男と女の間には……
土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり)
目に見えなくてもたいせつなこと
「ヨシノ、大切なものは目に見えないんだよ」
「すかしっぺがバレるたび、『星の王子さま』のセリフを言うのはやめてください、サブロウ先生! サン=テグジュペリがあの世で泣いていますよ!」
「悪い悪い、冗談だ」
「だいたい、チカさんとカズマさんがいないからと言ってサブロウ先生はだらしなさすぎます! 今日という今日は言わせてもらいます!」
ヨシノはサブロウに不満がいろいろあるようだ。身長187㎝の長身のヨシノが腕組をして身長165㎝ほどのサブロウを見下ろして睨んでいるから迫力がある。とはいっても可愛らしい童顔なので怒った顔でも全然怖くはないのだが。
「どうした? 言いたいことがあるなら言ってみろ」
「サブロウ先生はトイレの使い方が汚すぎます」
「どこがだ?」
「とぼけないでください」
「いや、ほんとに言っていることの意味が分からないのだが?」
「まだ
ヨシノはサブロウの手を取り、引きずるようにずんずん歩いてトイレに向かう。
「見てください。サブロウ先生が使った後はこんな風にトイレの床におしっこが飛び散っていることがとても多いんです。ほら!」
ヨシノはクリーム色のトイレのフロアを指さして言った。
「え? どこに?」
「まだしらばっくれるんですか、あんなに飛び散っているじゃありませんか」
「ごめん……本当に見えないんだ」
「ええ? サブロウ先生本当に?」
「ああ、ここからじゃ見えないな。どれどれ」
サブロウはトイレの床の上でしゃがみ、更に這いつくばるようにして床の観察を始めた。
「サブロウ先生、大丈夫ですか……」
「ん? なにがだ。おお、本当だ。あったあった。ヨシノの言うとおりだ。さすがにヨシノは目がいいなあ。ごめん。俺が悪かった。今すぐ掃除するよ」
「そんなことよりサブロウ先生、今すぐ病院に行きましょう!」
ヨシノが青ざめた顔でサブロウを見つめている。
「ええ? どうしてそんな結論が出てくるんだ?」
「あんなにはっきり見えるおしっこの雫が全然見えないなんて、きっとサブロウ先生の目に、ひょっとしたら脳の方に何か異常が起きているかもしれません。すぐに精密検査を受けて調べてもらいましょう。目が見えなくなったら大変です」
「わかった、言いたいことは分かったから落ち着けヨシノ!」
「これが落ち着いていられますか! わたしは真剣に心配しているんですよ!」
ヨシノがぽろぽろと涙を流し始めた。
「大丈夫、大丈夫だから。これは病気じゃないんだ。ヨシノ、俺を信じてくれ! ちゃんと説明するから、泣くな」
「本当に、病気じゃないんですか? それともわたしをからかってふざけているんですか!」
ヨシノが声を荒げる。
「病気でも悪ふざけでもないんだ。これは男女の色覚の性差なんだよ」
「色覚の性差?」
「そうだ。すべては性差のせいさ、なんちゃって」
「蹴りますよ」
「ごめん、ごめん。でも嘘じゃないぞ。女性のほうが男性よりも青・緑・黄色の認識能力が高く、微細な色の違いを識別するんだ。女性には、はっきりと別の色と認識されていても、男性には同じ色に見えていたりするんだ。病気のせいじゃなくってもともとそうなんだ」
「本当にそうなんですか?」
「ウチでもマンガのカラーページの色塗りはヨシノとチカに任せているじゃないか」
「それってただ先生が面倒くさいからじゃあないんですか?」
「けして面倒なだけじゃあない。俺よりも二人の方が色彩感覚が豊かだからだ」
「なんだかなあ」
「それにヨシノは前にテストをしたら4色型色覚タイプの可能性が高いと出たじゃないか。多分錐体細胞が4種類の波長に対応しているんだよ。だったら普通の3色型色覚タイプ俺の100倍くらい色の識別に敏感なはずだ」
「ああ、そういえばそんなこともありましたね」
「一般論だが女性の方が色の微妙な違いが気になるんだ。例えば、白内障の手術は眼球から濁ってきた水晶体を透明な人工のレンズに取り換えるんだ。濁った水晶体は見るものにセピア色をかけている。それが透明になると、そのセピア色が抜けた世界の色が青っぽく見えるんだ。そのことに違和感を感じる人のほとんどが女性だ。そして自分が地味な落ち着いた色だと思ってきていた服がド派手な原色に近い色だったと気づいて落ち込む人もいる」
「それは悲劇ですね」
「男性でそんなことをいう奴はいないなと知り合いの眼医者が言っていた」
「男の人はお気楽でいいですね」
「それはそうと逆に視覚で男性のほうが女性よりも優れている面もあるぞ。突然の動きや素早く変化する映像を識別する能力は男性の方が優れているらしいんだなっと」
パシーーーーン!
サブロウはトイレのスリッパを拾い上げるとバックハンドで壁を走るGに投げつけた。
「あっ。逃げた」
「ちっ。外したか。まあ、そんな男女の視覚能力を比較する実験をした結果色々なことが分かったんだ。そんな性差ができた理由も狩猟採集仮説でうまく説明がつくんだ」
「どういうことですか」
「先史時代で狩猟を行っていた男性は天敵である捕食者や獲物かもしれないものを遠くから見つけて識別・分類することに秀でていなければならなかった。逆に採集者であった女性は野生の木イチゴなど、身近な動かない物体の詳細な認識により適応して進化していったというわけだ」
「はあ、なんとなくわかります。サブロウ先生、わたしが今日チークの色をいつもと違うのに変えても全然気づかないですもんね。わたしにもう関心がなくなったのかと寂しく思っていました」
「ええ! そうだったのか! いやいや、ヨシノに関心がないだなんて、そんなことは金輪際、絶対にないぞ! 絶対にだ!」
「はい、はい。よくわかりました。男の人は色に鈍感なんですね。でも今度からはトイレを汚さないように、ちゃんと便座に腰かけておしっこをしてくださいね」
「いやあ、そうは言うがなあ。立ってしないとした気分にならないというか、ほら、タイみたいに便器から蛇が頭を出して睾丸をかむだなんてことがあったら怖いじゃないか」
「……ふう。サブロウ先生。先生は立ったままうんこをするんですか?」
「いや、普通に便座で座ってするぞ」
「そうでしょう。別に怖くはないでしょう? おしっこよりも時間がかかるうんこを座ってできるんですから、おしっこの時間くらいどうってことはないでしょう?」
「……それもそうだけど」
「それから、サブロウ先生、ここはどこですか? タイですか?」
「……いいえ、日本です」
「わかりましたね。これからはちゃんと座っておしっこをしてくださいね。どうしても立っておしっこをしたいなら、毎回トイレのたびにちゃんとお掃除してくださいね。いいですね」
「狩猟者のDNAは少しくらいの汚れなんか気にしないようになっているんだけど」
「でも、採集者で子育てをするDNAはきっちり清潔を守るようにできているんです! 一緒に暮らしているんですから、いいですね!」
「……はい」
「トイレが清潔かどうかは、いくらサブロウ先生の目には見えなくてもたいせつなことですからね」
「ごめんなさい」
男と女の間には…… 土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり) @TokiYorinori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます