スプリングブレンド・アニバーサリー

ドルチェ

第1話

「まさか、一年も続けられるとは」

 自分の城を前にして、私はそんなことをつぶやいた。もう一年。ここに店を構えてから一年。元々居抜き物件だったこともあり、外観はかなり味のある雰囲気を醸し出している。立て看板や内装等オープン当初に軽く手直しはしたものの、そのヴィンテージ感が気に入って外装はほとんどそのままだ。

 私は当時を懐かしむように、看板をさすりながらあの日へと思いを馳せるのだった。




 元来、じっとしていられない性格の私は定年退職後も何かしら動きたいと思っていた。現役時代のように、毎日フルタイムで働くというのはさすがにできないけれど、週に数回、あるいは月に数回くらいは働くということしていたかった。

 そんな矢先、友人に連れられて屋台が連なる夜の街へと繰り出した。

 若いころはしょっちゅう来ていた場所もすっかり様変わりしていたが、それでも屋台は当時のまま。掘っ立て小屋と大して変わらない、しかし風情と人情にあふれた最高に酒が美味い店は、屋台を置いて他にはないと思っていた。

「いらっしゃい!」

 店主の明るい声と共に、メニューが差し出される。二人ともとりあえず、生ビールを注文した。

「大将、あとおでんを適当に見繕ってくれるかい?」

「あいよ!」

 私のオーダーにも気前よく応える店主は、慣れた手つきで目の前に広がる仕切り版がついたおでんの鍋から大根や卵など、定番の商品をいくつか摘まみ上げて皿に盛り、私と友人の間に差し出した。ほどなくして、ビールも到着したので私は大根に伸ばそうとしていた手をいったんひっこめてからジョッキに持ち替えて、高らかに乾杯の声を上げるのだった。

「いやぁ、お疲れさん。いや、お勤めご苦労さん」

「こりゃどうも。……まさかお前から連絡してくるなんてな。電話を取ったうちの女房がびっくりしてたよ」

「いやぁ、お前とは腐れ縁だからな。定年退職のお祝いと聞いて駆けつけないわけにはいかないさ」

 そう言って豪快に笑う友人の姿を眺めながら私もマイペースに少しずつジョッキを傾ける。

「そうそう、これからどうするんだお前? 隠居して奥さんと夫婦水入らずか?」

「まさか。こんな老いぼれでもどこか使ってくれる所があれば、週に数回でも良いから働きたいと思ってるよ」

 グラスの中のビールはまだ半分ほど残っている。私は、顔に出やすいタイプでもう顔はだいぶ紅潮しているだろう。別段、そんな顔を誰に見られたところで困ることはないのだけれど、偶然が重なったのか他に来店する客の姿はない。店主は変わらず、おでんの具材の様子見をしながら、仕込みを続けている。友人はといえば、残りわずかになったジョッキの底をのぞき込み、何やら考え込んだ後私の方を向いて、こんなことを言ってきた。

「そうか。ならちょうど良かった。お前、珈琲好きだったよな? いっそのこと喫茶店でもやらないか?」




 数日後。この前酒を酌み交わした屋台の近くで友人と待ち合わせ、私は彼につれられるまま、目的地へと向かった。

「ここだ」

 待ち合わせ場所からほど近い場所にあるその空き店舗は、実にヴィンテージ感漂う雰囲気だった。

 友人が、持ち主から借りた鍵で南京錠を開け、中に足を踏み入れる。板張りの床がわずかに軋み、外見と同じくとても古めかしい雰囲気が店内を包みこんでいる。カウンター席が5席と四人掛けのテーブル席が3卓ほどの小さな店内。引き払ってからまだそんなに時間が経過していないのか、埃はそれほどかぶってはいないようだった。

「さすがに掃除くらいは、しなきゃいけないだろうけど。老後の趣味でやるにはぴったりの城だと思うんだがな」

 私は、頷きだけで返答し店内を見て回る。柱やカウンター席についた小さな傷や布がかけられたキッチン。キッチンとカウンターを隔てる壁はなく、カウンターの位置もそれほど高くはない。コンロは業務用というには少し心元ないが、業態を思えば十分な作りのものだった。

「しかし、本当に良いのか? こんな良い店なのに」

「あぁ。元の持ち主も『誰か、大切に使ってくれる人に譲りたい』って常々言ってたらしいんだ」

「そうか……じゃあ、お言葉に甘えて」

 そう言って私は、手前のカウンター席に腰を下ろした。ここで、どんなメニューを提供しようか。どんな珈琲を淹れようか。

 内装にも力を入れたいけれど、極力シンプルにしてこの懐かしさを忘れられないような……。

「……おいしい」

 気づけば私は、ふとそんな独り言を口にしていた。バックヤードを覗いていた友人が「何かいったか?」と顔だけこちらに向けてきたので、私はこう答えた。

「サンキューブレンドっていう美味しい珈琲をいただいていたんだ」




 それからしばらくして。開業届や取引先の開拓等々、諸手続きを終えた私はようやく『喫茶バール』をオープンさせるに至った。

 大手の喫茶店やチェーン店のように、派手な広告を打つことも目玉商品をポスターにして、店の前に貼ったりすることもせず。ひっそりとオープンさせた。

 ひっそりといえば、店の場所自体も隠れ家的に存在している。大通りから一本入った路地裏に入口があり、一見さんではここに喫茶店があることなど知りもしないだろう。ましてや都市の中心部だ。行き交うサラリーマンは数多くとも、大通りに面したパッと目につく飲食店にどんどんと吸い込まれていく。

 ここに案内された時からそれは分かっていた。でも、私にとってはむしろそれが好都合だった。

 あくまでも趣味の延長線上という位置づけであること。毎日のように営業するのではなく、無理なく続けられるように週に数回か、もっと少ない頻度で。

 看板をOPENに掛け替えて、店内へ。厳選したコーヒー豆の入ったボトルをいくつか手に取って、今日のおすすめ珈琲の豆をブレンドしていく。

 誰もいない店内。ジャズが流れ落ち着いた雰囲気の中、私は夢心地のような感覚で、過ごしていた。

 開店から二時間ほど経った頃だろうか。二人組のサラリーマンがふらりとやってきた。

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」

 一人は、二十代、もう一人は、四十代後半くらいに見える。先輩社員がカウンター席に座り、その隣に後輩社員も腰かけた。

「メニューがこちらになります。本日、オープン記念として『本日のおすすめ珈琲と、チーズケーキのセット』をお勧めしております」

「ありがとうございます。……じゃあ、それを二つ」

 急ぎの用でもあるのか、ふらりと入ってすぐさま休憩したかったのか。あまりメニューには目を通さずに、先輩社員が即答した。

「こんな所に、喫茶店で来たんですね。知らなかったです」

「あぁ、俺も来るのは初めてだ」

 その後二人は、お冷に軽く口をつけながらしばらく仕事の話に耽っていた。

「お待たせいたしました」

 私が二人分のセットを持って席へ運んだ時には、ちょうど一番の盛り上がりを見せているところだった。仕事の話で盛り上がれるなんて、素敵な関係性を築いているんだなと思いながら。そして、それは二人の表情を見れば一目瞭然だった。

「ありがとうございます。……っとそういえば」

 後輩社員が思い出したように、私に話しかけてきた。

「こちらのお店、今日オープンだったんですか?」

「ええ、今日オープンです。特に広告を打ったりはしていないので、ひっそりと。ちなみに、お客様方がオープンしてから初のお客様になりますよ」

 私が微笑とともにそう返すと、二人とはとても驚いた様子で珈琲を一口啜った。その様子まで息がぴったりと合っていたので、これ以上は無粋と判断し静かにフェードアウト……しようと思ったら今度は先輩社員が声をかけてきた。

「美味いです! この爽やかな口当たり。チーズケーキとの相性も非常に良いですね。今度、他の部下も誘って来ますよ!」

 先輩社員は、管理職のようで美味い美味いと何度も口にしながら、それでもとても味わってくれていた。私はそんな二人の様子を眺めているだけで、どこか満ち足りた気持ちになっていた。




「お会計が……こちらになります」

 昔ながらのオーダー表に、手書きの金額を見せると先輩が咄嗟に財布からお代を出した。私は、すかさず後輩が出そうとしていたのをさりげなく制していたのを見逃さなかったが、これも言わぬが花と思い、恭しく代金を受け取った。

「ありがとうございました」

 そして、これだけは念押しとばかりに言っておかねばと。心苦しくも、お釣りに添えて一言を差し出した。

「次回のご来店お待ちいたしております。……できれば、大仰に宣伝をするようなことは控えていただけますと幸いです。表にも書いています通り、営業日が極めて少ないことに加え、私一人でやっているものですから」

 二人は揃って頷くと、軽く会釈をしてから再びオフィス街へと消えていくのだった。




 二人は、それからも不定期に店を訪れてくれた。開店当初は何かとバタバタしていた私も、ようやく要領を得、二人の間にもより自然に入っていけるようになっていた。……そんなある日のこと。

「いらっしゃいませ……っと今日は一人ですか?」

「……」

 どうぞ、と後輩を促しいつもの席へ座らせる。その表情を一目見ただけで何らかの事情があるのだと察した私はそれ以上その話題には触れず、いつも通りの接客を心掛けた。

「こちら、メニューになります。どうぞ」

 軽く会釈をする角度も、メニュー表を受け取る手もとても弱弱しい。目もどこか虚ろでピントが合っていない。私は「大丈夫ですか?」と声をかけそうになるのを必死に堪えた。こういう時そんな言葉は逆効果になる。

 しばらくメニュー表を右に捲り、左に捲りしていた彼は不意に手を止めて珈琲だけをオーダーした。ほどなくして、出来上がった珈琲を運ぶと、彼はテーブルに頭をつけて突っ伏していた。

「こちらに置いておきますね。お気をつけて」

 彼から一席分離れた席に珈琲を置いて、私はカウンターへと戻った。しばらくして、ソーサーが音を立てたので、ようやく口をつけてくれたのだと私はホッと一息つくことができた。

「ごちそうさまでした」

 あまりにも早い退店に、さすがに私は声をかけないわけにはいかなかった。

「失礼ですが……何かありましたか?」

「……」

 彼の返答はない。ただ俯いて、レジに表示された金額ちょうどをコインケースから取り出し、銀製のトレーに力なく落とすと、その重い足取りのまま店を後にするのだった。

「これは……相当重症かもしれないな……」

 私はそう呟いて、彼の姿が見えなくなるまでその寂しい背中を見つめていた。




 それからしばらくの時間が流れ――。

 ドアベルがカランコロンと軽快な音を立てて来客を知らせてきた。

「いらっしゃいませ。……お久しぶりですね」

 前回よりは、ほんの少しだけ持ち直したようにも見えるが、その顔には相変わらず覇気がない。私は、好きな席に座るように促すと、いつものようにいつもと同じ席に腰を下ろした。メニューを差し出そうとする私の手を制して、「珈琲を」とだけ短くいってから、彼はスマートフォンを取り出して視線をその画面に落としていた。

 私は軽く会釈をしてから、珈琲の準備に取り掛かる。……とある仕掛けを施して。

「お待たせいたしました。どうぞ」

 その香りにわずかに反応したのか、彼の視線がちらりとカップに向けられた。スマートフォンをことりとテーブルに転がしてから、一口。

「……やっぱり美味しいですね」

 その弱弱しい声音には、全てが込められているような気がした。それと同時に私は確信した。だからこそ、私は彼にこう問うた。

「本当に美味しいですか?」

「はい……」

「そうですか……それではお下げいたしますね」

 私は、彼の返答を待たずに注文の品を引っ込めた。彼は激昂するでもなく狼狽えるでもなく、ただただ目を丸くして驚いていた。

「試すような真似をして大変失礼しました。……こちらがご注文の品でございます」

 私は新しく淹れた珈琲を彼に差し出した。今度は『普通』の珈琲を。彼は促されるまま、新しい珈琲に口をつけ。それを確認したところで、私は彼の隣の席に腰かけてこう切り出した。

「実は先ほどの珈琲、少しだけ塩を溶かし入れておりました。しかし、あなたはそれを美味しいと言って、今飲んでいる普通の珈琲と変わらない様子で飲んでいた。

 相当お疲れのようですね。私でよければ、話を聞かせていただけませんか? もうすぐ閉店の時間ですし」




「私と先輩が勤めている会社、業績も好調でついに海外事業部を立ち上げることになったんです。そこで、先輩がその事業部の部長を任されることになったんですが……。先輩、がんだったんです」

「そうですか……」

「手術に耐えきれるだけの体力がないということで、治療を進めることができずに。残された時間もそう多くはないそうです。それでも先輩は平気な顔をして、出社して。いつもと変わらない笑顔で俺に声をかけるんです。

 会社も先輩の実情は把握していて、本人と話し合いの末、無理のない範囲での業務をこなすようにとのことで折り合いをつけているそうです。そして、先輩に万が一のことがあれば……事業部の実質的な権限を俺に移譲するそうです」

「ということは、海外事業部の責任者は別で用意するということですか?」

「ええ。さすがに、俺にはまだ経験が浅いということで権限のみを委譲して、業務上の上司にあたる人間は、先輩の同僚で信頼できる人に頼んでいると聞きました」

 訥々と話す彼は、泣いてはいなかった。私は、こういう時は泣いて当たり前だろうという先入観に塗れた己を恥じた。そうだ。これまで彼の何を見てきたのか。

 涙なんてとっくに枯れはてている。だからこそ、こうやって訥々と話すことができているんじゃないか。

 話を聞かせてくれないか、と言った時には彼のすべてを受け止めるつもりでいた。どんな話であろうと、彼よりはだいぶ長く生きている。私も無駄に長く生きてきたつもりはないから、その経験則でもって彼に何か有用なアドバイスでもできればと思ってのことだったが……。

「それで、あなたはどうされたいのですか?」

「え……?」

 不意にこちらに顔を向けた彼は、とても驚いた様子だった。突然見知らぬ人に肩を叩かれたような、そんな顔。その顔は迷いで埋め尽くされていた。

「どうすれば良いんですか……」

 私は、その迷いをはっきりと口にした彼の顔を直視することができなかった。彼の悩みの重さに耐えうるだけの言葉を持ち合わせていなかったから。しばらく、私は考えを巡らせた。彼には一言「少しお待ちを」と言って、自分の珈琲を淹れるために、カウンターへと戻り、わざとゆっくりと珈琲を抽出しながら、考えた。

 その結果。考えるのをやめることにした。今でもこの時の事を思うと、これが正解だったのか疑問に思うこともあるけれど、今もなおこのお店が営業できているということはきっと間違いではなかったのだと。私は自分に言い聞かせたいと思う。

「それは私にはわかりません。それはあなたが決めることだからです。私から言えることはそんなに多くありません。あなたの先輩よりも過ごした時間が遥かに短いからです。そんな先輩と最後まで仕事をするのか。その後も仕事を続けていくのか、あるいは退職するか。酷な話ですが、今すぐにやめるという選択肢もありますよ。私に思いつくのはせいぜいこれくらいです。

 私は、カウンセラーではありません。話を聞くと言った手前申し訳ありませんが、あなたに有用なアドバイスができる保証はないんです。すみません。

 ただ、私はあなたに。このお店に来られる方に、少なくとも店内にいる間だけは笑顔でいてほしいと思っています。あなたの辛い顔を何度も見て、とても心が痛みました。私に出せるのはせいぜい珈琲と軽食程度です。今すぐでなくても構いません。何回来られても構いません。私はただ、あなたの笑顔がまた見たいのです」

 そこまで一気に話した。なんのアドバイスにもなっていないし、問題解決の糸口にすらなっていないというのに。なんなら、その糸はほつれかかっているというのに。

「ありがとうございます。……少し、考える時間が欲しいです。また、お店に伺っても良いですか?」

 私の言葉が彼に届いている、なんて傲慢な考えだ。ただ、彼は来た時よりはしっかりとした足取りでレジへと向かった。

「あぁ、今日はお代は結構です」

「でも……」

「お客様に無礼を働いたお詫びということで」

「そうですか……では」

 こちらを一度も振り向かずに、軽い会釈も返さずに。けれどもほんの少しだけ、ドアノブに込める力強さを、私は確かに感じていた。




ついに、店を初めてから一周年という記念日になった。早いような短いような。売り上げや利益よりも、お客様に喜んでいただける一杯を提供する、を開店時からのモットーにしており、なにより趣味が高じてお店を構えて一年続けられるだけのお客様に来店いただき、さらにそれだけの珈琲を提供できたことに私は何よりよ感動していた。

 一周年だからと言って、いつより派手に広告を打つとかメニューの品を半額にするとか、そういったキャンペーンも特に打ち出さなかった。かわりに、一周年を記念したブレンド珈琲をメニューの一つとして加えることになった。そんな本日の看板は、隅っこにあまり控えめにそのイラストを添えてある。

 いつも通り、開店準備を進め店内に戻るとほどなくして、彼がやってきた。

「お久しぶりです! マスター!」

 しばらく見ない間に、とてもたくましく成長した彼の姿があった。背筋はしゃんと伸び、皴一つない背広に袖を通し、真新しい革靴を履いている。その姿を見て、私は……特に驚きはしなかった。彼はきっとこうなると確信を持っていたから。好きな席に座るように促すと、いつもの席に座る。先輩の席を一つ分空けて。

「ご注文はお決まりですか?」

「この一周年記念の珈琲を一つ」

「かしこまりました」

 彼の満面の笑顔を見ていると、つられてこちらまで嬉しくなってしまう。

 丁寧に淹れた珈琲をお盆に載せて彼のもとへと持っていく。

「お待たせいたしました」

 静かに、ソーサーを置いて。隣の誰もいない席にも一つ。さらに、封筒を一つ。

 これには、彼も首を傾げおずおずと、「あの……一つしか頼んでいないんですが……」と申告してきた。

「あはは。それが、分量を間違えてしまいまして……。つい、一杯多く作ってしまったんですよね。よろしければ、サービスということでこちらもどうぞ」

 私はわざとらしく頭を掻きながら、片方の手でソーサーと封筒を促した。

「はぁ……ところで、この封筒は?」

「これは失礼を。こちらは、開店一周年を記念して私から皆様へのお礼のメッセージを書かせていただいたものです。もしよろしければ、先にお読みいただいてから珈琲をお召し上がりください」

「わかりました。ありがとうございます」

 彼はほんの少し訝しみながらも、封筒から中に入っている便箋を取り出した。

 私はそれを確認すると、なるべく音をたてないようにキッチンを通ってバックヤードへ。裏口から出て、ぐるりと一周して店の入口の前に立つと、看板の「OPEN」の文字の上に「本日は12時より」と書き加えてから、再び先ほどの道順で戻り、店内へ。

 店内には、彼のすすり泣く音だけが響いていた。BGMはなので、かけていない。

 キッチン側から、カウンター席の彼の様子を伺い知ることはできないし、勿論水を差すつもりもない。私は、彼が泣き止むまで再びバックヤードへと向かうのだった。




「すみません」

 鼻声になった彼から呼ばれて、席へ行くと涙で顔をぐしゃぐしゃにした彼と空になったカップが一つ。隣のカップはそのまま。そして、中に入っていたであろう便箋は、涙が落ちたのか所々よれてしまっていた。

「はい、いかがなさいましたか?」

「この手紙……いつ?」

 彼は、亡き先輩からの手紙を愛おしそうに見つめながら私に聞いてきた。彼には悪いことをしたという罪悪感に苛まれながらも、私は事の顛末を彼に説明するのだった。

「あなたがちょうど一年前、先輩と二人でこの店を訪れた時、彼が会計時に私に渡してきたんです。中身は聞かないでくれと言われました。代わりに、封筒にクリップで留められたメモ紙を見せられました。そこにはこう書かれていました。

 あいつが一年後この店を訪れる時、私はきっとこの世にはいないかもしれない。それでも、彼がこの店を訪れることがあれば渡してほしい。

 とね。プライバシーに関わることなので、言及はせずに今日まで大切に保管させていただいておりました」

「え……じゃあ、私が今日この店を訪れなかったら……」

「処分するつもりでおりました」

 私は淡々と事実を述べた。それを聞いても、彼は特に怒る様子もなく、しばらく考え込んでから。

「全部、最初からお見通しだった……ということですか?」

「いえ、この封筒を渡されたとき、私はそのメモに書かれたメッセージしか知りませんでしたから。会社の内情も、彼の病気のことも。全部、あなたが教えてくれたのですよ。もちろん、一年後にあなたがこの店を訪れることも分かりませんし、私が強制することでもありませんので」

 手紙になんと書いてあったのか。私には知る由もない。けれど。たった一つだけ。確かにいえることは。

 彼が言うように、先輩は彼の行動をすべてお見通しだったのかもしれないということだ。この店で過ごしたほんのわずかな時間で私はそれを感じ取っていた。

「あの……よかったら、隣座ってもらえませんか?」

 彼は、隣の椅子を引いて私に座るように促してきた。私は言われるがまま、彼の隣の席に腰かけた。先輩がかつて座っていたその席に。私はあえて、「私が座ってもよいのですか?」とは言わなかった。

「本当にありがとうございました」

 彼は深々と頭を下げた。私が、もう良いですからと軽く肩を叩いてもしばらくの間頭を下げていた。

「繰り返しになりますが、私は何もしていませんから。あなた方がこの店を訪れたのは何かの縁で。一年後、あなた方がまたこの店を訪れてくれたのもまたご縁だったというだけの話です」

「……マスター。よかったら、その珈琲飲んでもらえませんか?」

 彼の意外な提案には私も意表を突かれた。

「先輩なら『俺の奢りだ』とか言って気前よく勧めてくれると思いますので、是非」

「そうですか……では、頂戴いたします」

 私は、自分で淹れた珈琲に口をつけた。試作段階で何回か試飲しているので、味は完成されたそのものの味のはずなのに、どこかいつもよりはるかに美味しい出来になっていたように感じた。

「自分でいうのもおかしな話ですが……美味しいですね」

「そうですね……あ、もしよろしければこの珈琲、挽いた豆を頂けませんか? 先輩の家に持っていきたいんです」

「それは良いですね。勿論、準備いたしますよ」




「会計が……こちらになります」

 彼は、財布からお金を取り出そうとしてあることに気づいた。

「あれ、お会計間違ってませんか……? 珈琲一杯分の値段が入っていないような」

「お客様、『言わぬが花』という言葉もございます。あるいは、こう言った方がよろしいでしょうか? 『俺の奢りだ』と」

「ははっ。それもそうですね。ありがとうございました。では、また」

 彼は、最後まできらきらとした笑顔を見せて店を出ていこうとして。私はふと思い出して、彼を呼び止めた。

「すみません、お客様。よろしければ、本日お召し上がりいただいた珈琲のメニュー名を考えていただけないでしょうか? 実はまだ名前が決まっておらず……一周年の初めてのお客様ということで、これも何かのご縁と思い、どうかお願いしたいのです」

 彼は、しばらく考えこんで。何かをひらめいたのか、私にこう言ってきた。

「ほんのりと桜の香りがしたので『春』と、お店の一周年を記念して『アニバーサリー』。『スプリングブレンド・アニバーサリー』なんて、どうでしょう」





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スプリングブレンド・アニバーサリー ドルチェ @dolce2411

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