色のない獣

九十九

色のない獣

 月夜に照らされて赤色が飛び散る。獣に首を喰い千切られた人間は既に絶命していた。冷たくなったそれを獣が貪れば、色の無かった獣はやがて赤く染まった。

 少女が空を見上げれば、太り始めた月が見下ろしている。

 もう直ぐだ。もう、直ぐそこまで、儀式の時が迫っていた。

「おいで」

 呼べば、赤く染まった獣はすぐに少女の元へとやって来た。

 鼻を鳴らして、べろり、と長い舌で少女の手を舐める。少女の手が赤く染まり、それを綺麗にするように更に念入りに舐められた。

「いい子」

 舐められたのとは反対の手で背伸びして獣を撫でれば、獣は嬉しそうに鳴く。

「もう、帰ろうか」

 少女が声を掛ければ、獣は少女を囲うように身を寄せ、とぷん、と影の中に沈んでいった。


「色のない獣を知っている?」

 夕日で焼けた教室の中、三日月に形作った女生徒の唇が囁く。

 女生徒の校則違反の赤い口紅がまるで人を食べたみたいだ、と少女は、ぼんやり眺めていた。

「姿の見えない獣は、人を喰って赤色に染まるんだって。儀式が近いとね、決められた家の人間が喰われるの。あなたは知らなかっただろうけれど、あなたの家は決められた家なの。だって爪弾きにされてるんだもん」

 くすくす、と潜めた笑い声が、背後の女生徒たちの中から溢れた。

 怖がらせたい、きっと怖がっている、そんな感情に取り囲まれて、少女は困ったように眉尻を下げる。

 噂話で聞いただけの話、真実を含んでいながらもボタンを掛け違えた話に、そう怖がれはしない。

 けれども女生徒達は少女の表情を怯えていると取ったらしい。くすくす、と笑い声が一層響く。

「だから、気を付けてね」

 それは、次はお前がきっとそうなる、と言外に含んだ声音だった。 

 己らの秘密の話を信仰してくれない少女への、未だ大人になりきれぬ幼さ故に蒔かれた敵意が、柔く少女を刺す。

 普段であれば大した棘にすらならないそれは、けれども時期が悪い。

 嗚呼、と少女は自身の影に視線を落とした。影の中で獣が目を細めている。贄が選ばれる理由なんてのは、案外、些細な事だった。

 いつもは聞き入れてくれている、食べちゃ駄目、も儀式に関わっているから聞き入れてはくれないだろう。

「うん、有り難う。皆んなも気をつけてね」

 鞄を背負って少女は微笑んだ。選ばれてしまった者相手に気を付けてね、なんて薄っぺらい言葉だと、少女は自嘲する。けれどもそんな言葉を口にしてしまったのは、同級生と言う僅かな繋がりを持つ女生徒達に同情したからだ。

「じゃあ、また、ばいばい」

 取り囲む女生徒達の間を擦り抜けるようにして、輪から離れる。口から出かかった、また明日、は飲み込んだ。

 教室の扉を閉めるその時見た女生徒達は、焼ける夕日で赤く染まっていた。


 夕暮れがなりを潜め、夜の藍色が降りたばかりの時間帯、影の中で獣が鳴いた。

行こう、行こう、と今にも走り出してしまいそうな獣を、少女は影を撫でて宥める。

「そうだね。行こうか」

 部屋の窓から見下ろした町、未だに夜になったばかりの町には、まばらに灯りが灯る。窓を開けて、すん、と鼻を鳴らせば、どこかの夕飯なのだろう匂いがした。

 少女の背後で影が揺れる。ゆらゆらと不定形に揺れた影はやがて獣の姿となり、姿の見えぬそれがずるりと這い出て来る。

 少女の背中側に這い出たそれが、小突くように頭を擦り付けて来るのを、少女は後ろ手で撫でた。

 少女の部屋には少女が一人と姿の見えぬ獣の気配だけが息づいていた。

   

「どうして」

 震える声はか細く、普段少女が耳慣れているものとは随分と遠い声だった。

 息を切らした女生徒は、肺が苦しいだろうに、蹲ることもできずに呆然と立っている。その顔色は青を通り越して白く、夜の中でもその色は目を引いた。

「どうして私が」

 唇を戦慄かせ、女生徒が言う。信じがたい現実を前に下唇を噛み、必死に正気を保とうとしていた。下唇を噛みでもしなければ、叫び出してしまうのかも知れない。

「私、何もしてない。私の家は決められた家じゃない」

 震える声で彼女が言う。どうして己がこんな目に遭うのか分からない、と怯えを含んだ目が少女とその傍の姿の見えない獣を見ていた。

「儀式が近いの」

 教えなくても然程問題のない理由は、けれどもそのまま死にゆく女生徒に同情していたが故に向けた、少女の最期の手向だった。

「決められた家なんて、本当は無いの。この町の血脈全てが、あなたの言う決められた家だった。でもね、喰うのは血を持っている者であれば誰でも問題は無かったのだけれど」

 儀式に必要な贄の血脈。昔犯した過ちゆえに家の者誰か一人が食われる血筋だとされた彼らは、長い時を経て増えていった。結果として町の人間は皆、贄に必要な血を引いている。

 本来であれば、その血が通っているならば、誰でも良かったのだ。昔はもう少し違かったが、今は例えば、死を間近にした者、鼻つまみ者、あるいは最初の血に近しい者、そう言う人間を選んでいた。

「けれど、あなたは、あなた達は獣に選ばれてしまった」

 指を指せば、女生徒の身体が震えた。どうして、と小さく唇が動き、壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返す。

「選ばれたのは些細な理由だけれど、小さな棘でも、自分の大事なものに刺さってしまったら、抜いてあげたいものでしょう? この子は私に刺さる棘をいつも退けてくれてた。あなた達が選ばれた理由もそれ」

 傍で喉を鳴らす獣の頭を少女は撫でる。

 ここに来るまで獣によっておもちゃのように追われていた女生徒は、空を撫でる少女の手を、そうしてその先を恐怖に滲んだ目で見ていた。

「じゃあ、じゃああなたは? あなただって町の人間の一人なのに」

「私は、ここにあった村の人間だったけれど、血脈が継がれたこの町の人間ではないの。あの家にずっと、昔から居るだけ」

「どう言う」

「私はずっと獣の側の人間というだけ。人間だったもの、かも」

 言われた言葉の意味を全て飲み込めない混乱と、けれども確かに少女との間に引かれた線引きに対する更なる恐怖が女生徒の表情からは読み取れた。

 ふらり、と女生徒が一歩後ろに退く。無意識に、崩れ落ちそうな身体を支えるような後ろへの一歩は、それで女生徒の意識を戻したらしい。

 女生徒は一息に振り向いて、走り出した。

 その後ろ姿をぼんやり眺めていた少女を傍の獣がせっつくように頭で突く。

「うん、いってらっしゃい」

 頭をひと撫ですれば、獣が駆け出す。女生徒が駆け出した距離は、獣の一足で簡単に詰められた。

 空気が揺れたのを感じたのだろう、女生徒が絶望に染まった顔で、横を見る。

「あ゛」

 それは空気を吐く時に喉が締められて自然と出たような音だった。

 瞬きの間に獣の牙が女生徒の喉元を噛みちぎり、赤色が溢れる。あらぬ方向に曲がった首に、力無く投げ出された四肢が地面へと押し倒された。

 夜の暗闇の中、肉を喰い千切る音が響く。

 絶命した女生徒の細い身体から赤色が飛び散り、肉が喰まれれば、獣の身体は赤い輪郭を持った。獣の牙から口へ、頭から首を通り、そうして前足から尾の先へと、水に墨を垂らしたように赤色に色付いていく。

 咀嚼し、全てを飲み込んだ頃、色のない獣は、赤い獣へと姿を変えていた。

「おいで」

 べろり、と口の周りを舌で舐めとる獣を呼べば、獣はいつものようにすぐに少女の元へとやって来た。その頭を撫でてやる。

「良い子、良い子だね」 

 少女は微笑めば獣が笑った。


 夕焼けに染まった教室。数日前と変わらぬ色に支配された教室の中で、幾つもの花が咲いていた。一本一本、花瓶に活けられた花は、皆同じ白色をしている。

 少女が教室の窓から空を眺めれば、地平線に触れそうな高さに満月があった。

 もう直ぐ儀式が始まる。

 少女は微笑み、鞄を背負って、教室を後にした。

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