今晩の献立はトリあえず、鶏飯、ビール
ritsuca
第1話
「ただいまー」
「ん、おかえり」
ひょい、と玄関がギリギリ見える位置まで顔を出した荻野に、阿賀野は靴を脱ぎながら手を振った。
なんやかんやありつつ、無事に引越しを終えたのは数日前のこと。荻野の荷解きはほぼ終わり、阿賀野は私物を自室に押し込んでいる状態だが、今のところ新居の2LDKはとても快適だ。玄関とLDKの間を遮る引き戸は、暖かくなってきているからと、寝るときと出かけるとき以外は開け放している。おかげで、おかえりとただいまを、お互いの顔を見て交わしやすくなった。
念願のキャットタワーを買って帰ってきたのは昼過ぎのこと。組み立てて少し遅めのおやつ休憩をとってから、今度は夕食の支度を始めたところで、荻野が「ない」と言い出したのだ。だったら、と阿賀野が家を出たのが30分前のこと。超近距離ではないが、ほどほどに近い距離のスーパーで、お目当ての品と、ついでに、といくつかの品を買ってきたところである。
「ん? サラダ野菜の袋と土佐酢の瓶があるけど」
「ささみ、蒸して置いとくって言ってたよな? ついでにおつまみ作ろうぜ。これだったら包丁使えなくてもなんとかなりそうな気がするし」
「んん? 『トリあえず』?」
そ、と言いながらエコバッグから購入品を取り出す阿賀野に、スマホを返しながら荻野は渋い顔をしてみせる。
荻野の部屋への出入りが増えて、時折買い物にも一緒に行くようになってから、阿賀野の食生活は健康的になった。と同時に、楽をする方法も覚え始めた。たとえば包丁を使わなくてもすぐに使えるカット野菜を買うこと、予め調味済みの調味料を使うこと。前者は多少割高にはなるが、そこまで大量に必要でないときに買うことが多いので、さておいて、後者だ。使い切るのがなかなか大変なのだ。
そんなこんなで、引越し前にも賞味期限が過ぎているからと泣く泣く処分した調味料があったのに、また種類が増えてしまった。むしろこの新居に越してきてから、ほぼ毎日何かを買い足すために買い物に行っているせいもあるのか、毎日のように、お洒落だったり用途が限られているような、何らかの調味料が増えている。
「お、もうささみ蒸し上がってんじゃん。じゃぁ、ちょいと失礼」
「半分までだぞ」
「だーいじょうぶ。1本分ありゃ十分だって」
嘆息しつつも元々進めていた調理の続きに取り掛かった荻野の隣で、うんうん言いつつ、阿賀野はスマホを確認しながら材料を順に入れていく。材料は一通り出したようなのにテーブルに自立しているエコバッグも気になるが、それよりはやっぱり、と自分の手元と阿賀野の手元を荻野の視線は往復する。ささみを解す時に一切れ作っては水道水で手を冷やしていることを除けば、たしかに危なげなく調理できているようだった。
図らずも「よし」と二人の声が揃う。荻野の前にはそれぞれの調理が済んだフライパンや鍋が、阿賀野の前には出来上がったのであろう「トリあえず」の入った鉢が置かれていた。
「んじゃぁ俺、台拭きするわ」
「ん、頼む」
鍋やフライパンをそれごと出しておいても構わないものは取手だけを外し、そうでないものは小鉢に移し替えて、テーブルに向かう。
エコバッグはいつの間にか定位置の冷蔵庫横に戻されていた。代わりに、見慣れない−−恐らくはクラフトビールらしき、写実的な猫のイラストラベルが貼られた瓶と、見覚えるのある、これまたクラフトビールのデフォルメされた猫が大きく居座っている缶が置かれている。
「ありがとう。さ、乾杯しようぜ。どっちがいい?」
「んー、瓶の方、かな」
「よしきた。お通し……ってんでもないけど、どうぞ」
「ん、ありがと」
手を洗って席に着いて、乾杯、と重ねたグラスが,涼しげな音を立てる。互いに初めて口にした「トリあえず」はその後、お酒を呑む日の定番メニューになった。
今晩の献立はトリあえず、鶏飯、ビール ritsuca @zx1683
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