1-3「その背中をいつも見ていた」

 月を背景に、黒い二つの影が飛ぶ。ウィルとルシフェルだ。翼を広げ視線を真っ直ぐ羽ばたくルシフェルに、ウィルが問うた。

「おい、どこに向かってる?」

「貴様には関係ない」

「あるだろ。俺を何処に連れて行く気だ?」

「……この世の果て」

 ルシフェルが突然空中に停止した。後ろを振り向き呟く。「――きたぞ」

 その見つめる方角、はるか彼方に、ほんの一瞬の輝きが見えた。次には金の矢が、風を切る音と共に二人のすぐ横を通り過ぎる。

「ちっ……」ウィルが舌打ちする。「どこからだ?」

「教会の方……塔だ」

「まじかよ? どんだけ距離あると思ってやがる。人間業じゃねぇ」

「ああ、そうだ。普通の人間じゃない。恐らく神の子だろう」

 再び矢が一本、二本と、続けて二人を狙う。ルシフェルが方向を変えそれを避けた。射程外を目指し、全速力で飛ぶ。風切り音に負けぬよう、ウィルは声を張り上げ問うた。

「逃げ切れるか?」

「無理だな。すぐに追いつかれる」

「そうか……今すぐ俺を地面に下ろせ」

「何故?」

「いいか。俺はテメェとは無関係だ。このまま射抜かれて死ぬなんてまっぴらごめんだね」

「……そうか」

 ルシフェルは考えるように間を置いて、それからにやりと笑った。

「いいぞ、下ろしてやる。どのみち弓矢相手に空じゃいい的だからな」

「おい、まさかやめろ! ふざけ……ッ⁉」

 緩やかに滑空するルシフェルの手が、ウィルの身体を手放した。翼を持たないウィルの身体は、重力に導かれてそのまま地上に落下する。森林に突っ込んだウィルは、幾重と木の枝にぶつかって、やがて地面に追突した。

「――痛っだ‼」

 遅れてルシフェルが緩やかに地上へ降り立つ。衝撃に咳き込みながら地面を這いつくばるウィルを見下ろして、くすりと笑った。

「おや、なかなか頑丈じゃあないか」

「テメェこの野郎! 殺す気か!」

「貴様が下ろせと言ったのだろう?」

「そうだ! じゃなくてってな!」

 ルシフェルはふんと不満げに鼻を鳴らした。

「飛べない芋虫め。頭が高いぞ。ここまで運んでやったのだ、むしろ感謝すべきだろう」

「あーくそ……これ肋骨折れてんじゃねぇだろうな」

 木を背もたれに、足を投げ出して座るウィル。不意に何を思ったか、ルシフェルがウィルの上に乗り上がった。

「……んだよ」

「動くな」

 ルシフェルはウィルの体をペタペタと触りながら

「病もなし。至って健康。顔は……ガキ臭いがまぁ及第点か……」

 赤い瞳でじっとウィルを見つめる。美人の眼力に、ウィルはうっと唸った。

「触るな。どけ」

 と横へ押し退ける。

「……気味悪ぃ」

 ウィルはぶるりと大袈裟に背筋を振るわせると、懐からくしゃくしゃに潰れた煙草を取り出した。火を着け一服。ふぅと紫煙をくゆらせる。

「なんで堕天したんだ?」

「それは……」

 ルシフェルは伏目にぼそりと答えた。「ボクが、美しすぎるから」

「うぜぇ……」

「ボクは嵌められた。先導したのはミカエルだ。ボクの髪と翼を闇に染め、この瞳を血に染めた――ヤツはボクだけがお父様の寵愛を受けるのを許せなかった!」

 ルシフェルは祈るように胸の前で両手を握って

「ボクがいなくなって、お父様はさぞ苦しんでいることだろう。ボクは帰らなければならない。もう一度、楽園に……。貴様にはその手伝いをしてもらう」

「何で俺が――」

 ひゅっと音がして、ウィルの頭上、背中の木に金の矢が突き刺さった。

「クソッ鬱陶しい! ……おい堕天使! まずはあれをどうにかしろ。なにか考えは?」

「ある」

 ルシフェルは唐突にウィルの顎を掴むと、彼の口から煙草を抜き取った。流れるように唇を寄せる。触れ合う瞬間、状況を理解したウィルが咄嗟に顔を逸らした。

「何故拒む?」ルシフェルがきょとりと首を傾げる。

「当たり前ぇだろ! なにしやがる!」

「祝福を与える」

「祝ふ……はぁ!?」

「貴様のような人間でも一応は聖職者だからな。そこらの犬に与えるよりはマシだろう?」

「そもそもお前は堕天使だろうが!」

「関係ない」ルシフェルはにやりと笑うとウィルの首に腕を回した。「光栄に思え。このボクが、貴様を我が受肉体として認めてやろうと言っているのだ」

「待て待て待てちょっ……やめろ!」

 猫のように腕から抜け出すウィルに、ルシフェルは柳眉をひそめた。

「なんだ?」

「悪いんだが俺に男とキスする趣味はない」

 金の矢がすぐそこの地面に突き刺さる。二人の視線は反射的にそちらへ。

「緊急事態だ」

 ルシフェルが言外に、分かるだろう? とウィルを見た。

「……確かに、全ての天使は男の形を成して生まれてくる。が、そこに性別という概念は存在しない。堕天しようともそれは変わらん。ただの形だ。神学で学ばなかったのか?」と片眉を上げて嗤う。

「学んだ。その上で生理的に無理だっつってんの」

「くだらんな。性別なんてものは些末な問題に過ぎない。そんなものにこだわるのは人間の悪い癖だ」

 矢が飛んでくる。間一髪それを避け、ウィルが叫んだ。

「――ッ、いいから別の方法を考えろ! 例えばそう……お前が大人しく投降するとか」

 ふと差し込む月光が大きな影に遮られた。見上げた月に、空を舞う射手の輪郭が浮かんでいる。

「クソ……もうお出ましか」

 次の矢に備え、ウィルは腰の剣を抜いた。対峙する。射手はウィルに向かって射下ろそうとして、直前、はっとしたように射る手を止めた。

「兄さん……?」

 呟く見知った声。

 射手は地上に舞い降りると、ウィルの前に姿を明かした。

「――ルークス」

「どうして兄さんが堕天使なんかと……」

「あーえと、これには訳があって」

「だったらまずは武器を下ろして。できれば兄さんとは戦いたくない」

「ああそうだよな、俺もだ」ウィルは急いで剣を鞘に納めると、両手を上げて早口に言った。「つーわけで、おいクソ堕天使! 悪いがお前の提案は却下だ!」

「うるさい」

 ルシフェルはわずらわしげに溜息を吐きながらウィルの背後に回ると

「これはもうボクのものだ」

 と、背中からウィルを抱き締めた。

「ボクが欲しいならその矢で射てみろ。こいつの心臓と共にな」

 ルークスはピクリと眉を動かすと不愉快そうに

「兄さんから離れろ」

 金の矢じりをルシフェルに向ける。

「おい待……っ、ああクソッ! 俺に纏わりつくんじゃねぇ!」

 ウィルが怒鳴るも、ルシフェルはぴたりとくっつきその腕を決して解かない。ルークスに対し挑発するように笑みを浮かべている。

 睨み合いしばらく――膠着こうちゃくの末、先に諦めたのはルークスだった。弓を下ろす。

「何してるの、ルークス」

 どこからか少年の声が聞こえた。それはルークスの手にあった弓だった。弓が幼い少年の天使に姿を変える。少年は無邪気な声で言った。

「初めまして。ボクの名前はアモール。あんたに慈悲を与える天使の名前だよ」

「三級天使の名前になぞ興味はない」

 ルシフェルは翼を広げ、ウィルごと飛び立った。

 アモールはむっと膨れ面でルークスを振り返った。

ち落としてルークス!」

「……無理だ。僕には出来ない」

「やって」

「でも兄さんが……」

「やらなきゃ君の兄は地獄に堕ちる」

 アモールは言った。

「これは使命だ。黒い翼の兄弟はいらない。ボクにも、君にも――」

 そっとルークスの額に口付ける。「ボクを信じて」

 ルークスは再び弓を握った。

「……兄さん。兄さんは強い。僕は手合わせでついぞ兄さんから一本も取ることができなかった」

 青い瞳に黒い翼を捕まえる。

「でも今は違う」

 呟いて、ただ一心に弓を放った。


  *


「放せ! 俺はキスだけは嫌だからな!」

「暴れるな。大人しく――ッ」

 突然唸るルシフェル。がくりと体勢が崩れる。

 逃亡する二人の後を追い放たれた金の矢が、ルシフェルの片翼を射抜いていた。

「大丈夫か!」

「……問題ない。一々情けない声を出すな」

 ルシフェルは痛みに顔を顰めながら何とか持ちこたえた。

「心配してやっただけだろ」

 ウィルは舌打ちし、剣を抜いた。

「落とすなよ。テメェと心中なんてごめんだぜ」

 飛んでくる矢に向かい、それを振るう。

 切先は見事矢の軌道を捉えた。矢は落ちたが瞬間、ウィルの剣は無残にも砕けて折れてしまった。

「クソ! 俺の剣が……」

「馬鹿め。そんな屑石の神器で神の子の神器が切れるわけないだろう」

「――避けろ!」

 速度を落としたルシフェルの翼が再び矢に射抜かれる。墜落は免れない。ウィルとルシフェルは共に地面に向かって落ちていく。

「く……っ」

 絶対絶命のこの危機に、ルシフェルが言った。

「選べ。このまま死ぬか――ボクにその身を委ねるか」

「あぁ……最高だよ、くそったれ」

 空中で落ちながら――ルシフェルはウィルの胸ぐらを掴むと口付けた。

「良い子だ。精々ボクに選ばれたことを喜ぶんだな、人間。貴様に本物の神器とやらを見せてやる」

 ウィルの全身をこれまでに感じたことのないような熱が駆け巡る。それは心臓に向かって集まり、ウィルの胸に契約の紋章シジルを描いた。ルシフェルが額を合わせ、酷く優しい声で囁く。

「恐れるな。我は光をもたらす者。汝に、我が魂の操を捧げる。その身をよるべとし、我が剣を迎えよ」


 ルークスの目に、共に落ちてゆく兄と堕天使の姿が映っていた。二人は一つの塊のようになって勢いよく地面にぶつかる。上がる土煙――その中に、悪魔と化した兄が立っていた。手には剣が握られている。白銀の刃と、金の柄には明けの明星のように美しい赤い宝石が。兄の背には漆黒の翼が宿っていた。

「兄さん……神を裏切ったの?」

「神は男だ」

「それが?」

「男の為に命までは捧げられねぇ」

「こんな時にまでふざけないで……っ!」

「悪ぃなルークス」

「兄さんはいつもそうだ。僕の気もしらないで」

 ルークスが怒りの表情で矢を放つ。ウィルはそれを剣で――今度こそ叩き切った。連続で矢が放たれる。ウィルはそれらもすべて切りながら、ルークスに向かっていった。

「俺はもう修道院には戻れない。だから代わりに、父さんに世話になったって伝えてくれ。最後まで孝行できなくて悪かったとも」

「嫌だ、自分で伝えて」

 ルークスは兄に向かって矢を放ち続ける。

「俺に憑りついたろくでもねぇ堕天使の方はちゃんと見張っておくから。悪さはさせない。安心してくれ……つっても無理だと思うけど」

 一矢はウィルの肩を掠り、

「やめて兄さん」

 一矢はウィルの足元の地面へ刺さった。

「前から街を出て自由に遊ぶのもいいと思っていたんだ」

 目前に迫るウィルに向かって、ルークスは唸り声を上げながら矢を右手に握り振りかぶった。ウィルは素早くそれを避けるとルークスの足を払って地面に倒す。起き上がろうとする弟の喉元に剣先を突き付けて

「お前の欠点は優しすぎるところだ。やるなら次はここを狙え」

 ウィルは自身の心臓をとんと指差した。

「兄さんこそ」ルークスは覚悟を決めた鋭い目でウィルを見上げた。「何処にも行かせはしない」

「切ってやればいい。望み通り」

 囁くのは剣と成ったルシフェルだった。

「うるさい」

「召天は喜ばしいことだ。聖職者なら謹んで受け入れる」

「黙れ」

「仕方ない……手伝ってやる」

 ルシフェルの言葉の後、剣が勝手に動いた。ルークスの首をはねようとして

「――嫌だ! 消えたくない」

 受肉を強制解除したアモールが、ルークスを置いて一羽飛び出した。ウィルは力ずくで切っ先をアモールに変えると、そのままの勢いで真っ二つに切り捨てた。アモールが甲高い悲鳴を上げる。身体はボロボロと石となって崩れ、最後には動かなくなった。

「テメェ次勝手に動いたら殺す!」

 怒鳴るウィルに、ルシフェルは剣の姿を解いてふんとそっぽを向いた。

「……悪いなルークス。俺は行く。元気で」

 ウィルはルークスに背中を向けて、ひらりと挙げた片手を振った。その後を堕天使ルシフェルがついていく。

 追いかける翼も、引き止める武器も失ったルークスは、その背中をただ見つめることしかできなかった。

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堕天の品格 紫乃美怜 @shinomirei

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