俺は神なんか信じない

諏訪野 滋

俺は神なんか信じない

 医者が患者の顔色で相手の状態が分かるって言ったら、あんたは信じるかい?

 俺? そいつについては、正直全く自信がないね。

 だがその日の彼女の顔色は、医者の俺じゃなくても誰が見たってわかるくらい、それは雪のように白いもんだったさ。




「先生。今回の私の赤血球と白血球、どうっすか」


 制服のままの女子高生はベッドの端に腰掛けて両足をぶらぶらと揺らしながら、白い診察室の中を手持無沙汰に眺めている。しかし彼女の肌の白さも、診察室の壁に決して負けてはいない。


 俺はディスプレイに表示された彼女の血液検査の数値を眺めながら、少しサバを読んで結果を伝えた。極度の貧血と白血球減少、定期的に点滴しなければならない抗がん剤の副作用。だが、どうせ入院を勧めても彼女は拒否するに決まっている。そうであれば治療方針に変更はないのだから、馬鹿正直に本当の結果を伝えて、あえてがっかりさせることもあるまい。


「いつもよりは、ちょっとだけ少ないかもね。免疫落ちてるんだし、風邪とか引かないようにしないとな。あんまりはめ外して遊びまわるなよ」


 彼女はにやりと笑った。


「先生、私がいつも街中をぶらぶらしていると思ってるっしょ。私、人ごみの中にはそんなに行かないっすよ。学校だって時々顔出すだけだし、今日のこの格好はむしろ例外っす」


 そういって彼女は、短くカスタムしたと思わしき制服のスカートのすそをひらひらと持ち上げてみせた。その太ももがいつもより白く見えるのは、これは貧血のせいだけではあるまい。俺はそちらへちらりと目を走らせながら、何食わぬ顔でキーボードをたたき続ける。


「へえ。たまにしか登校しないのに、今日の通院日に限ってわざわざ学校に行ってたのかい?」


 行っているわけがない、俺の診察日はいつも平日の午前中なのだから。特殊な事情がなければ、彼女は学校を休んでここに来るしかない。それなのに、何を好き好んで制服なんぞを着てくるのか。


「特別サービスっすよ。制服の方が、先生が喜ぶんじゃないかなあって。あえてマスクしていないのも、同じ理由っす」


 素顔の彼女は白い歯を見せて屈託なく笑いながら、こちらを試すように眺めている。やっぱりこいつは不良少女だ。俺は慌てて目をそらすと、雑念を振り払うために次の抗がん剤投与の予定日を考え始めた。




「そういや夏希なつき君。おととい、君のことで警察から電話が来たよ」


 警察、と聞いても、彼女は顔色一つ変えない。


「あ、やっぱり。別に悪いことしたわけじゃないっすよ。夜に独りで焼き鳥食べてたら、私服のおまわりさんがからんできただけで」


 どこのリーマンだ、お前は。まさか、高校の制服のままで入店したんじゃないだろうな。


「いや、君の素行について聞かれたわけじゃなくて。君の病状について聞かれたのさ」


 彼女は一瞬きょとんとしていたが、やがて合点がいったように笑いだした。


「ああ、そういうことですか。私、素直に質問に答えていたんですけれどねえ。いきなり左手のすそをまくられて、注射の痕を確認されたんですよ。これ見てあの人たち、めっちゃびびってましたよお」


 そういって彼女は、左肘の内側に残る無数の注射痕を自慢げに見せる。俺は額に手を当ててうめいた。こいつのことだ、まくられたのではなく、自分からまくって警官に見せつけてやったのに違いない。


「きちんと説明しておいた。あれは覚せい剤なんかじゃなくて、一か月に一回うちでしてる点滴の為です、ってな」


「私もそう言ったんですけれど、あの人たちなかなか信じてくれなくて、しまいにはここの診察券まで見せる羽目になっちゃって。それはそれは、先生にはご迷惑かけましたあ」


 そういって彼女は再びけらけらと笑いだした。


「だから、一人で焼き鳥屋なんか入るなって。肺炎なんかになっちまったら、こっちが大変なんだからな」


「そんときは、また入院させてもらいますから。うーん、いつ以来っすかねえ」


「去年入院したばかりじゃないか。ほら、血小板が下がりすぎて鼻血が止まらなくなった時」


「ああ、そんなことありましたねえ。パジャマ真っ赤だったもんなあ、ウケる」




 カルテを入力していた俺の横顔に、彼女が何気ない素振りでつぶやいた。


「先生。この注射って、いつまでしなきゃならないんですかねえ」


 抗がん剤を始めてからもう三年になるが、彼女がその問いを発したのは初めてだった。そりゃあ、いい加減に嫌になってきているのも無理はない。


「そうだな。まあ、君の病気に対する特効薬ができるまでかな」


「それって、一生続けるってことっすよね」


 彼女の厄介なところは、勘がいい、ってことだ。先が見えすぎている。だが、不治の病にだって医師ができることはある。


「まあ、今のところはな。だが、この点滴はもちろん特効薬ではないにしても、それを投与した人と投与していない人では、寿命に平均八年の差が出るっていう研究報告がある」


 俺の言葉は、彼女にはさして感銘を与えなかったらしい。


「八年っすか。私の寿命がそれだけ延びたとして、楽しいことが増えますかねえ」


 俺はキーボードをたたいていた指を止めると、椅子を回して彼女の方へと向き直った。


「まあ、考えてみなよ。別に治療じゃなくってもさ、健康目的の運動やら食事制限やら、そういうのもさ、結局は少しでも長く生きたいって努力だろ。君の点滴だって、それと大した違いはない。だから僕は、君の治療は単なる生活の一部、特別苦にする必要はないんじゃないかと思うのさ。僕の酒やら、夜更かしやら、趣味の小説書きやら、そういうのだって、自分の寿命を延ばすための手段の一つさ。僕にとっちゃあ、そいつらがないと退屈で死んじゃうからね」


 下手な慰めだ、と俺は心の中で毒づいた。だが、彼女はどうやらそれを素直に喜んでくれたらしい。むふふ、と気味の悪い笑いを浮かべながら、俺の顔をいたずらっぽく覗き込んでいる。


「あれえ、女の子と遊ぶ、ってのが入ってないじゃん。先生、医者なんだからめっちゃ声かかるでしょ。あたし、時々友達と一緒にここに来るんすけどね。あーこ、あ、友達の名前なんすけど、彼女が先生のことを遠くから見て、うおお付き合いてえ、とか言ってましたよお」


 けっと俺は眉をしかめた。人からこういったからかいを受けるのが、俺にはたまらなく納得がいかない。


「夏希君、古い。今時は僕みたいな中堅病院の勤務医なんか、まったくおいしい商売じゃないよ。超過勤務、訴訟リスク、そして高給取りなんていう誤解。内情を知った途端、ほとんどの女の子はがっかりさ」


「へえ、先生も冴えないっすねえ。私と同じで、ただ死ぬのを先延ばししてるってわけっすか」


 死、と言った彼女のその顔にわずかに陰りが走るのを、俺は見逃さなかった。こういう時だ、俺が神なんてものを全く信じる気になれないのは。


「ああ、君と同じだ。人生は暇つぶしだって言ったのは、パスカルだったかな。でもさ、生きていなきゃあ、暇だとも思えないしな。生まれてきたことには意味はなくても、生きていることには多少の意味はあるんじゃないかってのが、僕の意見だが」


 君に生きていてほしい、なんて当たり前のことは、口にするだけ野暮さ。




 彼女ははすっ葉な態度を崩さなかったが、ちらりと年齢相応の少女の素顔を見せた。


「へえ。先生も、たまにはいい風ふうなことを言うっすね。あくまで風、ですけど」


 まあ、彼女の言う通りだ。医師なんて口先三寸の商売だからな。その割に女の子にもてないのはなぜなのか。やはり、デートの時に割り勘にしているからか。男女平等のご時世に、女の子って勝手だよなあ。

 俺は頭を一つ振ると、次回の受診日が書かれた予約票を、彼女にひらひらと振ってみせた。


「それで、どう。もう少し、点滴続けてみる気になったかな。そうすれば僕も、君と別れるのを先延ばしにできると思うんだが」


 俺のリップサービスに、彼女は目を輝かせた。


「おお、やばいっすね。女子高生の患者にエロいっす、セクハラっす」


 大したことを言ったつもりはないのだが、学生相手にちょっとやりすぎたか。まあ、イエローカードってことで勘弁してもらおう。


「こいつは困ったね。君の親御さんにチクられたら、懲戒免職かな」


「それは心配ないっすよ。うちの親、先生がいるからお前は自殺しないんだーって、先生のことめっちゃ信頼していますから」


「それはそれで、やりにくいことこの上ないなあ」




 診察が終わった帰り際、彼女は無数のマスコットをじゃらじゃらと下げた学生カバンの中から何やら取り出した。なんだこれ、イタリアン・レストランの名刺?


「元気にしてくれたお礼に、明日の夜七時、そのお店で待ってます。私服にマスクだから、絶対にばれないっすよ」


「おいおい」


 マスクをつけてくれるってのは嬉しいが、着用する目的が違うだろうが。慌てた俺に、彼女は特大のウィンクを放った。


「それじゃ、先生。風邪もらわないように、ちゃんと個室予約しときますから」


 これこそ先延ばしにしようか、と一瞬考えた俺は、思い直して彼女の誘いに乗ることにした。


 まあ、いいか。

 こんな俺でも、彼女の退屈しのぎに、いくばくかの役に立つのなら。

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