でねぶ

香久山 ゆみ

でねぶ

 追い詰められたトイレの中、女が鋏を振り上げる。咄嗟の出来事に、反応が遅れた。体が動かない。だめだ、逃げられない――。

「探偵さん!」

 バンッと扉が開いて、金色の光が俺にぶつかり、間一髪鋏を避けた。

 振り下ろした鋏が空を切り、女も体勢を崩す。

 それを横目に、腕を掴まれて俺はトイレから脱出する。

「くそおおおっ」

 叫び声を背後に聞きつつ、俺を助けてくれた金髪が振り向きざまにトイレのドアを閉める。

「くそ、くそ、あけろぉー」

 内側からドンドンと女が扉を叩く。

 俺も金髪の隣に並んで、扉を押さえつける。

 ここは入居型高齢者施設だ。こんな凶悪なものを施設内に放つわけにはいかない。

「ここが介護施設でよかったですね。介護施設の扉は、利用者が内側で倒れても閉じ込められないように、全部外開きになっているんですよ」

 隣で冨久司ふくしが解説する。こんな状況なのに、あまり緊迫感がない。

「ありがとう、助かりました。けど、どうしてここに?」

 夜勤介護士の冨久司は二階の詰所にいるはずだ。それがなぜ一階のトイレに?

 今夜は夜勤職員の数が足りないということで、急遽俺も介護施設の手伝いに駆り出された。本来、二階の詰所で電話番をしているところ、知人の詩織から昼間施設に忘れ物をしたので取りに来ると連絡があり、応対のため俺は一階に下りてきたのだ。

「なかなか戻ってこないから様子を見に来たんですよ。館内でイチャイチャされてたら迷惑だから」

 冨久司はそう言うが、手にしたスマホは動画撮影状態になっている。出歯亀に来たようだ。冷ややかな視線を送ると、金髪の頭を掻いてえへへと笑っている。

「それにしても、探偵さん何したんですか。痴話喧嘩にしたって、詩織さんの怒りようは異常じゃないですか」

 これを痴話喧嘩だと思っていたのか。どうりで能天気なわけだ。

 詩織は悪霊に憑依されているのだと簡単に説明する。

「ひょえー。それにしても、この時間にさすがに騒がしすぎますね。利用者さんが起きちゃう」

 女の叫び声とドンドンと扉を叩く音がフロアに響く。

「ちょっと止めてきます」

 冨久司が俺を制して、ドアの前から体を動かした途端、扉が開き、「あああああー!!」と奇声を発しながら、鋏を振りかぶった女が襲い掛かってきた。

 冨久司は半身を返し、片手でそれを受け流す。

「えいやーっ」

 背中を見せた女の首筋に、冨久司が手刀を入れると、女の体はぐらりと倒れた。先程まで開きっぱなしだった瞳孔が、ぐりんとひっくり返って白目を剥く。

 脱力した彼女の体を支える。意識を失う寸前に女の口が言葉を発した。

「……トリ……あえず……」

 霊の言葉なら、貴重な証言だ。俺は視えるだけで、霊の言葉は聞こえないから、憑依した人間の口を借りて霊から直接話を聞き出す機会はまたとない。けれど、その後はどれだけ声を掛けても、もう何も発しなかった。

 大丈夫、眠っているだけですよ。と冨久司は胸を張った。

「あたし、これまで職を転々としてきたから、結構色々できるんですよ」

「一体何の仕事で人を気絶させるんだよ」

「映画館でバイトしてた時に、観て覚えました」

 めちゃくちゃだ。


 二人で、詩織を二階の詰所の隣の空き部屋に運ぶ。慎重にベッドに下ろす。

 白い顔をして眠っているが、冨久司の手刀のお蔭か、詩織の体から悪霊は抜けたようだった。

「詩織さん、昼間はおかしな様子なかったのに」

 冨久司が首を傾げる。

 昼間、詩織はボランティアで訪れたこの施設で、「No.9」と刻印されたダンボール箱を開けた。その箱から飛び出したに詩織は取り憑かれたのだろう。

「No.9」は、かつて未解決のまま捜査終了となった事件の内、特に凶悪・異様・不可思議な事件に当てられた事件番号である。その捜査資料を収めた箱が、現在警察庁のあるべき場所になく、なぜかここにあった。

「No.9」の連続殺人は未解決で捜査終了となって以降、類似の事件発生はない。それが、今回数十年ぶりに動き出した。

 つまり、箱の中に封印されていたものに事件の元凶があったのだろう。

 それを詩織は手にしてしまったに違いない。

「詩織さん、気絶する前に何か言っていましたね」

「ああ。、と聞こえた」

って接続詞なら、意味はないかー」

「いや、接続詞と言う感じではなく。、は別々の単語のようだった」

「うーん……」

 二人して頭を捻る。(※作者註:「とりあえず」は副詞です。)

 ちょうどその時、スマホが着信した。冨久司に断って電話に出る。

 元同僚の刑事からだ。「No.9」についての情報を依頼していたから、何か分かったのかもしれない。

「もしもし。何か分かったのか」

「いや、押収品の記録と、事件の詳細が少し知れた程度だ。箱がそっちにあったと聞いたから、中身について知りたいかと思ってな」

「助かる」

 さすが元同期で捜査一課のエースだ、話が早い。

「箱の中に入っていたのは、古いノートパソコン、ジャンパー、……」

 どれも間違って持ち帰るような大きさではない。

 冨久司が興味津々に耳を寄せてこようとするので、スピーカー通話に切り替える。

「あと、百科事典」

「あ、それじゃないですか?! 詩織さん、書店員だし。稀少な本で思わず持っていっちゃったのかも」

 冨久司が声を上げる。

「いや、詩織さんはそんなこと絶対しない」

 きっぱり否定すると、「ふーん」と冨久司がにやにやしている。

「ごほん。だから、きっと間違って手荷物に紛れ込むような小さなものか、書店主の詩織さんが無意識に手にしてしまうようなものだと思うんだけれど」

 栞、ブックカバー、図書カード。冨久司が適当に羅列していくが、いずれも「該当なし」と一蹴される。

 仕方ないので、元同僚に押収品を小さいものから順に挙げてもらう。

「小銭」

「詩織さんは人のお金を盗ったりしない」

「携帯電話」

「ありえない」

「眼鏡」

「なし」

 ……。

 列挙してもらうも、なかなかピンと来るものはない。

「えーと、あとは……ボールペン」

「それだ!」

 冨久司が声を上げる。事務仕事してたら、咄嗟に近くのペンを使ってそのまま取り込んじゃうこと、よくあるんですよね。 

 冨久司に確認してもらうと、詩織のブラウスの胸ポケットにボールペンが挿さっている。それを抜き取って、手元でまじまじ見つめて冨久司が言う。

「ただのボールペンですよ。ノベルティっぽいけど。……あ」

「なにか?」

「ずいぶん掠れているけれど、合資会社デネブって書いてあります。だ」

 冨久司が呟く。

「どういうことですか?」

 冨久司からボールペンを受け取る。確かに、ボールペンには「合資会社デネブ」の表記がある。しかし、これが「トリあえず」とはどういうことだ。

「あたし、昔プラネタリウムの解説員をしていたこともあって……」

「そういう前置きはいいから」

「七夕伝説は知ってますよね。天の川に隔てられて、織姫と彦星は逢うことができないんです」

「……?」

 それがどう「トリあえず」に繋がるのか。

「織姫星はベガ、彦星はアルタイルです。星座だと、琴座と鷲座の一等星ですが、ベガとアルタイルの語源はアラビア語に由来し、それぞれ、降下する鷲、飛翔する鷲、を意味します。そして、年に一度織姫彦星の逢瀬の橋渡しするのが白鳥座、その一等星はデネブです。鳥にまつわる逢えない話。ね、

「なるほど……?」

 と言ったものの、それがどう事件に繋がるのか。

「おい」と、通話状態で経緯を聞いていた元同僚が話に割って入る。

「No.9連続殺人の、一番初めの事件の被害者が白鳥しらとり琴美ことみという名の女性だ。今はもう廃業しているが、合資会社デネブという家族経営の会社の一人娘だった。No.9の他の事件と類似の死因ではあったが、二件目以降と違い比較的安易な殺害方法であったことや、時期が離れていたことから、のちに連続事件からは外されているが、これも未解決のままだ」

「なるほど」

 ボールペンは一番最後の事件現場の遺留品だという。

 恐らく、最初の犠牲者の無念が彼女の持ち物に宿り、そのボールペンが転々と持ち主を変えるたびに悲惨な事件を引き起こしていたのだろう。視えない者にとっては何の変哲もないペンだから、知らぬ間に手にしてしまう。今回の詩織のように。

 けれど、それがなぜここに?

 手の内のボールペンからは、息を潜めて様子を窺うような不穏な気配がする。俺は、逃がさないようにぎゅっと握りしめる。

「七夕伝説に関係するなら、恋人との永遠の別れが余程つらかったんですかね。白鳥さん」

 話を聞いていた冨久司がしみじみと言う。

 白鳥は生きていれば七十歳だという。相手の男がこの介護施設に入所している可能性はある。

「この施設の利用者に、鷲尾わしおさんという男性がいます」

 関係あるかどうか分かりませんが、と冨久司が声を落とす。

 その名を聞いて、掌中のボールペンがぴくっと反応した気がした。

 電話の向こうで資料を捲る音がする。

「関係者に鷲尾という男がいる。当時デネブの従業員だった」

 同一人物かは分からぬが、名前も年齢も一致しているようだ。

 当時、白鳥琴美は十八歳、鷲尾が二十八歳。二人を結びつけたのが合資会社デネブだとしたら、なんともできすぎた話だ。うら若き少女が七夕伝説のロマンスに自分たちをなぞらえたとしても不思議はない。

 それが事実かどうかは分からないけれども。

 鷲尾氏は八十の高齢だ。今の時間はぐっすり眠っている。明日話を聞きに行くことにして、この件はいったんお開きになった。

 同僚との電話は切り、冨久司は詰所へ戻って行った。

 消灯した部屋の中、白いベッドの上で詩織がすうすう寝息を立てている。まるで白雪姫みたいに。彼女が目を覚ます時には、この悪夢がすべて終わっていますように。

 そっとシーツを掛け直して、俺も部屋をあとにした。

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