純情と桜

諏訪野 滋

純情と桜

 サクラサク、などという電報で合格を伝える時代は知らないけれど。

 あれから一か月、私は真新しいスーツに身を包んでここにいる。


 大学の入学式を終えて講堂のロビーから屋外に出た私は、キャンパスを吹き抜ける風の思いがけない強さに、伸ばし始めた髪を片手で押さえた。まだひんやりとした四月の空気にもそれなりの暖かさは含まれているのかもしれないが、今の私にはよくわからない。高校を卒業してから今日に至るまで、私は出来るだけ周囲の物事に心を動かさないようにしてきた。かつての日常を思い出すたびに、喪失感がかき混ぜた泥水のようにもやもやと表層に湧き上がってきて、いったんそうなってしまうとそれは容易には底に沈まないからだった。


 誰もいないがらんとした校舎の一室で互いの大学合格を祝った後、あの人は不意に私に唇を重ねてきた。それまで彼女のことを友人だとばかり思っていた私は、その時初めて深層に押し込めていた自分の本当の望みに気付いた。女同士だとか、そんなことはどうでもよかった。彼女の視線や吐息を独占出来るのならば、他の誰かに嘲笑されようが嫌悪されようが一向に構わなかった。同級生、友人、同性、そんなあらゆるペルソナをかなぐり捨てて、彼女と結ばれることだけを私は望んでいた。


 しかし私から身体を離したあの人は、部屋の出口を背にして寂しく笑った。また逢う日まで、これからもずっと愛してる、と言い残して。すでに彼女は、ここから遠く離れた別の大学への進学を決めていた。明後日あさっての方角ばかりを見ていた私の鈍感さが彼女を悩ませ、ついには私のもとを去らせる決心すらさせてしまったのだ。もっと早く彼女の気持ちに気付いていれば、と後悔しても後の祭りだった。出会いからやり直させてほしい、と彼女に許しを乞うたところで、それが何の解決にもならないことは明らかだった。


 すれ違い。そんな簡単な言葉で片付けるには、私たちの高校三年生は熱を帯びすぎていた。いつまでも消えない熾火おきびのような思慕の念だけが、今も私を内から焦がしさいなみ続けている。


 会場から吐き出されてきた新入生の群れに押し流される形で、私は見知らぬ並木道に出た。広い歩道の真ん中で立ち止まった私は、現実感のなさに途方に暮れる。こんな気持ちを抱えたままで、一体どこに行けるというのだろう。

 広い大学の構内は、あちこちが薄紅色の桜に彩られていた。路面に落ちた花弁が、時折吹いてくるつむじ風にあおられ、小さな渦を巻いて舞っている。スカートについたほこりを払い、午後の陽光の眩しさに思わず手をかざした私の肩を、不意に誰かが後ろから叩いた。


愛奈あいな、久しぶり」


 振り向いて、そして息を止めた。

 黒く長い髪、桜貝のような唇、猫のように鋭く輝きに満ちた瞳。

 ここにはいない誰かに、どこか似ていて。


 私を呼び止めたその女性は、あ、と小さく声を上げた。お互いの戸惑いの後で、わずかに頬を染めた彼女は照れたように笑った。


「ごめんなさい、人違いだった」


 偶然のいたずらに、白昼夢が一度に広がる。初めて会話を交わした放課後の教室、素足で歩いた真夏の焼けた砂浜、見えない将来について語り合った私鉄電車の二人掛けのシート。

 思い出したく、なかった。失ったはずのときめきを。全てを奪われたいと願った身体の熱さを。お互いのためだという、あの人の言葉の意味を。


 黙ったままの私を怪訝けげんそうに見つめていた彼女は、再び驚いた表情を見せた。そしてスーツのポケットに手を入れると、白いハンカチをためらいがちに私に差し出す。どうしたのだろう、とやはり動かない私を困ったように見た彼女は、手を伸ばすとハンカチを私の頬に当てた。

 知らないうちに、涙が流れていた。

 それならば目も赤くなっているに違いない、と私は咄嗟とっさに考えを巡らせた。


「私、花粉症で」


「そうなんだ」


 私のひどい言い訳にも、彼女は微笑んでうなずいてくれた。何も訊かずにいてくれる、そんな優しさもやはりあの人に似ていた。


 私の中で小さなさざ波が揺れた。メルアド。その一言を今ここで彼女に投げさえすれば、新しい何かが始まる。そんな予感が確かにあった。

 しかし私は、すぐに自分のその愚かな望みを振り払った。笑顔を作った私は、ただ礼だけを述べて小さく頭を下げた。これでいい、今は何も起こらないほうがいい。ようやく訪れかけた心の平穏を自ら乱すような真似をすれば、私はさらに罰を受けるだろう。


 目の前の彼女は安堵したように片手を挙げると、きびすを返して正門へと歩いていく。新入生の雑踏の中へと消えていくその背中を見送りながら、私もやはり安堵していた。そしてどこの誰ともわからない、恐らくは二度と会うこともないその女性に心の中で感謝した。

 彼女に出会うことで、ようやく自分の想いが確信に変わった。目を閉じ、胸に手を当てて確かめてみる。大丈夫だ、もう二度と迷わない。


 家路をたどる人波に背を向けると、私は桜並木を駆けだした。追い風に乗って。速くなれ、もっと速くなれ、私の鼓動。匂い立つアーチの先にかすかに見えた明日が欲しくて、私はアスファルトをこれでもかと強く蹴り上げる。


 あの人を。今でも、いつまでも、愛してる。


 吹雪のように舞い降る桜の花びらが、声にならない私の感情と足跡をうずめて消した。

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純情と桜 諏訪野 滋 @suwano_s

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