愚者の柘榴

秋犬

愚者の柘榴

 キャンバスとパレットには、その部屋の空気と同じくらいの濃密な絵具の層が出来ていた。何度も書いては塗り込め、画家は質感を平面に求める。


「ないものをあるように見せるのだから、さながらおれはペテン師だな」


 画家はパレットナイフをキャンバスに滑らせる。鮮やかなヴァーミリオンレッドがキャンバス上の人物を切り裂くように叩きつけられる。


「あら、貴方は本物よ。偽物は貴方以外の世界のほう」


 キャンバスの向こうに座っている、澄ました顔をした貴婦人が語りかける。彼女と画家が人知れぬ関係であることに気がついているのは彼女の夫だけであったが、情婦を幾人も抱えている彼も妻の火遊びを咎める立場になかった。


「そんな、それでは奥様も偽物になってしまうではないですか」

「私は最初から偽物よ。子供を生むことも求められない、ただのお飾り」


 貴婦人の表情が曇る。画家はその眉の美しさをキャンバスに絵筆で刻み込もうとして、やめた。


「奥様をそのように無下に扱うなど、想像ができませんね」

「男ってのは肩書きに弱いのよ。自分より身分の高い女を集めるのにはご執心だけど、その管理をするところまで気が回らない。身分の高い女にはドレスを着せて座らせるだけ。身分の低い女は反対にドレスを脱がせるの」


 貴婦人は立ち上がると画家へ歩み寄る。そして後ろから画家の肩に手をかけ、キャンバスを覗き込む。


「やだ、何でこんな色なの?」


 画家は貴婦人の肖像画を描いているはずだったが、その身体に様々な赤が乗せられていた。まるで柘榴のように爆ぜる貴婦人の身体の上に、青白く澄ました顔が乗っている。


「これが貴女だ。肩書きもドレスも脱がせてしまえば、胸の中に赤黒い欲情を抱える1人の女。魅惑的で子を成すに相応しい、愚かな女」

「あら、私のことがよくわかっているじゃない」


 貴婦人は滑らかな指で画家の上腕を掴む。


「ご安心を。仕上げには素晴らしいドレスをお召しになられた奥様のお姿になりますよ」

「まあ、なんてつまらない絵!」


 貴婦人は鈴のような声で笑う。画家はパレットと絵筆を置くと、その腕に貴婦人を収める。


「ああ、つまらない。こんなに美しいものを美しいままに描けないなんて」

「私が美しいのなら、貴方はもっと美しい」

「とんでもない、私は卑しい絵描きにすぎません」

「美しいことに貴賎があって?」


 貴婦人は画家の腕の中で身を捩り、その唇と唇を重ねる。


 貴婦人との逢瀬の度、画家は死の国へ誘われているような気分になった。この関係が白日の元に晒されれば、間違いなく命はなかった。それでも飢えたペルセポネのように、画家はザクロを口にする。たった数粒でも、それは喉を潤す甘い味がした。


 長い長い抱擁の後、乱れた衣服を貴婦人は整えていた。間もなく彼女の夫が帰ってくるだろう。


「貴方から見て、私はどう見えているの?」

「この絵の通りさ」


 衣服を直した画家は、キャンバスの上に1枚の紙を乗せる。それは鉛筆で描かれた、貴婦人の溢れるような笑顔のスケッチ画だった。


「これも偽物なの?」

「いいや、こっちは本物だ」


 貴婦人は画家に再度しがみつく。愚かな女だ、と画家は貴婦人の髪を撫でながら思う。そして、そんな果実を貪らずにはいられない自分はもっと愚かだと密かに自嘲した。

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