湯けむり黒歴史
那智 風太郎
第1話
視力が良くありません。
普段はコンタクトかメガネ。
ドライアイ気味なのでメガネ80%。
温泉が好きです。
学生時代を東北地方の片田舎で暮らしたせいかも知れません。
そのころの僕の趣味といえばメタルバンドと渓流釣りと温泉……。
東北ではときにずいぶんと奇異な嗜好を持つ若者が爆誕するようです。
そんな学生時代。
雪のちらつく冬の夕暮れ、Dくんという学友に誘われて
「な、ええとこやろ」
Dくんがそう言ってドヤ顔を向けるのも肯けます。
宵闇に包まれたその隠れ家的で鄙びた外観はところどころに古風なランプが灯り、まるでジブリ映画にでも出てきそうな雰囲気を醸し出しています。
Dくんは定食屋にしろ甘味処にしろ温泉にしろ、こういう掘り出し物件を見つけてくるのが得意でした。
ただしかなりせっかちな性格で他人にペースを合わせるのはあまり得意ではありません。その外観や館内の様子を僕が少しばかり眺めているうちに、気がつくと忽然とDくんの姿は消え去っていました。おそらくはすでに入浴料を払って、男湯の暖簾をくぐってしまっていたのでしょう。
僕は慌てて彼の後を追いました。
慌てる理由がありました。
僕は石鹸とシャンプーを持っていなかったので、彼に貸してもらうつもりだったのです。
もちろん浴場に入ればメガネなど曇ってしまって役に立たちません。
脱衣所を逃せば視力の乏しい僕がDくんを探し出すのは至難の業。
追いつこうと足を急がせましたが時すでに遅し。
なんという早技か、Dくんの姿はもうすでに脱衣所にもありませんでした。
仕方がないので服を脱ぎ、タオル一枚を心細げに前に当てて浴場に入りました。
そして頼りない視力を目一杯に凝らして湯気に煙る少し肌寒い洗い場を歩き回り、彼の裸身を一心に探し求めました。
すると、たしか三列目の洗い場だったでしょうか。
その壁際の端っこに僕はようやく彼を見つけたのです。
もちろん貧弱な視力しか持たない僕の目にその姿は立ち込める湯気も相まってぼんやりとしか見えていません。
けれどDくんが愛用している真っ赤なタオルがその存在を明らかに証明していました。
ホッと胸を撫で下ろしました。
そしてとりあえず歩み寄りその真横の席に座った僕はちょっと拗ねたように「置いていくなよ」と愚痴をこぼしました。
けれど彼は何も言いません。
頭を洗っていたからかもしれません。
見ると彼の頭はシャンプーの泡だらけでその横顔さえ判然としないほどです。
ひとまず僕はそんな彼を横目にシャワーを浴び、そして特に気遣いもなく彼の前に置いてある白いボトルに手を伸ばしました。
「シャンプー貸りるよ」
泡だらけの頭を洗い流していた彼はやはり返事をすることはありませんでしたが、なんとなく肯いたような気配がありました。
僕はシャンプー液を手に取るとそれを頭に擦り付け、ガシガシとツーブロックの頭髪を洗いました。
なんだか少し漢方薬っぽい変わった匂いのするシャンプーでした。
けれど借りておいてさすがに文句など言えるものでもありません。
それに洗えれば別になんでもいいのです。
僕は頭を洗い終わり、今度は石鹸に手を伸ばしました。
けれどそのときちょっとした不審が脳裏を掠めました。
石鹸?
たしかDくんはボディーソープを使っていたはずでは。
でも、そんなことは取るに足りないことです。
それより早く体を洗って熱い湯船に浸かりたい。
彼の同意を確かめることもなく、僕は止めていた手をもう一度差し向けて石鹸をつかみました。
そのときです。
「おい、那智。きみ、何やっとんねん」
背後から聞こえたその訝しげな声に僕は左手に石鹸を持ったまま振り返りました。
するとそこに真っ赤なタオルを肩に掛けたDくんが堂々とその肢体を包み隠すことなく仁王立ちを決めていたのです。
何が起こっているのかよく分かりませんでした。
なぜ左で体を洗っているはずのDくんがそこにいるのか。
けれどその謎に悩まされた時間はほんの一瞬でした。
ま、まさか……。
そして解明してしまった真実に僕は凍りつきました。
できることならこのままそそくさと立ち去ってしまいたい願望に駆られました。
けれどもちろんそういうわけにもいきません。
僕は覚悟を決めて恐るおそる左に顔を向けました。
すると思ったとおり、そこには赤いタオルを持った見知らぬおじさんがやや戸惑った顔つきで僕を見つめていました。
呪文のように「すみません」を連呼しながら石鹸を持った左手をおじさんの前に戻したことと、まだ湯船に浸かってもいないのにひどく顔が火照っていたことを覚えています。
おじさんは笑って許してくれましたが、以来それがトラウマとなり温泉に入ると左隣の人を注視する癖がついてしまいました。
湯けむり黒歴史 那智 風太郎 @edage1999
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