際目
坂本忠恆
際目
シュトラッサー夫人からツェツィーリエの居場所を訊かれた僕は何も答えなかった。額を掠める陸風が冷たかったが、僕はそれと戯れるつもりで、黙って首を横に振った。周りの大人たちも、黙って僕を見ている。夫人は口の端を痙攣させるようにしながら微笑むと、僕の肩に手をのせて、諭すような、そして哀願するような切実な眼差しを向けてきた。僕は俯いて目を閉じると、沈黙を続けた。
ああ、僕は子供だ、と、僕は僕に言い聞かせた。僕はもう十五だった。近くの道路を自転車が通り過ぎる音が聞こえた。もっと遠くのどこかからは、子供たちの声が微かに聞こえてきた。その中には聞き覚えのある声もある気がした。そうか、もう学校のひける時間なんだ。僕も家に帰りたい……そして、ベッドに潜って、あのくぐもった音のするラジオで、何でもいい、音楽を聴くんだ。
風にはクローブの香りが絡まっている。何処から来たのだろう。夫人が僕の肩から手を退けた。僕は夢から醒めたように目を開けた。
「もう警察しかないわ!」
我慢を切らした夫人がそう叫ぶと、社交界然とした旦那連中は眉を潜めながら互いに目くばせをした。今こそは、僕も彼らの頭の固さに肖りたいと思った。半人前の僕は、まだ彼らの庇護下にあるべきなのだから。
すると、僕より二回りは年嵩の青年が前に歩みだした。ツェツィーリエのお兄さんだった。彼は夫人を、自分の母親を、宥めるような調子で、同時にどこか女の愚かさを嗤うような、衒気的な調子で、言った。
「二人の感情も少しは斟酌してやらねばなりませんよ。我々は距離を経るごとに、故郷も、子供時分のことも、忘れてしまうというのはさも事実でしょうがね、何も忘却の彼方と言うわけではありますまい。時折胸に手を当てて往時をしのぶくらいの郷心はあって然るべきでしょう? さあ、どうです? 果たして心配し過ぎるような事柄ですかね?」
夫人は反論の意気もなく恐る恐る口を開いた。その声は震えがちだった。
「でも、まだ子供よ」
彼は何か含むような笑みをこぼすと、僕を見た。
「子供じゃありませんよ。そりゃ、大人ともよび難いですが」
と、今度は彼は旦那連中の立つ側を見廻した。
「なら、この件はきみに任せるとしよう」
そのうちのひとりがにべなく言うと、邸内に戻っていき、にさんとそれに続いた。
結局、僕と彼のふたりだけが戸外に残された。陽は沈みかかっていた。
一匹の蠅が僕たちに纏わりついていた。彼はそれを片手で追い払おうとしたが無駄だった。厄介なことはこの蠅のように、僕たちの弱みに付け込み、近づいては離れ、掴もうとすれば掌から逃れていく。しかし、厄介事の正体がこの蠅であると決めて本当によいのだろうか。腐肉からひとりでに生起してくるウジのように、その因果はそれを担う肉体と業を同じうしているのではないか……そうだとして、そんなにも、僕たちの肉体は腐った臭いを放っているのか? 考え詰める程に、これは僕たちの存在に関わる大事に思われてくる。生ける肉と、死した肉という背反が、僕には穏当な対立には思えなくなってくる。
「具合の悪いことについては何も答える必要はない。私にもきみと同じような時代があったのだからね。思い出の中から過去の自分が誰よりも雄弁に教えてくれるのさ」
僕と一緒に、暫く何も言わずに、時折蠅と格闘しているだけの彼だったが、だしぬけにこう口を切った。
彼は年長者が若年者に教え諭すときの芝居がかった調子をより強めながら続けた。
「しかし、丸一日姿を見せないというのは看過し難い。こう思う親たちの立場も分かるね?」
僕は小さく頷いた。
「きみを責めるつもりはないよ。どうせきみはあれに頼まれただけなのだろう?」
僕はまたも頷いた。
彼は盤上を掌握しつつある棋士の全能感で少し得意になっているようだった。同時に、鷹揚に振舞うことが今この場で自身に課せられた義務であると、そう心得ているのだ。僕もまた装った子供としての役割に事寄せることで、このような大人の慢心に易々と付け入ることができた。
足許の芝生と、そばだつ糸杉の梢が、同じ風にそよめいて、少しだけ違う音を重ねた。
「しかし、あれはきみに、いったいどんなことを頼んだのだろう」
僕は唾を呑んで、僕より少し背の高い彼の表情を伺った。夕日が影になって、いよいよ彼の顔にも落ち始めていた。
薄暗くなっていく視界で、物の輪郭は次第に曖昧になっていった。向かいの家々に輝く窓々を見ると、不思議と僕の胸が痛んだ。行き交う自動車の前照灯が、何かあられもないものを探りに夜の闇の秘密へ駆り出されていく一隊に見えた。
街灯が灯った。その灯りと、空を黒く染め抜いていく世界の秘密が、彼の白いシャツの上でせめぎ合っていた。彼が一歩僕に歩み寄ると、瞳がちらりと閃いた。
「あれが今どこにいるか、きみは知っているんだね?」
依然僕は黙ったまま身じろぎもしなかったが、そのことが彼に一層強い確信を与えたようだった。
「今の私にはきみたちの監督義務がある。その上でこんなことを言うのは無責任かもしれないが、私にきみたちを裁くつもりは毛頭ない。だから、安心しなさい」
それでも中々口を開けない僕を見て、長くなることを覚悟したのだろうか、彼は芝生の上に腰を下ろした。街中に浸潤してくる夜暗の中から頭を擡げるようにして僕を仰ぎ見る彼の顔が、その歯が、不敵に白く光った。僕は彼に倣わずにその姿をただ見下ろした。
風が冷たさを増してきた。彼はひとつくしゃみをした。それから何度か懐のマッチを探るような仕草をして、その度に思い出したように手を留めた。彼の挙手には、普段の彼の身分を顧みない、粗野を美徳にする、木に竹を接いだようなぎこちない習慣が漂っていた。それだけが彼に残されたある種の若さの反抗だった。
「きみは何を恐れているんだ」
座ることさえ厭うように、地面に釘付けされた僕に、とうとう少しの苛立ちを込めて彼は言った。その言葉にさえ、どこか常套的な響きがあった。
僕には、全てを芝居にしてしまおうという彼の魂胆が分かるようだった。彼は待っていた。僕が何かクリシェのひとつでも口にすれば、舞台は月並みな幕引きに逢着するのだと、経験を経た彼の頭は信じているようだった。
それでも、やはり役目を演じようとしない僕を前に、彼は挫折しかかっていた。そして、ふと彼は照れたような表情をした。夕闇の下で、それは漠然と決まりの悪い瞬間だった。
彼は思想を話そうとしているのだ、と僕は思った。それは、大人たちが自分の子供時代の形見の中から、歪に変質してしまった負い目を披瀝する、ばつの悪い、見るに堪えない瞬間であることを、僕は知っていた。
「そうさ、若さを裁くことはできないのさ……」
どこか苦々しく、彼は始めた。
「天才と同じだ。あらゆる事物に対して超然としていることが、裁かれない唯一の方法で、そして同時に、裁きを与える側に求められる資質なんだ。若さは無自覚によって、天才は才知によって、それを可能にしているんだ。きみはいったいどっちなんだろうね?」
彼の言葉はどこか呪詛めいていた。
「なるほど、沈黙を貫くというやり方も、ひとつの制裁であるわけか……そんなにも、大人は罪深いのかい?」
みるみる陽が落ちていく。
闇の水面が、彼の顎先をなめていた。
「そうか、なら私もひとしきり言い終えた後は、沈黙し通すことにしよう。きみも好きにするがいいさ……若いということは、確かにすべてを許すにたるのだ」
闇が、彼の髭を溶かしていく。
小綺麗に揃えられた口髭。シェーブフォームの甘い香り、洗面台の水の冷たさ、安全カミソリのくすんだ輝き……。
「あれも最近は黙ってばかりだ。最後に話したのはいつだったか」
僕は何だか立ち眩みがしてきた。耳の奥で、なにかが鳴っている。
朝の鐘、学校。
石灰の感触。
ヨードチンキに、塩素の匂い。
そうだ、お母さんが、ジャガイモを炒めているんだ。
「黙りこくっていると思ったら、突然に、真実の愛だとか、美しい真実だとか、あれはそんなことをしきりに問いただしてきたのだった。本当に、埒もないことだ。どうして若さは、帰属することや権威というものを無闇に嫌って、真実なんてものを求めようとするのか。それを掴む握力もない癖に。きっと今度だって……」
真実、不朽。愛、力。肉体。
僕はふらついて倒れかけた。
彼は慌てて立ち上がると僕を庇った。
肩を貸すという、純粋な所有の行使。何と美しい……。
「大丈夫か」
僕は彼に体重の半ばを預けながらやっと立っていた。
「何と、答えたのですか?」
僕はうわごとを言うように、そう問うていた。
彼は動揺したように目を見開いた。
「なに?」
「真実とは、何と?」
「……真実が美しいと思うのなら、そんなものは無い、と言った。真実は喪失と背中を合わせた柱木のようなものなのだと。喪失の成長を柱木に彫りこんでも、それは記録と呼ぶにも覚束ないもので、我々はその喪失の記された全体に真実という言葉をあてがって、人生という漠としたものの体を見繕っているのだ、と。しかし……」
彼の声は、先方の彼の母親と同じように震えていた。
「しかし?」
彼の表情はみるみる動揺の色を強めていた。
「しかし……喪うことが人生なら、そのような諦めによって、初めからありもしないものを愛おしく感じるのも、また人生なんだ、と……」
僕は彼を引き留めなければならないと思った。
足許のふらつきは消えていた。
僕は、彼をツェツィーリエを置いてある場所に連れて行った。
際目 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto
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