やめろ

煙 亜月

やめろ

 右手の手のひらをまえに出し、さらには何かあったときに反撃か、少なくとも防御はできるよう身体を拭いていたバスタオルを左手に持つ。


「それはちょっとひどいんじゃない? ひとを殺人鬼みたいに。」

 そういった美咲の目には光はなく、死刑囚か、死んだあとの死刑囚の様相でしかし、その形容はまったくもって正解であることを彼女の足元の死体が裏付けた。包丁は同居しているおれの母の右目から頭部へ深々と刺さり、血糊で滑ったのだろう、抜けずにそのままにされてあった。風呂上がりで全裸のおれは美咲を刺激しないよう、同時に手にタオルをぶら下げたままじりじりと後退する。


「どうしたの純? もしかして、これ見ちゃったの? あたしが帰ってきたときにはこうだったの。包丁刺さっててかわいそうだから抜こうとしたの。でも全然抜けなくてさ。それで、警察呼ぼうと思って携帯持っても、どうにも血ですべっちゃって。

 でも大丈夫、その三徳が、っしょ、なくても(美咲は死体をどかして流しの下から包丁を取り出し、両手に持つ)、ペティも出刃も、あるからね。警察が来てもあなたを守れるわ。あたしね、世間とかマスコミがどういおうと、あたしはあなたを死ぬまで守る。だからこっち。来て。一緒に逃げよう?」


 もはや美咲の目には涙すらたたえ、悲痛な面持ちでおれを見ていた。


「それであたし、あなたとならどんな凶悪犯にでもなってやる。ほんとうにあなたがもうダメってときにはあたしも一緒に逝く。

 ——憶えてる? ええと、セントエルモスデュー? で、式挙げたじゃない。そこの神父さんの誓いの言葉。あなたが——あれ、なんだっけ、うん、とにかく運命共同体なのよ、あたしたち(ごと、とテーブルに二本の包丁——ペティナイフと小出刃が置かれる)。


 だから、あたし肚括った。もし今ここで心中するなら——付き合うよ(といいつつ涙を拭こうとする。たちまち血液が目に沁みて大粒の血の涙がこぼれる)」



 ——何なんだ、この、惨劇は。実母が妻に刺殺されて、挙句夫のおれまで命が危うくなっている。だが妻の手は血液でぬるりと滑り、その目もまた血液が沁みてホラー映画のような血の涙が止まらなくなっている。


 今すぐ逃げるべきだ。

 本能がそう告げ、念願のマイホーム——郊外によくある平屋造のちょっとした邸宅——が惨状でもう帰りたくないと思えたとしても。早く出ろ、こんな家に留まっていてはいずれ、死ぬ——つまりは、そういうことだ。風呂上がりで全裸だったとしても、殺されるほどの危険性はないはず。だから大声で喚きながらでも何でもいいから早く外に


 ふと自分の右手を見る。

 長年の職人稼業でごつごつとしており、短く切り揃えられた爪は——

 爪は、赤い血が爪の間に入り、まだ鮮紅色に近い色をしていた。


 左手も見る。やはり爪の間に血糊が溜まり、手に持っていたタオルにもシャワーで落としきれなかったか、いや、かなりの量の血がべっとりと付着している。——おれはなぜこんな時間に風呂に入っていた? 仕事はどうしたのだ。仕事——手の震えが止まらなくて、酒を少し飲めばマシになるから、とそのはずがだんだん酒量が増えて——妻へと視線を戻すと彼女は歯を食いしばって荒い呼吸をつきながら、布巾で柄を覆った小出刃を喉元に当てていた。



「やめろ」

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