本編
1/2話
お客さん、と店主が呼び止めると男は振り返り、見た者を気後れさせるきっちりしたダークスーツを留めておくボタンの顔と汗ばんだ跡だけが残るシャツの襟先が店主の方を向いた。
「何か?」
「忘れ物だよ」お客さん、と店主は後ろに付け足してそう言う。男は自身の眼球の手綱を離して奥へ少し泳がせると、扉の取っ手に手を掛けながら続けた。
「
「でも――」
「ソイツは初めからあったんだよ、ご主人」
店主が制止する暇もなく男が出入口の傍に止めてあった青み掛かったグレーのフォード・エスコート(味気ない"GL"のバッジが左後方に見える)に滑り込むと瞬く間に発進し、ほとんど誰も居ない通りを走り抜け、1ブロック先にあるメキシコ料理店の辺りで曲がって見えなくなった。
◆
男が店を出てから秒針があくせくと十周分ほど働いた後、別の来訪者が現れる。来訪者は先の男とは違い晩夏の夕暮れに備えた格好で、袖が程よく絞られたシャツは胸元が開けられ下から淡い茶色のTシャツが覗いている。下には
「ええと、珈琲一つ。それにクリームを別で」
すると注文を聞いていることを示すために店主が顔を向けた。
「あとさ。忘れ物とかって取って置いてたりする?」
「例えば、
「今朝の8時か9時、そこくらいだったと思うんだけど…」
「午前中は見かけなかった気がするがね」
「そうか」
「まあ全部取って置いて有るから、見てみたら良いと思うよ。お客さん」そう言って店主が身を屈めるとテーブル下から下半身だけ切り落とされたような段ボールが取り出され、その中には厚紙製の内臓ではなく、財布や名刺入れにペンやファイルなど、確かに忘れ物が集められている様だった。
ローマ兵風の靴の男は顎を引いて箱を俯瞰し、すると彼の顔の輪郭をなぞるように垂らした神経質な髪(当世では"触角"という奴だろうか)が涼し気に揺れる。おそらく彼が長髪を額から後ろに持って行ってお団子に結んだ際に漏れた髪の束だろう。だらしなく見えない程度に伸ばしたもみ上げを押しのける蔓の先についたレンズは、何とか相手の瞳が見える位の色が入っている。薄暗くなってきてからサングラスとは良い趣味だ、と店主は思った。
そしてサングラスの彼が箱を覗き込んで数秒後。あった、と取り出されたるは緑色のクリップで纏められた紙束である。
「それはアンタさんのかい」
「うん?」
「だからそれはアンタさんのか、と聞いとるんだ」
サングラスの男が声のする方を振り向くと、呼び掛けたのは奥のボックス席の一つを占める中年以上で構成された集団の内の一人だった。彼らの他は不安げに事態を静観しているが、呼び掛けた初老の男は相手を圧倒するように畳みかける。
「間違いなく、アンタの忘れ物なのか?」
「見た感じは」
老人は仲間内を得意げに見渡し、そして続けた。
「嘘吐きめ。それはたぶん、アンタの物じゃないだろう」
◆
彼女は店から一番遠い区画に駐車して、"C&Aデリカッセン"の店内からの電飾光を背に浴びながらトランクからの荷出しを続けた。とは言っても三箱程度を台車に載せればそれで全部であったので作業はすぐに終了し、鍵穴が馬鹿になったバックドアを勢いよく閉めると、黄昏が終わりかけて斜光が零れるように差し込む通りを何気なく眺める。けれど彼女は忽ち気を取り直し、どうして通りなんかを眺めてみたのか自問自答しながら裏口の方へカートを押していった。扉の前に着くとエイブの言い付けを守って、二つの錠の上の方だけ開けておく。
"エイブ"というのはこの雑貨店・ダイナー・給油所の店主/管理人であり、彼自身は
氷詰めにされたザリガニが硝子越しに覗く棚を通り抜けると、彼女の耳には調子の狂った声が聞こえてきた。それは演奏中に弾けた楽器の弦の断末魔のようで、誰かが誰かを言い負かそうという時に特有の音色だった。
彼女はエプロンを掛けながら
「どうかされました?」
「ああ、この男がな――」「いやだから、説明したでしょ」
「――だから、証拠を見せろと言っとるんだよ」と初老の男は少し居座り直してから、長髪の男と女性店員とを舐めるように睨んだ。
初老の男はジミーと呼ばれていて、長年地元の食品製造企業――当時はドレッシングソースが主力商品だったが――の経営コンサルをしていたが解雇された。表向きは高齢による体力・精神的衰えであったが、実際の所は専務と共に行った多額の出入金の記入漏らし、いわゆる脱税を追及された為である。だが彼は刑事的告訴を受けることなく(代わりに会計係は数人塀の中にいる)、退職金は出なかったものの、地元の名士としての一定の地位を維持したまま矢の如く未来に突き進む時間と鈍っていく身体の矛盾を愉しんでいた。素敵な老後ではないか?
そんな彼の最近の趣味は、昔読んだ推理小説の真似事である。近所のレストランに代わる代わる居座っては、目に付いた謎を追求する使命を負っていると勘違いをしていた。そんな訳だから今度も新たな謎を嗅ぎ付けて、サングラスの男に噛み付いたのだろう。そう彼女は推理した。そしてこの推測は当たっているから、彼女の方がジミーより余程素質がありそうだった。
だから彼女はジミーの話に一通り耳を傾けたフリをしてから、"中年の危機"的集団の前に立たされているままになった若いサングラスの男に話しかけた。
「どうされたんですか」
「いやあね。この人が、どうも僕が怪しいんだ、と言って聞かないから…」
「怪しい、とは?」
「こっちは忘れ物を取りに来ただけだってのに」
「それはこの?」と彼女は机に投げ出された書類を指差す。
「そう。朝に僕が置き忘れたもので、さっき気づいて取りに来たんだ」
「だが私は見たぞ」と老人が割り込んでくる。
「見たって…」
「その
「確かに、ついさっきのお客さんでしたね。ですが確認したら違う、と言うもんですから」
「だったらその置き土産を、他の奴に渡しちまうのか?」
割り込むように別の客がぼやいたが、少し離れた席で卵料理を食べていた濃い髭面の男は目も合わさずにそう言ったきり食事に集中している様である。その席にはもう一人の連れが座っていたけれど、そちらはむっつりと視線を送るだけで一言も発さない。
「自分のではない、と本人が云うなら、そうなんでしょうよ」と店主が付け足した。
そんな時、彼女はサングラスの男のある所作に気が付く。彼は机に置かれて紛糾する議論からは遠く離れてしまった書類を汚いモノか、あるいは証拠品のようにその端を指で摘まんだのである。彼女からの怪訝な視線に気が付くと、サングラスの男は笑って言った。
「これ。見てよ」
彼女はその代物を手に取ってみると、一見したところでは分からなかったが、捲って二枚目以降には渋い茶色のシミが広がり、その液体を吸っただろう紙が縮んでしまっていた。
「珈琲でも零しました?」
「いいや。少なくとも、僕じゃないね」
どうしてそう言い切れるんだろう、と彼女が考えていると、男は大袈裟な
「
「そう、匂いだ。砂糖を煮詰めたみたいに強烈な、最近の営利第一の店では出せないニオイだろう。特に官給品じみた、甘ったるいだけの奴は」
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