ネフの子ら

王子

ネフの子ら

 天の水門から降り注ぐ雨は四十日続いた。大洪水は地上の命をことごく押し流した。神の民と二人のネフの子ら、そして雌雄七つがいのあらゆる動物達は、神の仰せ付けにより造られた方舟に乗っていた。百五十日のあいだ地表を覆っていた水がようやく乾き、生き長らえた者達は方舟の外へ出た。

 神は、ネフの子らに御使みつかいを遣わされた。ネフの子らである兄のエルと弟のルヨは、御使いを見ると神への敬意を示してひれ伏した。御使いは兄弟に告げた。

「神は云われた。幼き信仰を抱き方舟に乗った子よ。大洪水を免れた汝らに掟を与える」

 兄は地に伏したまま「御心みこころのままに」と言った。弟も「御心のままに」と兄に倣った。御使いは続けて言った。

「掟は次のとおりである。一つ、神の民の為の土地に踏み入るなかれ。汝らが親から引き継いだ罪は重く、罪がそそがれぬまま立ち入り、神聖な土地を穢すことのないためである。二つ、子を成すこと勿れ。汝らに流れる暴虐の血を殖やすことのないためである。これらの掟を心に留めよ。この掟が忘れられたとき、神の怒りが火となって臨むであろう」

 兄弟は「仰せのままに」と答え、御使いが去るまで地に伏していた。このとき兄エルは十歳、弟ルヨは七歳であった。


 天使達は人間の娘達が美しいことに気付くと、人の住む地に下って彼女達をめとり、子を成していった。これがネフの民の始まりであり、そこから生まれた者達はネフの子らと呼ばれるようになった。ネフの子らは力が強く、非常に邪悪であった。人間を脅して奪い、逆らう者は殺した。残虐な魂はいよいよ殖え広がり、人の世は手の施しようがないまでに堕落していた。

 神は地上に起きた事柄を嘆かれ、神の民の代表者に告げられた。

「私は、私が造った全ての生けるものを地から拭い去ることにした。汝ら咎無き民は、汝ら自身のために方舟を作れ。いまに地に大洪水を起こし、全ての肉なるものを滅ぼすからである」

 神の民は、神の言われたとおりにした。方舟を建造する傍ら、神の滅びが臨むことを人々に告げ知らせた。悔い改め、神に従うようになる者を方舟に乗せるためである。

 神の民の他に、改心し神に忠誠を誓うようになったのは、二人の男兄弟だけであった。ネフの子ら、エルとルヨである。こうして神の民と二人のネフの子らは生き延びたのである。

 神の民もまた、ネフの子らを神聖な土地に立ち入らせないよう命じられていた。エルとルヨが踏み入ることのないよう境界を設けた。

 ネフの子らは何も持たず荒野を彷徨うことになった。大洪水により木々も家畜も全て流され、腹を満たすものは何も無かった。二日経ち、弟ルヨは泣きながら兄に訴えた。

「このままでは遅かれ早かれ僕達は飢えて死ぬことでしょう。なぜ神は、私達を方舟に乗せたのでしょうか」

「弟よ、そのような不満を口にしてはならない。神は公正な方なのだ。我々が荒野を彷徨うのは親の罪による。神に非は無いのだ。神はご自分に信仰を示す者を必ず救われる」

 そこへ、掟を告げた天使が再び二人のもとへやって来た。兄弟は身をかがめ、神を畏れ続けていることを示した。

「神は云われた。苦境にあっても神を呪わなかった子らよ。汝らは信仰の火を絶やさなかった。行って、神の民を救え。但し、私がよしとするまで引き続き掟を破ること勿れ」

 二人は立って神の民の土地の前まで来た。神の民が引いた境界の外側で夜を明かした。

 エルが夜明けと共に起きると、兄弟が寝ていた周りには、霜のように見える白い粉が降りているのを見た。

「これは何であろうか」

 指でつまんで口にしてみると、それは甘く、すぐに腹が満たされた。エルは弟を起こすと「神が天から食糧を与えてくださった」と、ルヨにも与えた。兄弟が食べ終えると、大地に溶けてそれは無くなった。二人はこの天からのパンをマーナと呼んだ。

 神の民は、エルとルヨが自分達の土地のすぐ近くをうろついているのに気付いた。

「神から与えられた掟を忘れたか。神聖な土地に踏み入ってはならないと言われたではないか」

 エルは答えて言った。

「もちろん神の土地を汚すことはしません」

 神の民はエルとルヨを恐れた。子供とはいえ力の強いネフの子らが、皆が寝静まった頃を見計らって襲ってくるのではないかと考えたのである。それで神の民達は、エルとルヨに向かって石を投げ始めた。

「地上に多くの血を流した者達よ、立ち去れ! 殺戮の子らよ、立ち去れ!」

 エルはルヨに覆いかぶさり、ひたすら耐えていた。言われるままにそこから離れれば、神からの命令に背くことになるからであった。人々のそしりと投石はしばらくの間続き、境界の前に選ばれた屈強な男達が手に武器を持って並んで立った。ネフの子らが決して境界を越えられないようにするためであった。それを見て神の民はようやくそれぞれの家に戻っていった。

 夜になっても、境界には番をする男達が交代で立っていた。

 神の民を救うとはいったい何のことであろうかとエルが考えていたとき、女の悲鳴が聞こえた。番をしていたうちの一人が確かめに向かった。戻って来た男は大変取り乱しており、他の男達に「熊だ! いまだ見たことの無い巨大な熊だ!」と叫んだ。

 その間に熊は何人かを既に捕らえており、そのはらわたを貪り食っていた。襲われた人々は、昼間、兄弟に石を投げた者達だった。

「汝らが土地に入るのを今だけ許す。災いに立ち向かい、神の民を救え」

 エルとルヨは天からの声を聞き、立ち上がった。番をしていた男達は武器を振るおうとしたが、御使いがその手を留めた。男達は非常に恐れた。彼らには御使いの姿が見えなかったのである。それがエルとルヨのまじないだと考える者もいれば、神の大いなる力によるものだと理解した者もいた。

 兄弟が熊の前に立ったとき、辺りは多くの血に濡れていた。熊は成人したネフの子らよりもずっと大きく、爪と口から血を滴らせていた。エルは心の中で神に祈った。

 ああ神よ、どうか私達兄弟に立ち向かう勇気を与えてください。私達の力で熊を打ち倒すことは敵わないかもしれませんが、この命が尽きるまで耐え忍べば、神の民が逃げおおせることはできるかもしれません。どうか、神の民に、あなたのご加護がありますように。

 熊はまず、ルヨに狙いを定め襲いかかった。エルがその前に割って入った。鋭利な爪がエルを裂こうとしたとき、御使いが熊の体を縛った。

「神は汝の祈りに応え、力を与えられた」

 エルは足元にあった石を手に取り、熊の額めがけて放った。石は熊の額にめり込み、仰向けにさせた。エルが近寄ってみると、熊は確かに死んでいた。


 こうしたことの後、神の民はネフの子らに対する見方を変えるようになった。

 神は兄弟に三たび御使いを送った。兄弟は変わらず神を正しく畏れ、平伏した。

「神は云われた。私の命に従い恐れに立ち向かった子らよ、汝らに一つの予言を与える。汝らの罪、すなわち親から引き継いだ罪であるが、我が子の血によって濯がれるであろう。与えた二つの掟を守り、信仰を持ち続け、その恩寵に与れ」

 二人はまだ、この神の奥義を理解することはできなかったが「ご意思のとおりに」と引き続き忠実を誓った。

「頭を上げ、空を見よ」と御使いは言った。

 兄弟が空を仰ぐと、虹がかかっていた。

「これは予言の成就を約束するものである。信仰を抱き続けよ」

 それから神は、エルとルヨにご加護を与え続けられた。地上に作物や家畜が戻るまでマーナを与えられた。病や災害により二人が命を落とすことのないようにされた。

 エルとルヨがそれぞれ百二十歳となり世を去るまで、神は兄弟と共におられた。

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