子どものキリンは死んでしまいませんか?

犀川 よう

子どものキリンは死んでしまいませんか?

 先生に思いっきりひっぱ叩かれた。小学校三年生のことだ。


「高い木の葉を食べるためにキリンの首が伸びたというのなら、その前に子どものキリンは死んでしまいませんか?」


 女性の先生がキリンの進化について、恐らく聞きかじった程度の知識を得意げにわたしたち生徒に話していたとき、わたしは反射的にそう質問してしまった。疑いようもない純粋な好奇心から飛び出た疑問であったので、まったく遠慮することなく生身の刃を向けてしまったのである。


 先生はしどろもどろに自分の推論で回答をしながら、だんだんとわたしが憎らしくなってきたのだろう。大勢の生徒のいる教室であるにもかかわらず、わたしの前まで来て頬を叩いた。乾いた音の後には、隙のない静寂だけが教室に漂っていた。

 わたしはひどく驚きながらも、先生の表情を見ることでこの惨劇を招いたを理由を悟ることができた。――先生であっても聞いてはいけないことがあるのだ――と。


 わたしはかなり小さなころから知識を披露したり何かを教えようとうする大人から嫌われていた。どうやら彼らの考えたこともない疑問や切り返しをしてしまい、困らせたり怒らせてしまうのである。わたしとしては、そこまで知っているのであれば、当然その先や、そもそものことも理解した上で言っているのだろうと思っていたのだ。しかも相手は大人である。そんなに得意げに話せるのだから、どんな答えでも持っていると、信じてしまっても不思議ではないだろう。


 しかしながら大半の大人はテレビや新聞で見知った内容そのものしか理解しておらず、その先にあるものあるいはその根底にあるものなど、知っていたり考えてなんかいなかった。わたしはそんな理不尽と絶望を繰り返し身に叩き込まれてきたので、知識というものがだんだんと嫌いになっていった。そんなものはこの世からなくなってしまえばいいと、当時のわたしは本気で思っていたのである。


 生真面目なことに、知識というものは誰かのあるいは何かの役に立てるためにあるものだと真剣に思っていたので、クイズや無責任な噂レベルで知識を口に出す大人をだと思うようになっていった。また、難しい小説や芸術などの高尚なものに触れただけで偉くなったように思っている同年代がおかしくて仕方がなかった。――どうして自分の頭で考えたことではなくて、他人のでそんな得意げになれるのだろう――。中学校を出るまではそんな気持ちでいっぱいりになり、そんな人間たちに反発するかのようにグレた。


 高校に入っても同じような人たちばかりであったが、それなりの知性と学力を持っている人がちらほらと現れ、わたしは自分は異端児でないことを知ってホッとすることができた。勉強などはできて当たり前の学校だったので、IQ的な意味で頭の良い人間が何人かいて、同じような感想をわたしに漏らしてくれたのである。


 それからは、人に対して穏やかになれるようになった。ドヤ顔で小難しい文学や芸術を語られようとも、と受け止めることができるようになった。あいかわらず知識をばかにしているきらいはあるが、少なくとも知識を前面に出して自我を表現する人を馬鹿にすることは、なくなったような気がしている。

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