1-2「信じる者は救われる」

 夕暮れの街を彷徨さまようように、ウィルは修道院から離れた下町の酒場に訪れていた。

 恰幅の良い店主のよく通る声が、ドアを潜る手前からウィルの耳に入ってくる。どうもなにか揉めているらしい。店主は店の隅、テーブル代わりの古樽を前に座る一人のお客に向けて、眉のない顔を怪訝に顰めていた。

「あ? いくらなんでもそりゃないぜ別嬪さん。金持ってねぇんなら大人しく帰んな」

「どうした?」思わず声をかける。

「よぉウィル! いや、大したことはねぇよ。ただ俺は、水は有料だって説明しているだけだ」

 そう言って見下ろす先、一人客はだんまりと椅子に座り込んでいた。汚れた一枚仕立てのフードを頭からすっぽり被っており、その容貌までは分からない。

 ――別嬪さんねぇ……。

 ついまじまじと見つめていれば、フードの奥から鋭い赤眼がウィルを睨め上げた。明けの明星の如きその輝きがウィルの両目を射止めた刹那、脊髄を貫く――共鳴にも似た高揚感が沸き起こる。思わずにやけそうになる口元を押さえながら、ウィルは言った。

「俺が払う。いいだろ?」

「そりゃ俺は金さえ払ってくれりゃあ文句はねぇが……ウィルお前、美人とくりゃあ本当に見境いねぇな」

「俺はビールね」

「あいよ」

 店主は情けない者でも見る様な視線をウィルに向け、カウンターの方へと消えた。程無くして、酒と水を運んでくる。

「初めまして、俺はウィル。君、ここいらの人間じゃないだろ。名前は?」

 言いながら無断で同席するウィルを、美人は品定めするような目で上から下へと見つめた。下から上へと戻ってくる視線に、へらりとウィルが微笑み返せば、素気なく視線を逸らされる。――沈黙。ウィルは構わず話を続けた。

「あー……君が俺を嫌っていることはよく分かった。金ないんだろ? 気前良く恵んでやりたいところだが、俺も薄給だから。良かったらここよりもっと安全で、マシな寝床を紹介しようか?」

 アリエス教区は比較的治安が良いとはいえ、いくらなんでも麗人一人、この大衆酒場は相応しくない。

 美人は無言のまま水の入った杯を手に鼻先を寄せ、すんっ――と。束の間に、そっと杯をテーブルの隅に追いやった。野生の獣が如く、全身で拒絶を示している。

「いらないの?」

 ウィルの問いに、美人は初めて口を開いた。

「不浄だ」

 太々ふてぶてしい態度と、それに反した澄んだ穏やかな声で、

「貴様、聖職者だろう?」

 と、じとりとした目でウィルを見る。

「ああそうだけど……」

 ウィルの答えに、美人はハッと鼻の先で嘲笑った。

「質が下がったものだ。まさか貴様のような人間でも聖職者になれるとはな」

 上辺にも嫌悪を隠さず言い放つ。

 ウィルは片唇を上げ、道化のように肩をすくめた。

「他はどうだか。でもまぁ、俺はそう。……てなわけで俺には迷子を助ける義務がある。仕事だ。分かるだろ?」

 なにやら外の方が騒がしく、複数の足音が店のドアを押し開けた。店内が一瞬にして静寂に包まれる。客の視線が、武装した黒い制服――聖職者らに集まった。対してウィルだけは「やっべっ」とその顔を隠すように机に伏せる。

「なんだなんだ?」

 店主がカウンターから出て彼らの前に立った。聖職者の一人――エイベルが、店主に人相の描かれた紙を一枚付き出して

「堕天使を探している。この辺りに潜伏しているとの情報を得た。名をルシフェル。特級クラスだ。何か知らないか?」

「おいおい、ここは下町の安酒場だぜ? お前見たか?」

「いいや」

「堕天使つったらあれだろ? 歩く泥人形」

 ガハガハと下品な酔っ払いの笑い声。それを機に、店内が元の活気を取り戻し始める。


「見つかったらまずいのか?」

 美人の問いに、ウィルは顔を伏せたまま答えた。

「俺は規律を乱す不純な聖職者だからな」

「逃してやろうか?」

「どうやって?」


「特級ってそんなヤバいもんなのか?」

 店主はいつも通りの陽気な笑顔でエイベルに尋ねた。

「そうなる前に処分するんだ」

 エイベルはそう言うと、店内に視線を向けた。その視界にふと制服姿のウィルを見つけて「おいそこの……」


「来い」

 美人がすっと席を立つ。凛としたその声が、ウィルの足を不思議と素直に動かした。

「待て」走り去る二人の後ろをエイベルの声が追う。

 美人は側にあった階段を迷うことなく上っていった。二階は宿になっている。適当に入った一室で、美人は唯一外へと繋がる窓を開け放った。

「急げ」

「まさかここから? 正気かよ!」

 目下飛び降りたとして、そこにはなんのクッションもない。どんなに上手く受け身を取っても、良くて骨折、悪くて死だろう。ならば処罰を受けた方がマシか――。

「おい開けろ!」

 後ろでは今まさに、部屋の鍵がこじ開けられようとしている。

「貴様は聖職者だろう?」美人はウィルに向かって言った。「信じる者は救われる」

 部屋の扉が勢いよく蹴破られた。窓より通り抜けた突風が、美人のフードを取り払う。中から黒く艶めく長髪がさらりと靡いた。見窄らしい身なりをも凌駕する美しい顔立ちが、透き通るような白い瞼を持ち上げて、神秘的な赤い瞳を覗かせる。

 その場にいた誰もが思わず息を呑んだ――瞬間

「……冗談だろっ!?」

 美人はウィルの腕を掴むと、窓から外へ飛び出した。

 ウィルの足は地を離れ、宙を踊る。思わず身構えたがしかし、予想していたような衝撃はやってこなかった。奇妙な感覚に、閉じていた目をゆっくり開ける。

「なぁ……おい……」

 ウィルは自身を半ば拉致するように連れ出した頭上の人物に問いかけた。

「お前、名前は?」

「――ルシフェル。死にたくなければ死ぬ気で掴まれ人間。落ちるぞ」

 その背より黒い翼を広げ飛ぶそれは、紛れもない堕天使だった。

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