説教ができない状況だろう。彼らもそれなりに顔を辱めながらも照れくさそうに、ぶしつけのリポーターのマイクに自分の気持ちを語るようせがまれていた。
私はというと、取材陣の質問の嵐などそよ風程度の認識でしかなく、完全に上の空の状態で聞き流していた。むしろ私が一番に興味を持っていたことといえば、この機関車の事だろう。白い蒸気が温泉のように噴き出し、排気膨張室を撤去してレムパーエキゾーストに変えた煙突からは、灰色がかかった白い煙が天高く噴き出し、私たちの挑戦の成功を称賛しているようであった。そしてフラッシュがたかれるごとに、除煙板にシールカットが施されたアニメ版の三つ並びの「9」が明るく輝いていた。
よくよく考えてみれば私達もよく大それたことができたなと思った。作者もアニメを作ったスタッフもそして当時アニメを見ていた人々も、まさか自分達が空想で作り上げた機関車が現実の世界で具現化するなど夢にも思わなかっただろう。ましてや新しい技術を取りいれて現れるなど自分の範疇外だ。
私がそのような感傷に浸っていると突然すさまじい爆裂音が聞こえた。私がそれを振り向くとさっきまで乗っていた機関車のボイラーが消えていた。ふと影になったのを気が付き上を見上げるとボイラーが天高く飛びあがっている姿が目に写った。そしてボイラーはそのまま、向こう岸の川にダイブしてすさまじい水蒸気が発生させた。
私は自分達がおこした大記録と共に機関車の最期が天高く昇っているような高揚感を覚えずにはいられなかった。
翌日の新聞には大記録の見出しとその後のボイラー破裂を伝えるニュースが映った。批判の対象は私たちだと覚悟したが、批判の対象は速度試験に乗り合わせた測定班と上層部に向いて私たち3人への批判は、微々たるもので済んだ。その理由は蒸気機関車を無理やり速度を強制的に下げたことで限界を超える昇圧を招いたというのが理由だった。
私たちの機関車は国内外のカンパやクラウドによってボイラーの交換などの修理を受け、現在は某鉄道会社に貸し出しという形でイベント列車を引きながら国内外の鉄道ファンの注目の的になっている。
私は今でも機関車の運転をしているが、前のような無茶はしない。あんな試験は一回で充分だと肝に免じて人々の笑顔を運んでいる。
二一世紀特急 @bigboss3
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