人違いから始まる運命

春風秋雄

確かに俺は「田中」だけど・・・

「あのー、田中さんですか?」

俺がホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいると、いきなり女性が声をかけてきた。

「はい、そうですが」

「遅くなって申し訳ありません。榎本です」

女性はそう言って向かいの席に座った。誰なんだ、この人は?榎本?記憶がない。遅くなって申し訳ないと言っていたが、待ち合わせた覚えもない。間違いではないですかと言おうとしたが、その女性の美しさに一瞬見とれている間に、女性は矢継ぎ早に話し出した。

「電話でも申し上げましたように、返済はもう少し待って頂きたいのです。父が亡くなったばかりで、まだ父の会社の整理もできていませんし、父がおたくからお金を借りていたということも、昨日の電話で初めて知ったのです。もちろん借金も相続することは重々承知しています。相続放棄ができる期間も過ぎてしまったので、相続人である私に返済の義務があることも理解できます。ただ、今の時点で、500万円ものお金を捻出するのはとても無理なんです。離婚して、仕事を探さなければと思っていた矢先に父があんなことになって、葬儀だ、四十九日だと、バタバタとしていましたので、まだ私の働き先も見つかっていない状態なのです。私が働き出したら、必ず少しずつお返ししていきますので、どうか、それまで待ってもらえませんでしょうか」

「あのう」

「いえ、わかっています。返済が遅れれば利息がかさむということも承知しています。でも、今の私には、そういう形しか返済のしようがないのです」

「ちょっと、待ってください」

「それではダメだというのですか?返済期限が過ぎているから一括返済でなければダメだというのであれば、私はもう破産しかないです。幼い娘を抱えて、路頭に迷うしかないのです。破産したら、おたくは1円もとれないですよ。それより、少しずつでも500万円を回収した方が、おたくにとってもメリットがあるんじゃないですか?」

「だから、ちょっと待ってください」

さすがに俺は強い口調で言った。すると、ようやく女性が黙ってくれた。

「人違いです」

女性はキョトンとしている。何を言われているのか理解できなかったのだろう。

「私の名前は田中で間違いありませんが、私は、あなたが待ち合わせていた田中ではないです」

「え?どういうことです?」

「ですから、私はあなたのお父さんにお金を貸した会社の田中ではないです。あなたと待ち合わせていた田中さんは他の席にいるのではないですか?」

女性は慌てて周りを見渡した。俺もつられて見渡すが、先ほどより人は減っていて、男性一人で座っているお客さんはいなかった。

「いないみたいですね」

俺がそう言うと、女性は青ざめてきた。

「何時の待ち合わせだったのですか?」

「10時です」

「今10時25分ですよ。あなたがこの席に座ってから、まだ5分くらいしか経っていませんから、そもそも20分の遅刻じゃないですか」

「娘がなかなか保育園へ行く準備をしてくれなかったものですから」

「相手は、もう帰ってしまったのでしょう」

「どうしよう」

「とりあえず電話してみてはいかがですか?」

女性は慌ててスマホを取り出し、電話をした。会社の番号しか知らないようで、会社にはまだ田中さんは帰っていないようだった。田中さんに連絡をして女性の携帯に折り返し電話をしてくれることになった。

「とりあえず、コーヒーでも頼んではどうですか?」

俺に言われて女性はスタッフを呼びコーヒーを注文した。

「娘さんはおいくつなんですか?」

「4歳です」

「かわいい盛りですね」

俺は、別れた妻が連れて行った愛梨のことを思い出した。家を出て行ったのがちょうど4歳の時だった。

女性が運ばれてきたコーヒーを飲んでいると、電話が鳴った。どうやら田中さんからのようだ。しばらくやり取りをしていたが、暗い顔をして電話を切った。

「どうでした?」

「もう差し押さえの準備に入ると言われました」

「そうですか」

「20分も待って来なかったあなたが悪いと言われました。どうしてもっと早く、人違いだと言ってくれなかったのですか。そうすれば、まだあの人はいたかもしれないのに」

「いやいや、言おうとしたら、あなたが矢継ぎ早に話してきたのではないですか」

「あなたにも責任があるのですから、先方を説得するのに協力してください」

「えー!俺がですか?」


俺の名前は田中俊也(しゅんや)。41歳バツイチ独身だ。ホームページの作成やWEB広告の作成などのWEB制作会社を経営している。今日は取引先との打ち合わせで、このラウンジを使い、取引先が帰ったあと、独りでコーヒーを飲んでいたところにこの女性が突撃してきたというわけだ。

どういうわけか、人違いからこの女性の相談に乗ることになってしまった。本当であればこんな面倒なことに巻き込まれたくはなかったが、それでも詳しい事情を聞くことにしたのは、この女性が俺好みの美人だからということ以外に理由はない。俺は好みの美人に頼まれると、断り切れず、何度も失敗をしてきた。結局離婚したのもそういった女性問題だ。それなのに懲りないなと、自分で情けなくなってしまう。


女性の名前は榎本小春さんという。半年前に離婚して、娘さんを連れて実家に帰ってきたそうだ。お母さんは早くに他界されていて、お父さんは一人で従業員5名ほどの小さな工場を経営していた。離婚したとはいえ、娘と孫が帰って来たことをお父さんは喜んでいた。しかし、そのお父さんが3ヵ月ほど前に心臓発作で急に帰らぬ人となった。相続人は他におらず、自分で工場の経営ができるとは思えず、会社の口座にそれなりのお金があったので、従業員に退職金を渡し、全員退職させたそうだ。すると、その後で次から次へと支払いの請求が来る。経営など全くわからない小春さんは、仕入れの支払いは後払いだということを知らなかったようで、あれよあれよという間に会社のお金はなくなってしまった。支払いが落ち着いて、そろそろ弁護士に頼んで、会社の閉鎖手続きをしてもらわなければと思っていたところに、商工ローンの返済の請求があったということだ。会社の負債であれば小春さんが責任を負うことはないが、商工ローンはお父さんが連帯保証人になっており、相続放棄をしなかったために小春さんが連帯保証人を相続してしまったというわけだ。


「差し押さえと言っていましたが、工場の機械とかですか?」

「工場の機械はまったく値打ちはありません。工場の土地も建物も賃貸でした。差し押さえる対象は実家の土地建物です」

「なるほど」

実家は持ち家だったのか。だったら破産すると言っても、破産管財人が実家を売却したお金は債権者に分配される。商工ローンはいずれにしても実家を売ったお金から回収できるということだ。

「狭い土地に、古い建物ですから、それほどの価値はないですが、それでも普通に売れば1千万円くらいは価値があると思うんです。それを500万円のために差し押さえられて競売されたら、たいして残らないでしょうし、何より、私たち親子が住む場所がなくなってしまいます」

「でも、商工ローンだと金利も高いでしょ?分割で少しずつ返していくと言っても、かなりの年数がかかるのじゃないですか?」

「そうなんですけど」

「この際、思い切って実家を売って、500万円を返してしまった方が良いと思いますけど」

「そうかもしれないけど、売るにしてもローン会社と話をつけなければ、差し押さえられてしまっては売るにも売れないし、何より、引っ越すお金がなくて」

ちょっとまずい流れになってきた。もっと早くここを去るべきだった。このままだと、俺の悪い癖が出てしまいそうだ。今の会話の流れだと、俺も一緒に商工ローンについて行って、とりあえず差し押さえを待ってもらうよう交渉することになる。最悪の場合、俺が連帯保証人にさせられる可能性だってある。俺は昔から好みの女性にはすごく甘い。それで今まで何度も痛い目にあってきている。ここは、変な気を起こす前に退散するに限る。

「あ、俺はそろそろ仕事に行かなくちゃ」

俺はそう言って小春さんのコーヒーの分もついている伝票を持って立ちあがった。

「田中さん」

呼ばれて俺は思わず振り向いてしまった。

「田中さんは、私たち親子を見捨てるのですね」

その悲しそうな瞳を見て、俺は「またやらかしてしまった」と思った。


小春さんと一緒に商工ローンの会社まで行ったが、担当者の田中さんは、かなり強硬だった。分割返済は一切受け付けないの一点張り。せめて土地家屋を売却するまで待って欲しいと言っても、あの場所で、あの建物ではすぐには売れないから、それまでは待てないという。話していて、俺も頭にきたので、ついつい「じゃあ、500万円すぐに返済します」と言ってしまった。担当の田中さんは1週間待つと言ってくれた。


商工ローンの会社を出たあと、小春さんが言った。

「ありがとうございます。でも本当に良いのですか?」

俺は恨めしく小春さんを見た。

「まあ、仕方ないですね。その代わり、実家が売れたらちゃんと返済してください」

「もちろんです。借用書も書きます」

「それは当然です」

「でも、勝手に500万ものお金を見ず知らずの人に貸して、奥様は怒りませんか?」

「妻はいません。5年前に離婚しました。私は会社を経営していますので、お金も会社から出します」

「あのう、やっぱり実家を担保を差し出した方がいいですよね?」

「今から売りに出そうという物件に抵当権をつけても面倒ですから、信用貸しにします。その代わり、今から法務局へ行って、登記簿を取って来てください。ちゃんとあなたの所有であると確認してからお金は振り込みます」

「ごめんなさい、名義はまだ父のままなのです」

「じゃあ、あなたが唯一の相続人であるとわかるように、お父様の戸籍謄本を取り寄せて下さい。そして、うちの顧問弁護士を紹介しますので、相続手続きはちゃんとやって下さい。借用書も弁護士に作らせます」

「田中さん、怒ってます?」

「今さらあなたに怒っても仕方ないです。私が怒っているのは、自分自身にです」


会社の顧問弁護士は大学時代からの友人で、いまでも飲み友達だ。俺が会社を立ち上げる少し前に、そいつが独立して事務所を立ち上げていたので、うちの会社の顧問になってもらった。そいつに事情を話し、色々と調べてもらい、小春さんが言うことに間違いはないと確認した上で、相続の手続きも済ませ、実家の土地家屋は小春さん名義に変更してもらった。そして金銭消費貸借契約書を作成してもらい、俺は小春さんの口座に500万円を振り込んだ。契約書と一緒に受け取った諸々の資料の中に、本人確認のために小春さんに提出してもらった免許証のコピーがあったが、それを見ると、小春さんは現在32歳だった。

会社の取引先でもある不動産屋に土地家屋をとりあえず1200万円で売りに出してもらったが、商工ローンの田中さんが言うように、場所が良くないことに加え、古い上物が乗っかっているので、すぐには売れないだろうということだった。まあ、それは仕方ない。友人の弁護士が金利なしというわけにはいかないからと、少ないながらも金利をつけて契約書を作成したので、今どきの銀行に預けるより利回りの良い貯金と思うことにした。そこまでは良いとしよう。そこまでは俺も不本意ながらも流れの中で納得して承諾したことだ。しかし、これは一体どういうことだ。なんでこんなことになってしまったのだ?

「俊也さん、食事の準備ができましたよ。芽衣もこっちにおいで」

小春さんがエプロン姿で、俺のマンションの台所に立ち、料理を作っている。当たり前のように娘さんの芽衣ちゃんも家から持ってきたオモチャで遊んでいる。

俺はそんなことを了解した記憶がない。しかし、いきなりマンションを訪ねてきた小春さん親子は、荷物を持って部屋に入って来た。明日には引っ越し業者が大きな荷物もここに運び込んでくるらしい。小春さんに聞くと、弁護士の友人に「実家が売れるまでは田中のところに住めばいい。俺が話をつけておくから」と言われたということだが、俺はそいつから何も聞いていない。慌ててそいつに電話をすると、「お前もそれを期待していたんだろ?だって、小春さん、田中の好みのタイプじゃないか?それでなければ会ったばかりの人に500万円も貸さないだろ?」

と言われた。俺は何も言い返せなかった。

食事をしながら小春さんが言った。

「住むところをどうしようかと思っていたけど、こうやってここに置いて頂いて、ありがとうございます」

「いや、どうも」

俺はそっけない返事をした。

「でも、ちゃんとお金を返すまで、目の届くところに私たちがいた方が安心でしょ?」

「それはそうなんですが」

「ここは別れた奥さんと暮らしていらしたところなんですか?」

「そうです。ひとりでは広すぎるのですが、ローンがまだかなり残っているので、今売るとローンの残債が残ってしまうものですから、仕方なくここに住んでいるのです」

「でも、そのおかげで私たちがここに来ることができました」

「まあ、部屋は余っていますので、好きに使って下さい」

俺はそう言うしかなかった。


芽衣ちゃんを見ていると、愛梨のことを思い出す。離婚した時に、子供との面会交流については、何も打ち合わせなかった。離婚して5年になるが、愛梨と面会したのは1年くらい経ったときに1回会ったきりだ。ときどき、ふと思い出して別れた妻に申し出たが、何かと理由をつけて会わせてくれなかった。そのうち仕事も忙しくなり、こちらも連絡をしなくなった。

小春さんがお風呂に入っている時に、芽衣ちゃんがとことこと俺のところに来て聞いてきた。

「おじさんが、新しいパパになる人?」

「いや、そういうんじゃないよ。おじさんは芽衣ちゃんのお母さんとは、まだ何回も会っていないから」

「ふーん。でも一緒に住むんだから、いつかはパパになってくれるのでしょ?」

「芽衣ちゃんは、新しいパパが欲しいの?」

「わからない。パパはほとんど家にいなかったから、パパがいた方がいいのかどうか、わからない」

俺は言葉が出なかった。それはまさしく俺のことだった。愛梨が生まれてから、子供のことは妻に任せっきりで、俺は毎日のように飲み歩き、愛梨が起きている時間に帰って来たことはほとんどなかった。土日の休みも出張だったり、ゴルフへ行ったりと、家族でどこかへ行くということがほとんどなかった。挙句の果てに、最後の頃は飲み屋の女に入れあげて、家に帰らない日も多かった。愛梨にとっては、パパという存在はどう映っていたのだろう。芽衣ちゃんと同じように、いてもいなくても良い存在だったのだろうか。

小春さんがお風呂から上がって来た。

「芽衣、そろそろ寝る時間だよ」

小春さんに言われて、芽衣ちゃんは布団が敷いてある部屋へ行こうとする。

「芽衣ちゃん」

俺は思わず芽衣ちゃんを呼び止めた。芽衣ちゃんが振り向く。

「今度の日曜日、水族館に行こうか?」

芽衣ちゃんは一瞬「え?」という顔をしたが、すぐに笑顔で「うん」と頷いた。その横で小春さんは驚いた顔をしてしばらく俺を見ていた。


水族館へ来るのは何年ぶりだろう。愛梨が生まれる前に、別れた妻とデートで来たのが最後だった。芽衣ちゃんは一度家族で来たことがあるらしいが、本当に小さい頃だったので覚えていないらしい。芽衣ちゃんはペンギンが気に入ったようで、なかなかそこを離れなかった。楽しそうに走り回る芽衣ちゃんを見ていると、あの頃に愛梨を連れて来てあげればよかったなと思った。お昼は隣接する公園でシートを敷いて、小春さんが作ってくれたお弁当を3人で食べた。芽衣ちゃんは嬉しそうにそれを頬張る。周りを見ると、同じように弁当を食べている子連れの家族がたくさんいる。どの家族も子供たちは楽しそうな顔をしている。俺は愛梨が喜ぶことを何もしてあげてなかったと改めて思った。


俺は毎週休みの日に、芽衣ちゃんを連れて遊びに行くようになった。動物園にも行った。遊園地にも行った。映画も見に行った。芽衣ちゃんはその都度楽しそうに過ごしてくれた。小春さんが、「そんなに毎週毎週行かなくてもいいですよ」と言うが、俺自身が行きたかった。愛梨に出来なかったことを、芽衣ちゃんにしてあげたいと思った。


小春さん親子がうちに来て2か月ほどした頃に、不動産屋から連絡があった。買い手がついたらしい。ただし、上物は取り壊して更地にしてくれれば1200万円で買うということだった。小春さんと相談して、取り壊し費用は買い手負担という条件で1100万円で売ると交渉してもらったところ、先方はそれで承諾した。

1ヵ月ほどかけ、契約がすべて完了し、移転登記も済ませ、売買代金を受け取った小春さんは、俺に契約書通りの利息をつけて500万円を返済してくれた。


小春さんは、新しく住む住居を探し始めた。3か月も一緒にいると、すでに家族のような気がしていたが、やはりそういうわけにはいかない。これで芽衣ちゃんともお別れかと思うと、愛梨が出て行ったとき以上に寂しい気持ちがする。自分の子供より寂しいと思うなんて、変だとは思うが、一緒に遊んだ時間が長い分、芽衣ちゃんが可愛く思えていた。それとも、俺は芽衣ちゃんを愛梨の代わりとして見ているのだろうか。


小春さんの住居探しは難航しているようだ。季節的に引っ越しシーズンではないので、良い物件があまり出ていないというのが原因だろう。小春さんは「ごめんなさい。なるべく早く探しますから」と言っているが、俺は「ゆっくり納得できる物件を探せばいいよ」と言っている。


小春さんが住居探しを始めて3週間くらい経った頃、小春さんが買い物に出ている時に芽衣ちゃんが俺のそばに寄って来た。

「おじさん、芽衣たち、ここを出ていかなければいけないの?」

「いけないわけではないけど、おじさんは芽衣ちゃんのパパではないから、一緒に住むのはおかしいでしょ?」

「だったら、おじさん、芽衣のパパになってよ」

「おじさんが、芽衣ちゃんのパパになってもいいの?」

「パパになるなら、おじさんがいい。芽衣は、おじさんとずっと一緒にいたい」

俺は思わず芽衣ちゃんを抱きしめた。


その夜、芽衣ちゃんが寝てから、俺は小春さんに話があると言って座ってもらった。

「小春さん、住居さがしはやめて、ずっとここで暮らしませんか?」

小春さんは戸惑った様子で俺の顔を見た。

「俺と結婚してくれれば、それが一番いいのですけど、もし俺と結婚するのが嫌なら、今のままの関係でもいいです。俺は、小春さんと、芽衣ちゃんと、3人でこのまま暮らしたいと思っています」

「それは、芽衣と離れたくないからですか?」

「もちろん芽衣ちゃんと離れたくないというのもあります。でも、それよりも、俺は小春さんが好きになってしまいました。小春さんと離れたくないというのが一番です」

「私が俊也さんと結婚するのは嫌だと言ったときは、このままの関係ということですけど、私のことが好きなのに、一緒に暮らしていてこのままの関係で我慢できますか?」

「二人がここからいなくなってしまうことを考えれば、それは我慢します」

「私のことを本当に好きなら、どうして我慢せずに寝室に忍び込もうとしないのですか?力づくでも私を自分のものにしようとは思わないのですか?」

「いやいや、それは犯罪でしょ?」

「犯罪ではないです。だって、私もそれをずっと望んでいたから」

え?どういうことだ?

「私は、あんなことがあって、俊也さんに迷惑をかけて、それでもここに住まわしてくれると言われて、その時から私は、そういうことを求められても仕方ないと思っていました。でも、俊也さんは一向にそういうことをしてこようとはしない。それどころか、私にも芽衣にも優しくしてくれる。そんな男性を好きにならない女性がいると思いますか?」

そうだったのか?

「実家が売れたらここを出て行くという約束でしたから、新しい住居をさがしてみましたけど、どんな良い物件を不動産屋さんが薦めてくれても、そこには俊也さんはいないのです。だから、私はいつまでも新しい住居を決められませんでした」

「小春さん」

「私の方からお願いします。私と芽衣を、ここにいさせて下さい。そして、芽衣のパパになって下さい」

俺は小春さんの傍へ行き、小春さんを抱きしめた。


俺の寝室で、初めて小春さんとひとつになった。小春さんが俺の腕の中で話し出した。

「私が離婚したのは、旦那の浮気が原因なんです。単なる浮気なら芽衣もいることだし、目をつむっていたと思います。でも旦那は、その女の母親が病気で入院するのにお金が必要だと知って、消費者金融から借金をして、その女にお金を渡していたんです。うちの家計だってそんなに楽ではないのに、そんな女のために借金をするなんて、信じられませんでした。私は絶対に許せないと思いました」

なんか、俺に似ている性格の人だなと思った。

「その後、旦那さんとその女性はどうなったのですか?」

「離婚してしばらくしてから結婚したようです」

「そうですか」

「私、俊也さんに500万円借りたとき、あの女と同じことをしているなと思っちゃいました」

「でも俺の場合は離婚して独身でしたから」

「そうですけど、赤の他人からお金を借りるのは同じじゃないですか。それで、今は思うんです。その女は、旦那に本当に感謝したのだろうなと。そして、そこまで思ってもらって幸せだったのだろうなって」

「小春さんは、今は幸せですか?」

小春さんは、俺の目を見て言った。

「幸せです。本当に幸せです。今さらながら、俊也さんの苗字が田中さんで良かったと思います」

小春さんはそう言って、もう一度キスしてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人違いから始まる運命 春風秋雄 @hk76617661

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ