夢魔

惟風

夢魔

 情欲に塗れた男だった。

 寂れた漁村は空も海も灰色くくすんでいて、人もみな一様にかさかさとした顔をしていた。

 その中で、男だけは異質だった。

 女と見れば目の色を変える。切れ長の瞳を潤ませて、ゆるくしなだれかかってねやに引き込む。それでいて物腰はあくまで柔らかく、細身で穏やかで、警戒心を持つことが馬鹿らしくなるほどに無防備で。

 それが一度二人きりになると、夜具に潜りこむと、まるで違うのだそうだ。

 朝になって寝床から這い出して来た女は皆、口を揃えてそう言う。それが、のだと。そうして女達を狂わせていく男だった。

 私がついぞそれを知ることがなかったのは、当時まだ十ほどのがきだったからだ。


 男はある日、裸の女を拾って来た。よく見るとそれは人魚だった。男の着物に包まれて抱えられていたが、本来なら足が見えるはずのところから黒くぬらぬらとした尾鰭が覗いていた。明け方の波打ち際に打ち上げられていたのだという。村人達は男の色狂いには慣れっこだったから、誰も何も言わなかった。


 人魚は目が見えないとのことだった。立派な尾鰭のせいで歩けもしない。ただ鼻と耳は良いようで、男の匂いを嗅ぎ分けては「きいさん、きいさん」と甘えた声で呼びつけた。

 男はほとんど家から出なくなった。ある種の魚のはたまらなく良いらしい、と村の男衆はいじけた顔で笑い合っていた。


 月の明るい夜、男が小舟を漕ぎ出そうとしているのを見た。もちろん人の形に似た魚も乗っていた。

 魚のくせに泳がないのだな、と私はぼんやり思った。どこに行くのか、と詮無いことを聞いた。

 夫婦めおとになるんだよと返って来た。子が腹にできたからあっちで生むんだ、俺はついてってやらなくっちゃいけない。離れてる間に他の女に浮つくなんて許さないって言われちゃね、そう答えた男の目はとっくにこの世を見てはいなかった。男の後ろで、女が大きな口を薄く開いた。笑って見せたのだろう、白く尖った歯がずらりと並んで、月の光を反射していた。

 子供心に、なんてモノに惚れ込んでしまったのかと同情した。男は、女癖は確かに悪かったけれど童や年寄りには優しかった。働けない者に当たりのきつい寒村で、唯一弱い者に笑いかけられる人間だった。別れが、惜しかった。

 勘違いしないでおくれと、遠ざかる舟から声がした。

 この人から誘って来たんだ。魅入られたのは、私の方。

 見ると、はもう女の形をしていなかった。人ですらない。

 は、音もなく海に飛び込むと大きく海面から跳び上がった。舟よりもずっと大きく膨らんだ身体が月明かりに照らされていた。


 鱶だ。

 男の精気を吸い取る、鱶の形をした夢魔だ。


 夜の闇より暗い色の巨大魚は、舟ごと男を呑み込むとそのまま海中に潜って行った。

 姿が消えると海面はなだらかに落ち着いて、今見たことが夢ではないのかと思えるほどに穏やかだった。

 それは、男がよく私に見せてくれた静かな微笑みを思わせた。



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夢魔 惟風 @ifuw

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