1-1「天使は愛なくしては生きられない」

 まだ陽も昇らぬ明け方に、男は寝台から裸体を起こした。目先にかかる邪魔な前髪を鬱陶しげに搔き上げる。男の名をウィル・サンチェス。神に仕える敬虔けいけんな聖職者の一人である。

 ウィルは咥え煙草の火を消すと、床に散らばった黒い制服を身に着けて、最後に寝台を振り返った。

 そこには馴染みの商売女が、すやすやと静かな寝息を立てて眠っている。薄い布団を一枚剥ぎ取ったその下には、純白の艶めかしい肉体があって、ウィルは彼女の柔らかで大きな乳房に、優しく包み込まれるのが一等好きだった。そうすると彼女は、ウィルの赤錆び色の蓬髪ほうはつを撫でながら「野良猫みたい」と笑うのだ。

 女は乙女の様に無垢な寝顔を晒していた。まるで、先程までの不純な行いを忘れるような穏やかさである。

 ウィルは彼女を起こさないよう、階段を一人静かに降りて、酒場を後にした。


 *


 ウィルの暮らすアリエス修道院は、白い漆喰の外壁に、半円アーチの窓がはめ込まれた美しい石造りの建造物で、町の中心部に位置している。男子のみで構成される全寮制の修道院は、同時に神学校としての役割も兼ね備えており、早い者で十になる頃にはここへ入学する。ウィルもそうだった。

 入学後は共同生活をしながら、予科二年のうちに一般教養を学び、終了と同時に洗礼を受け修道士に。次いで本科六年のうちに神学の他、哲学、聖書解読に必要な語学、教会史、武術などを学ぶ。この最終年にあたる年に、聖職者見習いとして先輩の下について実務経験を積んだら、後は卒業試験に合格し、聖職位を授ける儀式「叙階じょかい」を受けて、晴れて一人前の聖職者と認められる。


 柱と柱の間から、朝日が差し込んで、ウィルを横から照らしていた。

 修道院の朝は早い。

 院の暮らしはウィルにとっては窮屈だった。貞潔・清貧・従順を神に誓う修道会に所属している以上は当然、酒も煙草も禁止されている。ましてや女と遊ぶなんて破門もいいところだ。

 周囲はウィルの不真面目さをとっくの昔に知っていた。それでも院を追い出されないのは、ひとえに慈悲深い修道院長のお陰だろう。

「やあ兄さん、また無断外泊?」

 欠伸を溢すウィルの背中に、弟ルークスの若く柔らかな声がかかった。

「親父には内緒な」とウインクで返すウィル。

「それは構わないけど……酷い臭い」

 ルークスは眉間に皺を寄せた。煙草と酒と甘い香水の残り香は、嗅ぎ慣れぬ者にとっては鋭く感じる。

「あんまり分かりやすいと、流石の父さんでも庇いきれないよ」

「っても、仕方ねぇだろ? 女の方が放っておいてくれない」

 ニヤリと笑うウィルに、ルークスは慣れた様子で溜息を吐いた。

「冗談はやめてよ、兄さん。僕は本気で……」

 長いお小言が始まる予感に、ウィルは煙でも払うように両手を振った。

「よしてくれルークス。清々しい朝に、可愛い弟の口から親父みたいな説教は聞きたくない」

 大袈裟な仕草で耳を塞ぐウィルに、ルークスがまだ何か言おうと口を開く。しかしそれは、背後からの野次に遮られた。

「おいウィル、聞いたぞ! また昇級試験に落とされたってな! 今度は何して司祭を怒らせた? ズラでも剥いたかー?」

「うっせぇな! 違ェよ!」声を張り上げ言い返すウィル。

「院長の息子なのに情けねぇ」

「ルークスの爪の垢でも煎じて飲ませてもらえよ」

 ウィルは、同期達のからかいも背中で適当に受け流しながら

「おー、いつかな!」

 と、全く気にしていない様子で先を歩き続けた。

「……司祭が悪い」 ルークスがぼそりと言う。「兄さんは実力だけなら一級でもおかしくないのに」

 聖職者は三つの階級に分かれている。下級から始まり、中級、上級へ。昇級には試験の他に、中級に上がる際には教区司祭の、上級に上がる際には教区司教の推薦が必要となる。ウィルはこの司祭に嫌われているため、十八の時に卒業して約八年、階級は一向に下級のままだった。

「ありがとう。お前くらいだよ、そんなこと言うのは」

 思わず笑みを零すウィルを横目に、ルークスは少し考える素振りをすると

「父さんに言ってもらえば?」

 実にあっけらかんとした調子で言った。優等生らしからぬ弟の発言に、思わずウィルの方が面食らう。

「馬鹿言え。流石の親父もそこまで甘くねぇよ」

 アリエス修道院の院長である父は、同時にこの教区の司教の任も担っている。彼の言葉であれば、立場が下である司祭は従うだろうが、職権乱用だ。そこまでしてもらう義理はない。

 はっきり言って、ウィルは出世に興味がなかった。聖職者になったのも、ただそういう環境で育ったからであって、志も夢も、何もない。唯の一度も――ウィルには何もなかった。

「ところで兄さん、この後の予定は?」

「飯食ったら〝駆除〟と見回り」

「そっか。忙しいんだね」

「何か用か?」

「いや、大したことは……。にしてもこの頃、堕天使の数が増えたね。中には知恵を持った者もいるって」

「天の方針が変わったんだろ」

「気をつけて、東方の街では悪魔主義のレジスタンス集団が結成されたって噂だよ」

「おうおう」

「真面目に言っているんだ。心配なんだよ、兄さんが……」

「なんだよいきなり……なんかお前、変な物でも食ったか?」

 ウィルの問いに、ルークスの足が止まる。ウィルも足を止め、ルークスを振り向いた。

「聞いて、兄さん」

 ルークスは一呼吸の後に、どこか遠くを見つめる様な平坦な声で言った。

「……僕、〝召命しょうめい〟を受けたんだ」


 *


 この世界は至高の唯一神によって統べられている。神に仕える穢れなき天使らは、神を愛し、神に愛されるために生きている。天使にとって、神に愛されることこそ、最大の幸福なのである。

 天使は愛なくしては生きられない。

 神の愛を強く受ける天使ほどその位は高くなり、反対に、愛に飢える天使ほどその身を地へと堕とすことになる。堕ちた天使が人に宿った時、その者は悪魔と呼ばれ、世界を破滅に導くとされている。


 聖職者の仕事は大きく分けて三つ。

 一つ目は、人々に神の言葉を伝え、教え、導くこと。

 二つ目は、神のしもべとして政を執り行い、人々を管理すること。

 三つ目は、神の名の下に秩序を維持し、神への敬信を保持すること。

 この三つ目にあたる仕事の一つに、堕天使狩りがある。

 堕天使といっても、そのほとんどが天に昇ることすら許されなかった失翼の欠陥品で、姿は醜く、人格を持たない。それゆえに攻撃性もないため、通常であればその辺に漂う空気のように無害である。

 ただしこれらには、人の欲望に引き寄せられる特性があり、万が一堕天使が人に憑りつけば、その者は悪魔と化してしまう。悪魔は攻撃性が強いため、当然放っておくことはできず、その上力と知恵を得た分、対処も厄介になる。

 そうなる前に駆除するのが、ウィルの主な仕事だった。

 仕事は楽だ。専用の武器さえあれば、ガラクタ壊しなど子供にでもできる。ウィルは得物の剣を手に、徘徊する堕天使を頭から二つに叩き斬った。

 かつて天使だったものは、切られたところから石膏像のようにボロボロとその体を崩れさせてゆく。ウィルは粉々になった天使の残骸の中から、美しく輝く二つの石を拾い上げた。どんなに醜い天使でも、その瞳だけは宝石の如く美しい。この宝石こそが、堕天使を破壊する武器精製の要となるのだから、皮肉なものだ。

 堕天使及び悪魔の肉体は、人の武器では擦り傷すら付けることが叶わない。天使の瞳を武器に埋め込むことで、初めてそれを可能とする。ウィルの剣は、天から授かったそれはそれはありがたい神器なのだ。

『召命を受けたんだ』

 ――ルークスの言葉が頭を過ぎる。

 天使は祝福を授けるために、度々下界に降りて人を選別する。男であれば〝受肉じゅにく〟と言って、天使の翼と武器を与え、女であれば〝受胎じゅたい〟と言って、天使を産み出す神の聖液を与えられる。祝福を受けた男は神の子、女は聖母と呼ばれ、天より約束された未来と栄光を得ることができる。

 穢れを忌み嫌う天使にとって修道院という場所は、神のしもべを育むと同時に、自らに相応しい相手を効率良く見つけるための箱庭の役割を担っていた。

 召命された優秀な聖職者の中から、実際に祝福を受けるのは天使一羽につきただ一人。もしも、まだ神学校を卒業したばかりのルークスが選ばれれば、十八歳――史上最年少での大出世ということになる。

『良いことじゃねぇか。天使は相当な面食いって噂らしい。お前なら選ばれるよ、ルークス』

 口をいて出たのは本心だった。

 弟のルークスは生まれた時から秀でていた。光のように輝く金髪、天と同じ青く澄んだ瞳。対してウィルは、髪も瞳も赤錆色で、小さい頃はこれで不吉だ悪魔の子だと揶揄からかわれていた。

 勉学においても不真面目なウィルとは違い、ルークスは入学から卒業までに至る首席の座を、一度も誰にも奪わせなかった。

 そういうわけで、周囲がウィルをサンチェス家の面汚しと呼ぶのも当然の成り行きである。

 しかしウィルがそれを気に病むようなことはなかった。何故なら自分には、サンチェス家の血が一滴と流れていないのだから。

 ウィルは生まれてすぐ、修道院の門前に捨てられた。孤児である。――寒い冬の朝だった。あともう少し見つかるのが遅かったら、恐らく死んでいただろう。

 そんなウィルを引き取り、我が子として育ててくれたのが修道院長だった。

 ウィルには生まれた時から何もない。

 父はそれでも、自分を息子と呼んでくれる。

 弟はそれでも、自分を兄と呼んでくれる。

 むず痒くて――それが時々、我慢ならなかった。

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