2/2話
"ゲイリー・サナダ"だなんだと名乗った長髪の男は(ほらほら、と手の甲を見せて振りながら)ジミーの取り巻きの一人を押しのけて席に座るとまずトマトと葱とチリソースの卵とじを注文し、それを聞いた彼女が店主の方へ向かって行ってから、
「いいですか、お三方」
「おいおい名前を呼んでくれんか。私はオドリスコで、そっちは――」
「ではオドリスコさん。しっかりと事情を説明しますから、良く聞いていて下さいね」
「それも聞いておるよ」
「オーライ。ではそれを読んでみて下さい」
するとジミー・オドリスコは軽く口の端を歪め、明るい緑のスポーツコート、その襟の辺りを折り直したきり動かない。彼は教官や上司、審判を下す神にすら命令されるのを嫌がる男なのだ。同様に取り巻き二人も黙ったまま。結局サングラスの男が書類を捲って、対面が見える様に天地を返して示すことになった。
「ココです。読んでみて下さい」と太線の欄を指しながら口にした後、しまったと彼は思った。いや、これ位のお願いなら聞き入れてもらえるかもしれない。
そして、当然の様にジミーは動かなかった。
「では、僕と一緒に読んでみましょうか」
「それは結構。今読んでおる。それとも口に出さなければならんのか?」
「したければどうぞ」確かに、口に出す必要は無い。
「それで?この水難事故の記事がどうしたというんだね」
「大事なのは、その記事に附された手書きの方です」
ジミーが注視してみるとその紙はガリ版原紙のような、謄写用の紙に書かれた原稿である事が分かり、コラム枠をなぞって敷かれた太線の外には手書きで電話番号と名前が数人分附されているようだった。
「それじゃ、アンタは記者なのか」
「ある時は」
「だが証拠はない」
「向こうの編集者の名刺なら持ってますがね、でもそれじゃ納得されないでしょう。だから関係することなら満足するまでお話しすると、そう言ってるんです」
彼女はエイブが鉄板に卵を落とすのを眺めながら、それでいて耳と意識は奥のボックス席に向いていた。平日の日暮れ間近という時間帯に対して店内には殆ど人が入っていないから、少し離れていても声は聞こえる。エイブが大通りからは遠いこの通りに店を構えたのは郊外へ帰っていく人々と地元の人々をサービスの対象にする為だったが、そういう人々はもう少し遅い時間になってここらを通りがかるのである。
聞こえてきたのはゲイリーとかいう男の身元に関することであった。彼は当局付き記者のバイトをしていて、その書類はその原稿だったこと。本業は自動車の修理工だったが数ヵ月前から休職していること。
「じゃあ、あなたは知ってたのね。あの人のコト」と彼女は尋ねた。
「見掛けた事はあるかもしれんが、覚えちゃいない」
「けどほら。サングラスなんかしてたら分かり易いでしょ」
「この時間帯ならな。でも今日は急いで来たとか何とか、言ってただろ?この後はまた混むからな」
「きっと目が悪いのよ、あの人」と店主の話を打ち切るように彼女は言う。そうかもな、とエイブも同意した。
◆
「ひとまず、アンタの事は良く分かった」
ゲイリー・サナダはちっとも嬉しくなさそうにそうですか、と答えた。
「だがな。それじゃ辻褄が合わんだろう。現に私は見とったんだから」
「ああ、別の客がどうとか、言ってましたな確か。では聞きましょう。誰がこの原稿を置いて行ったんですか?」
「それならあの店主に聞いた方が早いだろう」と老人が言い、ゲイリーは彼への認識を改めることとなった。あの老人が記憶に自信が無いという、不都合な真実を正直に示したからである。
一同は席を立ってぞろぞろと、三人の少し後ろに遅れて奥に居たゲイリーがついて来て、店主と話せる位置に座った。そこはついさっきのカウンター席である。
全員が席に着くと待っていたように、店主が仕切りを越してどこかアジア風の見た目をした卵とじと珈琲(先の注文の時、ゲイリーは珈琲を料理に合わせて出してくれるよう頼んでいたためである)を給仕した。クリームはご自由に、という感じで横に置かれる。店員の女の子はまたスイング扉から厨房側に回って、少し離れた回転いすに腰掛け、厨房の大きく張り出した換気扇装置越しに彼らをぼんやり見ている。
「じゃあ親父さん、憶えていることを話してやれ」と老人は促し、まず店主が話し、それに老人や他の客が訂正と注解を入れながら説明会が行われた。その間にゲイリーは卵とじをまず横一文字に割ってから一口大にして食べ進めていく。
暫く、という表現にとっては半端な時間、数分であっけなく説明会は終わり質疑応答の時間に移るとジミーは横のサングラスの男に"さあどうだ、何とか言ってみろ"、と視線を遣った。するとゲイリーは「成程」と一言だけ口にする。その後しばし沈黙が訪れ他の面々が彼の動向を見守って何も言い出さないでいると、彼は紙ナプキンで口を拭い老人と店主に続けて目をやってから肩を
「なにが『成程』、だ。自分の潔白だけ証明して良い気になりよって」
「まあそうですな。聞いた所は大きな矛盾も無いですし」
「じゃああの男は、一体何者だったんだ?」と取り巻きの一人が言う。
「素性は分かりませんな」
「何が言いたい?」
「つまり、皆さんが答えを欲しがる理由が退屈な暮れ方の
◆
頭の体操のような仮定の話ですよ、と前置きしてゲイリーは話し始めた。
「まず例の男は――スミスとでも呼びましょうか、そのスミス氏は印象的な要素を持っていた。一つに、服装です。強い日差しを気にも留めないような真っ黒なスーツであったと。ですがそれは特異であっても、奇妙ではない。こんな場末の、おっと失礼、郊外のダイナーにおいては不釣り合いな恰好ですが、街中なんかで見かけても変人というのでもない。昔気質な保安官なんかが何時でもスリーピースを着ているようなもんです。この、"目立つが場違いでもない"という所が肝要なんです。つまり彼は然るべき地位や職に従事する剛直な男か、そう擬態しているかの何れかでしょう」
「擬態?」
「そう。僕がそれを疑ったのはこの原稿に落ちた茶色いシミと、推定"スミス氏"の車の二点においてです。まず前者から」そう言うと彼は机に置かれた紙の表面を叩いた。
「このシミは僕が付けたものじゃありません。今日ここに来る前に事務所で受け取って置き忘れてしまった原稿にシミを作るとするならこの店で飲んだ珈琲くらいしかありませんが、どうやら違う様です」
「分かったぞ。染みは白くない。ミルクが入っておらんからだな」とジミーが口を出す。
「いいえ。僕は山ほどクリームを入れるのではないから、大した見た目の差は出ませんよ。問題は、触感と匂いです。ほら」
「匂い?そう変わらんように思えるが」
「触感も大差無さそうね」と女性店員が脇から手だけ突き出して触りだす。
「そう、問題は変わっていないコト。クリーム入りを零したりしたら脂で滑りやすく滑らかになったり、厚っぽくなるものだけど、これからは殆ど何も感じない。そして仄かに甘い匂い。僕はノン・シュガー派だし、ミルクの自然な甘味なんて紙には残りません。だからこれはシロップの甘味なんですよ」
「それで?それがあの男の正体に繋がるのか?」
「類推は出来ます。これは出店やコーヒーショップの味というより署内や役所内で給される退屈しのぎの間に合わせの味。僕はご馳走になったことがあるから分かりますが、留置所の珈琲は不味いですよ。もういっそ、砂糖を山ほど入れたくなる程に」
「あとさっき、車がどうこう言ってなかった?」と話し始めると「おいナオミ、注文だぞ」と店主が窘めるように彼女を呼んだ。
「あ。はーい」
ゲイリーは彼女が戻ってくるのを待つように一旦話題を休止して、カップに口を付けた。その少しの間で老人は先の会話を整理して、話の核心に辿り着いたようで彼に詰め寄るように問いかけた。
「アンタの話は確かに面白い。だが結局この話はどこに行き着く?その男は――」
「スミス氏ですよ」
「――ミスター・スミスは原稿を結局どうしようとして、そしてなぜ置いて行ったんだ?」
「オーライ。それじゃ車の話題より先に一体スミス氏が何の為に、そして何をしたのかを大まかに説明してしまいましょう。勿論、予想ですがね」
そして間もなく彼女が戻ってくると、講義が再開された。
「僕は今のところ、スミス氏が詐欺を働こうとしているのだと考えています。おそらく、補償金詐欺とかその辺りでしょう。僕が記者かそれに類する職業人であり、原稿をこの曜日に店に持ち込むことを事前に知っていて、大きな事件や事故に合わせて被害者や関係者の個人情報を盗もうとした、という訳です」
「じゃあ何故、原稿を戻したりしたんだ?盗んだのなら不自然だろう」
「ああ、それは簡単ですよ。まあ記者なんかの経験が無いとぴんとは来ないでしょうが、記者や警察、医療従事者なんかは事件や事故の詳細を故意であろうと無かろうと漏らしたりすれば告訴されたり免職にあったりするでしょうから、気づいたとして大抵は黙っておいて仕舞うでしょうね。それにもし取ったままにしておいて被害届や紛失届なんかを出されれば、大事になって困るでしょうから」
「貴方はどうするの?」と彼女はゲイリーに聞く。
「後で本社に電話でもしてみるよ。アルバイトだし、長く続けるつもりはなかったから構わない。責任の一端は僕にもあるだろうし」
「それは分かった。だがなんでスーツを着る必要があったんだ?今のところその男は変装じみた事をする正当性がない風に聞こえるがね」
「そこの所は難しいですが、恐らく僕らや店の人々を欺く為では無いんでしょう」
「じゃあ誰を?」
「遺族や関係者、彼らを直接訪問するつもりなのかもしれません。きちんとした格好で重々しく振舞えば、事情を知っている警官か何かだと思ってしまうでしょうから。もしかしたらこの店に寄ったのも原稿を返したのも
「それじゃあ。車っていうのは……」
「それだったら、知ってそうな人に聞いてみましょう」
彼は立ち上がると奥の、先程居たところとは違うボックス席に座っている二人の客に近づいた。濃い髭面の眼鏡の客と、頬のこけた客である。
「すいません。あの、店の外をずっと見てましたよね」
頬のこけた方はじろとこちらを睨み、髭面の方がのっそり話し出す。
「アンタと、何の関係があるんだ」
「まあ聞いて下さいよ。この店に入った人は少ないですし、車で乗り付けた人数もほぼ変わらない。どんな車が止まったか、それがどんな客だったか、覚えてますか?」
「いちいち全部は覚えてられん」
「それじゃあ、ダークスーツの客。店の主人に呼び止められて、その後すぐ出て行った客が居たでしょ」
「ああ」
「どんな車でした?」
「新車っぽいのは覚えている。あと銀のバッジが後ろの所に付いてたな」
「なんと?」
「GL、とか何とか」
「どうも、有難うございます」
ゲイリーが礼を言って立ち去ろうとすると、髭面の中年は待て、と呼び止める。
「どうしました」
「いや。俺はそこの筋を入ったところで店を持っとるんだが、常連客の一人に同じ車に乗ってる奴がいたよ。確か会社からボーナスとして現金でなく車を貰ったんだとさ」
「成程。いや助かります」
「フン、あんたは頼りなさそうだしな。もし自衛用の道具が必要なら、俺の店で安くしとくよ」
彼はカウンターの席に戻ってきて、珈琲をまた一口飲むと、講義の締めに取り掛かった。
「おそらくスミス氏の車は、フォードのエスコートGLモデルでしょうな。あのバージョンは課長級なんかが買っていきますし、高級官僚なんかが持っていておかしくない車です。スミス氏はどうやら詐欺を生業としているようですね、仔細まで配慮している」
「そんなモノまで用意するなら、
「おそらく盗んだんでしょう。そしてこの原稿と同じく返す予定でしょうね。この店での振舞いを聞いてみればプロのようですから、スーツを着て何食わぬ顔で署内に出入りして拝借してきたのでしょう。もしかしたらその時に掴まされた珈琲の染みかもしれませんし」
◆
サングラスの男、ゲイリー・サナダ=ジロウ・ジュニアは店内の電話で一報入れた後は珈琲を飲み干し、店内のまだ居る客たちに軽く挨拶してから、店を出て行った。空はほとんど黒に近い紫で、おそらくもう数分もすればこの店も混み始めるだろう。そして彼女はそんな折にとある謎に思い至り、彼の後を追って慌てて店を出ていった。
「ちょっと待ってください」と彼女は少し息を切らしながら呼び止めた。
「もしかして、会計をまずったかな」
「いえ、そうではなくて…」とそこまで口にして、彼女は言葉に詰まる。彼のことを何と呼べばいいのだろう?その当惑を読み取ったのか、彼は少し照れた感じで笑いながら言った。
「僕はゲイリーでもサナダでも、何ならスミスでも構わない。"ジュニア"なんて呼ぶのは父さんくらいだけど」
「それじゃ"ジロウ"は?」
「そこは自分で付け足したんだ。フランス人みたいで、格好いいだろ?」
そうでもないな、と彼女は思った。
「それで、名前について聞きたかったとか?」
「あの、最初クリームを注文されましたよね」
「うん」
「でもわたし見てましたけど、結局使わなかったじゃないですか。だから、アレは珈琲の話をする為の――」ブラフなんじゃないか、とは言えなかった。
「――ブラフ、じゃないかって?」と彼は眉を吊り上げる。
「ええと。まあ、そんな所です」
「あれはね。僕が忘れ物をした
「?」
「友人から聞いたとっておきでね。珈琲にカナディアンクラブを半オンス入れて、必ずその後にクリームを足す。頭のさっぱりするいい飲み物になるんだが、今日はその小瓶を忘れてきてね」
「店の中で、それを作るつもりだったんですか?」
「普通怒られるけれどね。ここの主人は睨みつけるだけで許してくれる」
「許されてはないと思いますよ」
「ともかく、そんな訳なんだ」
「でも、そんな飲み方初めて聞きました」
「だろうね、友人が考えたんだから。ちゃんと名前もあるんだ」
「なんて云うんです?」
「ガス・ストップ・スペシャル、そう呼んでる」
ガス・ストップ・スペシャル 三月 @sanngatu
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