仰げば尊し

冬木雪男

追憶

 美術室は少しの油臭さと絵の具の匂いが鼻をつく。


 西日が差し込む窓からは野球部の練習が見えた。目の前の人物はノックの音すら気にせずひ一つのキャンバスに集中している。


 忘れ物を取りに戻った美術室、僕は無心で描かれる絵に惹きつけられていた。


 生徒たちから親しまれる美術の担当教諭は来年定年退職になるおじいちゃん先生だ。先生はイーゼルの上のキャンバスに往年の名女優を描いていた。


 宿題用に取りに来たスケッチブックを抱えたままの僕に気づいたおじいちゃん先生は気恥ずかしいのか、すこし目尻を染めている。


 先生は突然僕を誘った。


「葉風一郎くんもなにか描くかい」


 驚いた、担任でもない一生徒のことを覚えているとは。


 誘われたことにびっくりした僕はとっさに返事ができなかった。てっきり勝手に盗み見していたことについてなにか言われると思っていたから、身構えたのだ。そのせいで思わず体が反応できなかった。


 僕が返事をする前に先生は六人掛けのテーブルの椅子を下におろした。

 好奇心につられ僕はそこに座る。


 まっさらなページを開くと筆箱から鉛筆を取り出した。先生は再び油絵と向き合っている。僕も自分の白地の画面と向き合う。


 白い紙面と向き合うのはどうしても気後れする。

 理由は簡単だ。

 何をどんな風にかけばいいのかもわからないから尻込みしてしまうのだ。


「葉風くんは絵に興味のない子だと思っていたよ」


 おじいちゃん先生が言った。

 僕は曖昧に笑う。


「課題は真面目にこなすが、適当にこなすことも熱心にやって遅れることもなかったね。自分の好きなものという条件ではサッカーボールを描いてきていたかな。でも一言の部分にはなにも書いていなかった。たぶん当たり障りのない画題を選んだんだろう」


 いわれて納得した。思い当たる節がいくつかあったから。そこまで見抜かれていたことに戸惑う。


「だから……てっきり美術に思い入れはないと思っていたよ、ふふ、すまないねえ」


 気にしていませんといながら僕は慌てて手をふって返した。

 先生はやわらかく笑っていた。



 おじいちゃん先生は筆に絵の具をつけてより細かいタッチで女優の指先に影を乗せていく。僕はそっと薄い線で輪郭を探していく。


 目を細めて一筆ずつ整える先生を横目に、うまい人の横で気後れしながらおそるおそる机にスケッチブックを広げている。


 先生は好きなのをかくといいと言ってあらかじめいきもの図鑑を渡してくれていた。


 宿題として次回提出するはずの課題には手をつけず、選んだライオンの絵を描いてみる。


 シャッシャと鉛筆で線を引く。生成りきなり色の紙ににび色の獅子ししが浮かび上がってくる。


 絵筆がキャンバスに乗る水音と鉛筆の硬い音色のハーモニー。静かな美術室に耳障りのいい音楽が流れる。


 先生に勧められて向かった画用紙に気づけば僕はのめりこんでいた。


「少し休憩しようか。わたしはコーヒーを入れてくる。葉風くんも飲むかい?」

「ええと苦いのは……」

「なら砂糖いっぱいのコーヒー牛乳を持ってきてあげよう」

「いいんですか!?」

「ふたりだけの内緒だよ、ひっひ」


 驚く僕相手におじいちゃん先生は口元に人差し指をもっていって楽しげな笑い声をだした。


 お茶目な様子で美術室を出て行くおじいちゃん先生。

 廊下を歩く軽快なスリッパの音が響いていた。

 楽しげな様子につられて僕も笑ってしまった。





 戻ってきたおじいちゃん先生と一緒に画材をよけてテーブルの空いた場所を選んで座り直す。


 磁器のマグカップは手首に負担がかかったけれど中のコーヒー牛乳で模写の疲れは吹き飛んだ。


 とびきり甘い、けれどコーヒーのほのかな苦みと牛乳のまろやかさが支えてくどくない味に仕上がっていた。


 先生も一息ついてコーヒーをおいしそうにすすっている。


「味はどうだい?」

「おいしいです!」

「そうかいそうかい、先生秘伝のブレンドだからねえ」


 茶目っ気たっぷりな先生はウィンクまでばっちり決めていた。それがもうおっかしくって、僕はくすくすと声をもらしていた。





 学校で味わった秘密の味わい。


 それから何度も先生と絵を描いた。

 時には進路の相談もした、担任より打ち解けていたのじゃないかとも思う。

 いろいろな話をした、先生が昔すきだった子の話とか、僕が気に入っているアニメだとか、あとは先生がこっそり集めていた女優のブロマイドを子供に捨てられてしまった話とか。


 そして今日、出会いと別れのシーズン。


 おじいちゃん先生は一足先に学校を去る。

 ほかの二年生がブレザー姿の上級生を送る準備をするなか、僕だけは違う場所にいた。


 卒業式の練習を抜け出しておもむいたのは油や絵の具の匂いのしなくなった美術室だった。


 窓から見える校門付近の立派な大木。降りしきる美しい雨でそこだけ別世界におもえた。


 先生はじっと窓の外を見ている。


「    先生」


 振り返って驚くおじいちゃん先生、きっと、なぜ今ここへと思っていることだろう。


 僕はこっそり持ってきたスケッチブックを先生に渡した。


「どうしても先生を見送りたくて」

「……はは、そうかあ」


 先生は呆れるべきか喜ぶべきか困りあぐねているような口調でだめじゃないかとしかった。それでもちゃんと中を確認してくれる。


「これは君が?」

「はい。どうですか、初めて描いたライオンと比べて」

「……すごくよくなった、これだから教師はやめられないんだ、……ほんと」


 くっ、とうわずった声を漏らしてしわの寄った目尻に輝く滴を拭う。


「まさか最後の生徒に泣かされるとはなあ」


 ――お疲れ様でした、と感謝を添えた。


 僕はここから見えている窓辺の景色とともに、記憶と、これまでの先生とのやりとりで得た資料を頼りに描ききった。


 これまで過ごした数々の誇らしい思い出を胸に、去りゆく先生の新たな門出を祝って。


 今こうして舞い上がる淡紅色に紛れてセピア色の画面のなかで笑う、恩師の姿を。

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仰げば尊し 冬木雪男 @mofu-huwa

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