マッツと写真撮影

 昼頃にユアンのサインが終わったあと、会場内でマッツの当日券を発券した私は、のんきに食事をしたり会場をブラブラしたりして夕方まで時間を潰した。

 セレブエリアは、これまでと違って静まり返っていた。それもそのはず。セレブがだれひとりとしていないのだ。列が動かないので、案内するスタッフの声もない。

 そのときセレブたちは全員、3日間の締めくくりである「グランドフィナーレ」に登壇していた。セレブエリアの壁に下がった大きなスクリーンにステージを中継した映像が流れていたので、ミュートされたその映像を眺めながら、ひたすら待ち続ける。

 結局、グランドフィナーレはちょい押して18時くらいに終了した。その時点で、私は待機エリアを含めてすでに2時間くらい並んでいた。いい加減、足は限界である。

 やっと来るぞ、という期待でちょっと空気が温まってきたころ、スタッフがマッツの撮影の参加者に案内した。

「ポーズの希望がある場合はジェスチャーで伝えてください」

 この3日間で蓄積された経験から導き出されたワードなのだろうが、言葉の奥に「お前らわかってんだろうな」という圧を感じる。ベルトコンベアを止めるな、ということだろう。また、目を合わせたまま横向きで撮影するのはNGだという案内もあった。たぶんシャッターを切るタイミングが掴みにくいのだろう。まあ、これは仕方ないのかも。

 さて、マッツとどう撮るか。

 私は昨日の撮影でユアンに「Could you give me a hug?」を言えなかった後悔を地味に引きずっていた。マッツとハグすることで、そのときの雪辱を晴らしたい。ちなみに、ユアンへのやらかしは https://kakuyomu.jp/works/16818093074263131614 で読めるのでよければどうぞ。

 しかしユアンに言えなかったことが、マッツに言えるとは到底思えない。ユアンの撮影とサインの経験からも、本物を前にした私のコミュ力はレベル12からさらに低下することが判明している。次こそは、は起こらない。私はいい加減、身のほどを知るべきだ。

 そうした経験則から私は、マッツを前にしてしゃべれるのは二語が限界だと判断した。

 Hug me.

 これでいくしかない。

 ジェスチャーはどんなふうにやればいいだろうか。両手を広げながら近づいていったら、わかってくれるかしら? 「Hug me」と言いながらやれば、さすがに通じるかな。

 そうこうしているうちに、どこかで歓声が上がった。ステージを終えたセレブが来たのだ。

 やがて、マッツの列も動き始めた。シャッターがパシャパシャ光り、列は爆速で進んでいく。

 待って速い。

 ユアンよりさらに速い。

 どういうこと。なにが起きているの。

 待っている時間はあんなに長かったのに、ブースに入るまで本当にあっという間だった。

 マッツが、いる。

 ただ立っているだけなのに、そこだけレッドカーペットみたいにキマっている。

 写真で見ても仕組みがよくわからなかった髪は、生で見ると一層ミステリアスだった。後ろはほとんど黒に近い茶色。生え際の上で小さな丘を描くシルバーの前髪は、先端の方でミルクティーのような淡い茶色に変わる。激渋と上品さの中にふわりと香る甘さ。掴みどころがない、ひと筋縄ではいかない感じがまさにマッツ・ミケルセンって感じ。

 そして、でかい。股下がおそろしく長い。顔は小さい。本当に同じ種族だろうか。

 しかし、それよりも驚くべきはその撮影速度だ。

 参加者「(自分の首に腕をからめる)」

 マッツ「(一歩下がりながら腕を広げる)」

 参加者「(マッツの前に立ち、首をマッツの腕の中におさめる)」

 パシャッ

 参加者「Thank you(去る)」

 次の参加者「(手でハートの片割れを作りながら進む)」

 マッツ「(手でハートの片割れを作る)」

 参加者「(マッツの横に立ちハートが完成する)」

 パシャッ

 参加者「Thank you(去る)」

 次の参加者「(両手で自分の首を掴む)」

 マッツ「(横を向いて両手を広げる)」

 参加者「(首をマッツの手の中におさめる)」

 パシャッ

 参加者「Thank you(去る)」

 なんてシステマチック! あいさつすらない(する人もいたけど)。

 Twitterで写真を見たときからずっと疑問だったのだ。ベルトコンベアの速い流れの中、いったいどうやって要望を伝えているのかと。なるほど、こういうわけか。

 参加者がジェスチャーを提示してから、マッツが理解して受け入れ体制を整えるまでおそらく1秒とかかっていない。その手際は、もはや職人技といっていい。

 そういえば昨日のステージで、マッツがベルトコンベア撮影について謝罪したという切り抜き記事があった。「希望者全員に会うにはこうするしかないんだ。だから先に謝っておくよ」という内容だった。ひとりあたりの交流時間を犠牲にするかわり、ひとりでも多く写真を撮ることを選択したわけだ。その結果が、この爆速ベルトコンベアだ。

 参加者は、次々にマッツに殺されて笑顔で去っていく。私が見た限りでは、女性参加者の半分以上はバックハグで殺されていた。大人気だ。

 それを見ていたら、私の中で優柔不断がむずむずしだした。

 私もマッツに殺されたい。

 ……い、いまさら!?

 なんでもっと早く言わないの! もうそこにマッツいるんだよ!

 でも、実際そうなのだ。殺されて喜んでいる人たちがうらやましくて当日券を買ったのだから、至極しごく当然の願望なのだが、なぜ今まで気づかなかったのか。我が本音よ、お前はもうちょっとちゃんと自己主張しなさい。

 Kill me.

 Hug me.

 どっちにする?

 うぅぅぅぅぅぅぅ、決められない。嗚呼ああ、優柔不断。

 そうこうしているうちに、私の番が来てしまった。前の人の撮影が終わり、マッツがこっちを向く。

 もうだめだ、決めるしかない。

 ええぃ、ハグだ! ハグでいくぞ!

 そう、私はマッツがこっちを向いてから、ようやく決断したのである。よって出だしがすでに遅れている。だが足だけはベルトコンベアに乗っていた。無意識化で完全に場の空気に操られていた私は、この速い流れを止めまいと足を進めていたのだ。

 慌てて「Hi」を言いながらハグのジェスチャーを作った。頭の中では、だっこをねだる子どものように腕を上げていたつもりだった。しかし実際はキューピーちゃん程度しか腕は上がっていなかったと思う。ギクシャクした動きのキューピーが「Hi」とにやけながら近づいてくるなんて、ほぼホラーだ。

 しかしマッツは、こんな無様な私にも優しかった。さっと右腕を広げて、私の肩を抱き寄せてくれた。

 私はそこで大人しく、マッツの優しさにすべてをゆだねておけばよかったのだ。

 しかし、ハグもどきをしたまま行き場を失った右腕が、性懲しょうこりもなくマッツの胴へ伸びていた。しかし腕を伸ばしきることもできず、手はマッツのお腹の上に不時着した。あ、だめな気がする。

 シャッターが切られた。

 マッツから離れ「Thank you」を言う。けれどマッツの顔は遥か頭上にあって、私はマッツの胸板にお礼を言っていた。

 ブースを出た私はやはり腑抜けと化しながら荷物を取り、通路を歩く。

 でき上がった写真を見た瞬間、やっぱり、と天を仰いだ。

 マッツのお腹に添えた私の右手は、お腹というよりも、もうちょっと下、ぎりぎり不穏ふおんな場所にあった。

 いっそのこと腕をぐるっと回してしまえばまだ救いもあったのに、明らかに手をから、たちが悪い。確かに手を置いたときに、なんかこう、ウェストとパンツの段差のようなものを感じた気がしたのだ。嫌な予感はしたけど、そのときにはもう手遅れだった。

 私は北欧の至宝になんてことを……!

 これだけは、声を大にして言わせてほしい。

 断じてそんなつもりはなかったんだ!

 すべては身長差のせいだ。だって、まさか人間のウェストがあんな上にあるなんて思わないじゃん……信じてくれマッツ。ほんとごめん、マッツ。

 マッツの表情も、どこか困っているように見えなくもない。もともとこういう撮影でニッコリ笑うタイプの人ではないみたいだけど、それにしても、真顔に近い気がする。無理もない。本当に申し訳ない。

 そして私の顔も、ぎりぎり事故っている。

 今すぐ消えてなくなりたい。

 アバダ・ケダブラ。

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コミュ力Lv.12がマッツ・ミケルセンに会ってきた話 朝矢たかみ @asaya-takami

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