本編
ガーランドのように吊るされたジーンズが青い空に靡いていた。ここは児島ジーンズストリート。国産デニムの聖地と言われる有名な観光名所だ。夏休み、僕は父さんと二人で観光に来た。
ジーンズストリートという名前の通り、道を歩いているといろんなところにジーンズがモチーフのものがある。看板も、マンホールも、自販機まで!シャッターにもジーンズの絵が描かれている。こういうのを見つけるだけでワクワクする。もちろんジーンズのお店も道沿いにたくさん並んでいる。お店にあるのは、履くジーンズだけじゃない。デニム素材のイケてる上着や、デニム生地で作られたお財布やポーチもある。どれもオシャレで欲しくなるものばっかりだ。
「児島のジーンズは品質がとってもいいんだ。染色から縫合まで、職人さんのこだわりがいっぱい詰まってるんだよ」
物知りな父さんがそう教えてくれた。
お店にずらりと並んだジーンズを見て驚いた。こんなにいっぱい種類があるんだ。これも父さんから聞いた話だけれど、ジーンズはわざと破ったり色を抜いたりして、着古した感じを出す加工をすることもあるらしい。そういった加工の組み合わせによって、いろんな商品ができるのだそうだ。その話を聞いて、僕も自分好みのジーンズが欲しくなった。ダメ元で父さんにおねだりしてみると父さんはひとつならいいよ、とあっさり言ってくれた。普段はおねだりしても買ってくれないのに。父さんもジーンズが欲しいんじゃないかと思ったらやっぱりそうだった。父さんは濃紺と薄色のふたつも買い物かごに入れていた。やっぱり、大人ってちょっとズルい。
大分悩んだ末に、ダメージ加工の入った藍色のジーンズを買ってもらった。紙袋を持って上機嫌でお店を出ると、前に立った父さんがにやりと笑ってこちらを見ていた。
「美味いものでも食べて休憩する?」
僕は勢いよく頷いた。
*
ジーンズストリートの中でも、ポケットパークと呼ばれるところに来た。ジーンズを履いた脚が飛び出して見えるトリックアートの描かれた壁があった。その向こうはどうやらトイレみたいだ。横にはデニム生地のようなきれいな色をした庇付きベンチがある。英語で児島ジーンズストリートと描かれているのがオシャレで、写真映えのしそうなスポットだ。父さんはそこでちょっと待ってろと僕を置いて近くのお店に入っていった。太陽がカンカン照りで暑かったので、日陰にあるベンチに座って父さんを待った。
暫くしてお店から出てきた父さんの両手には、ソフトクリームがあった。それもただのソフトじゃない。とってもきれいな淡い青色のソフト。
「見た目だけでも涼しいだろ」
父さんは僕に片方を差し出した。インディゴソフトといって、ここ限定の食べ物なのだそうだ。
「インディゴっていうのはジーンズの染料だな。インディゴブルーは、ほら、この壁みたいな色だ」
ソフトをまじまじと見る。実際のインディゴブルーよりは薄いが、それでもしっかりとした青色である。味の予想がつかない、ミステリアスな青だ。何味なのか考えていると、ソフトがたらりと零れそうになって、僕は慌てて舐めた。甘じょっぱい。何なんだ、この味。とっても美味しい。
「児島は昔、塩をつくっていたからね。それにちなんで塩バニラ味のソフトなんだって」
父さんはそう言って豪快に齧りつく。僕も負けじと大きく口を開けて食べる。爽やかな味。冷たくって生き返る。これは皆んなにオススメしたい食べ物だ。
ソフトを食べ終えると、父さんは急に立ち上がって言った。
「ちょっとそこのトイレ行ってくるけど、おまえは大丈夫か」
「全然、へっちゃらだよ。僕ここで待ってる」
父さんは、トリックアートの壁の向こうに入っていった。僕は壁にもたれ掛かって父さんの帰りを待っている間、大通りの方をぼんやりと眺めていた。通りには僕たちと同じような観光客がちらほら行き交っていて、暇潰しに何人ジーンズを履いているかを数えていたのだが……。ある時ぱったりと人が通らなくなった。
そんな時だ。あれを見たのは――。
最初は向こう側からジーンズを履いた人が来たのだと思った。薄い水色のジーンズだ。でも、何か様子が変だった。その人は靴を履いていなかったのだ。素足のまま、歩いていた。一体何でそんなことを、と目線を上げたその時、僕は恐ろしいことに気づいた。
その人の上半身がなかったのだ。
目を疑った。でも、どれだけ目を凝らしてみても、その人の腰から上は見えない。顔もないのだ。まるでジーンズショップに置いてある、下半身だけのマネキンみたいで……
そっか、あれはマネキンか。
と一瞬納得しかけたけど、いや、待て待て。
マネキンが歩くわけないじゃないか。
ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような心地がした。暑くて出る汗とは違う汗が額から滲み出して、頬を伝う。
僕は、一体何を見ているんだ……?
その下半身は真っ直ぐ大通りを歩いてゆき、僕の視界から消えた。悪い夢でも見たんじゃないかというくらい、信じられない光景だった。あれは、何……?ユーレイ、なのか?
さっきまではあんなに暑かったのに、今はとても寒く感じる。この異様な静寂が怖い。世界に僕だけしかいなくなったような静けさ。今すぐにでも父さんにしがみつきたかった。けど、父さんはまだトイレから出てきていない。そういえば、父さん、遅いな。
不安になってトイレの傍まで言って呼んでみる。
「父さーん、父さーん」
何度も呼びかけるけど、返事はない。思い切って中に入ってみるけど、姿は見えない。おかしい。どこ行ったんだ、父さん。心細く感じていると、個室の鍵が閉まっていることに気づいた。なんだ父さん、そこにいたのか、とノックしてみた。
「おーい、父さん。そこにいるんでしょ」
返事はない。その代わりにぎーっとドアが開いた。よかった、とほっとした――
のも束の間、僕は叫んだ。父さんじゃない!!
便器には確かに誰かが座っていた。ズボンも下ろさずに。そいつも下半身しかなかったのだ。さっきの奴とは違う。青いジーンズを履いていて、さっきのより色が濃い。下半身の断面が見える。つるりとした、血の通っていない肌色だった。ありったけの悲鳴を上げてトイレから飛び出す。
何なんだよあれ!!
父さんは――父さんはどこに行ってしまったんだ。不安で心が押しつぶされそうになる。だけど、大丈夫。大丈夫。怖くない。怖くない。勇気を振り絞って、もう一度トイレに忍び寄る。そーっと覗くと、さっきの下半身がいない。個室はもぬけの殻になっていた。
父さんはどこにいるんだ。それに、あの下半身だけのマネキンみたいなやつは一体何なんだ。
震える手をぎゅっと握りしめる。覚悟を決めた。僕が、父さんを探さなきゃ。
移動しようと思ってベンチに戻り、紙袋を手に取る。その時に異変に気づいた。軽い。中身を覗くと、ついさっき買った筈のジーンズが、ない。父さんのもなくなっている。確かに買ったのだ。現に、ここに紙袋がある。それなのに、どうして……。消えてしまったというのか?
もしかして……と嫌な想像が脳裏を過った。
恐る恐る大通りの近くまで歩み寄って、さっきの下半身が向かった方を覗く。
ああ、やっぱり。
通りの奥で大勢の人が群がっている。いや、あれは、人じゃない。総て、ジーンズを履いた下半身しかないのだから。あれは、人ならざるもの。皆んな揃いも揃って裸足のユーレイたち。薄い青から濃い青まで、いろんな色をしたジーンズがわらわらと道に集まっている。その中に見覚えのあるものを見つける。藍色で、ダメージの入ったジーンズ。あれは……僕の買ってもらったジーンズだ。もしかして、この大群は、皆ここで売られていたジーンズなんじゃないか。やつらが何らかの意思を持って、下半身だけのユーレイになってこうして彷徨っているんじゃないか……どうしてなのかは全く分からないけれど。
――と、その時、後ろから気配を感じた。ゆっくり振り返るとそこには――
一体の下半身が立っていた。
恐怖で声も出ない。立ちすくんだまま凝視することしかできなかった。このユーレイは、さっきトイレにいたやつじゃないか。どうして……さっき消えた筈じゃ……。
僕と同じ背丈の下半身は、しばらく止まっていたかと思うと突然歩き出した。そして、僕のことなんかお構いなしにあの大群の中に混じっていった。
何だったんだ。僕は緊張が解けてその場にしゃがみ込んだ。とにかく助かった……かと思えば、今度は大群が僕の方に向かってきていた。足を揃えて下半身たちが前進してくる。
何なんだ。何なんだよ、こいつら。
あまりにも異様な光景。僕はもう立つこともできなかった。
あぁ、僕は襲われてしまうのか。まさか……あの大群は最初は人だったんじゃないか。父さんも実は、あの中にいるんじゃないか。僕も今に――あぁ、そんな、そんなわけ……。
僕にはもう抗う術は残されていなかった。ただこれから起こることを受け入れるしかなかったのだ。目を閉じて彼らに飲み込まれるのを待つ。あぁ神様仏様……と最後の神頼みをしたのだが……。
おかしい。僕の身には何も起こらなかった。どういうことだと目を開けると、大群は僕の前をどんどん通り過ぎてゆく。ひとまずほっとするものの、ますます訳が分からない。一体何なんだ、これは。僕は何を見せられているのだろう。僕はただぼんやりとその大群の行く末を見守ることしかできなかった。
そして僕の前を全部の下半身が通り過ぎた頃だった。一番先頭のジーンズが少しだけ伸びた。下半身が宙に浮いたのだと分かるには少し時間がかかった。ジーンズを履いた下半身は、まるで何かに吸い寄せられるようにひとつずつ上に昇って行く。上を見上げて、僕はあることに気づき絶句した。
あぁ……そんな。
大通りの入り口にあった、ガーランド状に吊るされたジーンズのオブジェ。そのジーンズにも白い足がにゅっと突き出ていたのだ。
地上にいた下半身たちも次第に浮いてゆき、オブジェと同じ高さに落ち着く。空一面に血色の悪い足の裏が並んだ。なんて奇怪で、悍ましい、まさに悪夢のような光景。下半身たちは空の上でゆらゆらと気味の悪い動きをする。
ゆらり、ゆらり。
下半身たちは空に犇めき、やがて散らばってゆく。ジーンズが空を埋め尽くす。数多の青い布で継ぎ接ぎになった空。やがてそれらは互いに滲み出し、溶け合い、単色になる。世界がインディゴブルーに覆われてゆく。
ゆらり、ゆらり。
空が揺れ、歪んでゆく。
世界が、歪んでゆく――。
*
*
*
それからのことは、よく覚えていない。気づけば、僕は父さんの車に乗っていて、そこを出ていた。まるで夢みたいな、歪で異様な世界。空に立ち昇ってゆく脚の生えたジーンズたち。あれは一体何だったのか。運転席の父さんにさっきのことを打ち明けたけれど、まともに取り合ってくれない。でも、あれは確かに現実だった。気色の悪い生足の色も、頬を伝った汗の感覚も、何から何まで鮮明に思い出されるのに。どんなに必死に説明しても、うんともすんとも父さんは言わない。あれ、そういえば……。僕は車が動いていたから、つい父さんが運転しているものだと思っていたけど――
後ろから父さんの頭が見えない。
身を乗り出して運転席を見ると、そこには下半身だけがいた。濃紺のジーンズを履いたそいつは裸足でアクセルを踏んでいる。ハンドルは握る手がないにもかかわらず自然に動いていた。
あぁ――僕は分かってしまった、世界は歪んでしまったのだと。
僕の隣には、藍色のダメージジーンズを履いた下半身が当然のように座っていた。
フロントガラスから見える世界は既にインディゴブルーに染まっている。数多の下半身たちが宙を漂っているのだ。その光景に、僕は心を奪われる。
僕も、この歪んだ世界に融合してゆく。
身体が、じわりじわりと侵されてゆく。
僕の総てが今、インディゴブルーに染まろうとしている。
【了】
青藍の悪夢 見咲影弥 @shadow128
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