いつか思い出すために

栗尾りお

とある放課後の話

 ガタリと椅子を引き、いつもの席に座る。そしてスケッチブックを広げた。


 絵の具とニスが混ざった匂い。背もたれのない真四角な椅子。窓辺を見ればジャムの空き瓶に入れられた筆たちが見える。


 いつも通りの変わらない光景。一つ違うとすれば、隣に彼がいないことだけか。


 横向きに座り、彼の特等席を見つめる。


 彼はいつも寝ていた。彼曰く、放課後は日のあたり具合が最高になるらしい。

 部活時間中にも関わらず、隣ですやすやと眠る。苛立ちつつも、その幸せそうな表情を見るのが好きだった。



 徐にスケッチブックを開く。そして無機質な白い紙の上に黒鉛を走らせた。


 目の前には彼はいない。いつもと変わらない日差しが席を温めるだけ。

 でも大丈夫。モデルなら私の頭の中にあるから。



 この学校は未だに部活動強制加入となっている。古の文化に苦しめられた生徒はどこかの部に在籍していなければならない。


 『行く気はないけど形だけ……』


 この美術部もそんな幽霊部員の巣窟だ。顧問も別に注意しないし、私も無理に来てほしくなかったから注意はしなかった。


 重い空気の中、1人また1人と来なくなり、最終的に私だけの部屋となる。正直それでも良かった。


 しかし彼は残った。

 いつも謎に遅れて来て、謎に私の隣の席で眠る。そして下校時間になれば一緒に部屋を出て、何気ない会話をしながら自転車置き場まで一緒に帰る。


 知人と表すには寂しく、友達と表すのも変で、恋仲と表すには酷く的外れ。

 この関係は進展しない。それを知っているから私はスケッチブックを広げたんだろう。


 遠い未来でまた彼の寝顔を思い出せるように。



 「うっす」



 思い出に浸りながら手を動かす私に声がかかる。驚きつつも振り返ると彼が部屋の入り口にいた。


 無意識に緩くなる頬。しかし、スケッチブックに描かれた絵が危機的状況であることを教えてくれた。


 咄嗟にスケッチブックを抱き締める。左手はスケッチブックの角を。右手は左腕を押さえつけるように。

 固まる体、出せない声、激しい鼓動。まるで自分が自分じゃないみたいだった。


 何も言えない私の横を過ぎ去り、いつもの席に座る。

 彼にとっては、いつも通りなのだろう。私もいつも通りなら、目を見て話すことくらいはできる。

 でも今は状況が状況だ。


 文字通り抱えた秘密が私からいつも通りを奪う。どこを見ればいいか分からなくなった目線は宙を泳ぎ回った後、彼のつま先に落ち着いた。



 「……う、うっす」



 「それ、何の絵?」



 「えっと……別に? た、ただのデッサンみたいな?」



 「ふーん……ところで、裏に何か描いてるぞ。相合傘みたいなやつ」



 「え? 嘘⁈」



 そんなもの描いた覚えはない。それでも『相合傘』という言葉を無視するわけにはいかなかった。

 誰かがイタズラか。それとも私が無意識に描いていたのか。どちらにせよ、すぐに消さなければ。


 焦った私はスケッチブックをくるりと裏返した。

 目の前に掲げて、隅から隅まで探す。だが相合傘は見つからない。それどころか線の一本すら描かれていない。綺麗な白色だった。



 「……お前さ、バカなんだから勉強しろよ」



 「は?」



 唐突な煽りに掲げていたスケッチブックを下ろす。その顔は心なしか少し赤くなっているように見えた。



 「今日は帰るわ」



 そう言って立ち上がり、早足で部屋から出て行った。

 首を傾げる私。しかし彼の謎エピソードは今に始まった事ではない。考えるだけ無駄と判断した私は再び、くるりとスケッチブックを裏返す。


 真っ白の世界が一変し、白黒で描かれた彼の寝顔が現れた。



 「……待って」



 現れた絵を見て固まる。

 私はさっき白紙のスケッチブックを掲げた。裏面に描かれた彼の寝顔を本人に見せるようにして。


 顔を赤ながら言った「バカなんだから」という言葉の意味が今にして分かった。



 「違うからっ!」



 叫ぶように否定する私。しかし振り返った先には彼はいなかった。

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