ある少女のための巡行

藍沢 紗夜

ある少女のための巡行

 冬の冷たい風に乗って、ぺらり、と乾いた音が耳元を掠め、足元に何かが落ちた。風に攫われてしまったのだろうか、と身体をかがめて拾い上げると、それは見慣れない地図だった。


  *


 東京から少し離れた場所にある、ぎりぎり郊外と呼べるかどうかといった場所に、僕は住んでいる。就活が上手くいかなくて、疲れ果てた僕を拾ってくれたのが、この街の小企業だったのだ。素人でもできるような工場作業の繰り返しだけれど、今の生活はそれなりに気に入っている。

 今日は工場が休みなので、日課の散歩をしていた。とはいえ、特別歩いていて面白いものはない。この街は、少しずつ枯れていく草花のごとく、ゆるやかに衰退している。人口は刻々と減少し、商店街はシャッター街になり、若者は都会へと流れている。自然が豊かというほどでもなく、強いて言えば、田園風景が少し残っている、という程度だ。

 だから、この辺りに観光で来ようなどという人は、ほとんどいないだろう。不思議に思いながら地図を眺める。観光客に人気、と書かれた遊園地、買い物はここ、と書かれた商店街、隠れ家スポットと書かれた喫茶店に、大きな公園。どれも、この街にはないものだし、周辺にもこんな風に栄えている街はない。


 不意に背後から忙しない足音が聞こえてきたので振り返ると、そこには、身長と不釣り合いな長いマフラーを揺らめかせ、息を切らして走る少女がいた。見た感じ、高校生くらいだろうか。

「すみません、それ、私のものです」

 僕は走ってくる彼女に歩み寄り、地図を渡した。

「ありがとうございます。大事なものだったので、失くしてしまったらどうしようかと。あの、この公園に行きたいんですけれど、ここからどう行けばいいですか」

「……あの、その地図、この辺りとは随分違いますよ。たぶん、間違えてます」

「……え?」

 彼女は硬直し、手からは受け取ったばかりの地図がはらりと落ちた。僕は地図を拾い上げて、こう続けた。

「この辺りは、観光地ではないし、周辺にも観光で有名な場所なんてないです」

「でも、ここは、夢見橋田ですよね?」

「……え? は、はい」

「この地図にも、夢見橋田があるんですけど」

 ほら、と少女が地図の中に小さく記載されている地名を指差す。たしかに、夢見橋田とある。それに、よく見たら他の地名も、この街周辺のものと一致していた。

「……つまり、ここの地図で間違ってはいない、ということでしょうか」

「そう思います。でも、地図とはずいぶんと違くって……」

 地名は間違っていないけれど、載っている写真はどれも見覚えがない。仮にこの地図が何年も前のものだとしても、ここまで違うということが、果たしてあり得るのだろうか。

「誰かのデタラメじゃ、ないでしょうか」

 僕の言葉に、彼女は思いっきり眉に皺を寄せて、声を張り上げた。

「デタラメなんかじゃないです」

「でも……」

「親友と約束したんです。この地図はもともと彼女のもので、いつもここに行きたいって、二人で話してたんです」

 それは、地図が本物である理由にはならないのでは、と思ったが、飲み込んで「そうなんですか」と返した。

「あれ、その親友さんは……」

 二人で約束したのに、何故彼女は一人でここにいるのだろうか。

 彼女は目を伏せて、「今は会えません」とだけ答えた。


 一人では不安だと言う彼女に頼み込まれて、仕方なく公園のある陽吉深町に向かう。まあ、元々散歩のつもりで外に出たわけだから、ルートが変わっても特に問題はない。

 陽吉深町は、最近大型スーパーが出来た場所だ。観光に来るような公園なんてありはしないし、仮にあったとしても、小規模な児童公園程度だろう。

「ここが、地図にある陽吉深町です」

 僕が立ち止まってそう言えば、彼女は周囲をじっくりと見渡した後、がっくりと肩を落とした。

「公園、無さそうですね」

「僕の記憶からしても、この辺りにこういった公園はないかと」

「やっぱり、この地図は古いんでしょうか」

「古いにしたって、面影くらいはありそうなものですけどね。この写真みたいな、大きな花畑とか、噴水のある広場とか、並木の遊歩道とか、全部撤去されてこうなってるっていうのは、ちょっと信じがたい気が」

「まだデタラメだと思ってるんですか?」

 彼女が睨み付けてきたので、僕は思いっきり顔を顰めた。

「地元の人間が全く面影を感じないって言ってるのに、君はまだこの地図を信じるのか?」

「そういうあなたは、ここに何年住んでるんですか? 何年も経ったら変わりますよ。私の住んでる横浜だって、再開発で昔の面影なんてありませんから」

 年数を持ち出されるとぐうの音も出ない。僕はまだ、新卒で入社してここに越してきて、まだ一年経っていないのだ。

「他の場所も行ってみましょう。次は、この、商店街と喫茶店があるって書いてある新月桂です」

「え、まだ僕も着いていかないといけない?」

 そう言ってから、思わずタメ口になっていたことに気づく。でも、もういいだろう、彼女は明らかに年下だ。

「だいたい、君だってスマホくらいは持っているだろ。自分で調べてみたらいいじゃないか。なんならここで航空写真でも見てみるか?」

 少し苛立ちながらそう捲し立てると、彼女は俯いて、静かにかぶりを振った。

「スマホは、置いて来ました」

「……え?」

 呆気に取られて、苛立ちは何処かへ飛んでいった。

「それは、忘れて来たってこと?」

「いいえ、置いて来ました。自分の意思で」

 思った以上に、訳ありなのかもしれない。いや、始めからそうだったじゃないか。今どき、地図を持ち歩く若者なんてほとんどいないし、親友のこともはぐらかされてしまった。あまり気軽には話したくないような何かが、あるのだろう。

「……新月桂、ね」

 呟くと、彼女はばっ、と勢いよく顔を上げた。

「連れて行ってくれるんですか!」

「ええ、まぁ」

 頭を掻きながら、僕は小さく頷いた。流石にこのまま彼女を放って置けるほど、僕は心ない人間ではない。

「我儘言ってごめんなさい、よろしくお願いします」

 殊勝に頭を下げる彼女の背後に、何かおぼろげに光っているのが見えた。

 ――セピアがかった柔らかな薄紅色。不思議に思って瞬きをしたその直後には見えなくなってしまったので、見間違いか、と僕は特に気に留めずに先へと進むことにした。


 新月桂には、たしかに商店街がある。けれどそれは、ほとんど活気のないシャッター街である。空いている店もいくつかはあるものの、ほとんど地元の高齢者が来ているのみで、若者は近場のショッピングモールに流れている。

 彼女は落胆した様子で、とぼとぼと僕の後ろを着いてまわっていた。先程とは異なり、ここは地図に載せられた写真の面影を感じることができるが、それでも彼女の求めていた光景ではない、ということだろう。

 地図を頼りに、僕たちは喫茶店を探した。それらしき建物は見つけたが、そこに入っているのは喫茶店ではなく、古着屋だった。

「あの、この辺りに喫茶店ってありませんでしたか」

 僕が古着屋の店長らしきお爺さんに問うと、彼は、はて、と首を傾げた。

「おれはここで四十年この店を切り盛りしてるけどよ、少なくとも新月桂には喫茶店なんて洒落たものはないね。せいぜいあって定食屋くらいだったが、それも十年も前に潰れちまった。あそこのシャッターだよ」

 お爺さんが、『テナント募集中』と褪せた塗料で書かれたシャッターを指差す。

「デートか? こんな辺鄙な場所じゃ格好つかないぜ、お兄さん」

「いえ。情報ありがとうございます」

 僕が頭を下げると、隣の彼女が慌てて頭を下げるのがわかった。店を出てふと隣を見ると、彼女は両目いっぱいに涙を溜めていた。


 コンビニで温かいほうじ茶を買って、外のベンチに座り込んでいる彼女に、「はい」と手渡す。

 僕は隣に腰掛け、コーヒーで悴んできた手を温めていると、彼女が口を開いた。

「あの、お金、渡します」

「いらないよ。これでも社会人だし、泣いてる女の子から金を受け取る趣味もない」

 静寂が流れる。彼女はぺこりと小さくお辞儀をして、ほうじ茶を一口啜った。僕もコーヒーの蓋を開けて、少量喉に流し込む。

「……お兄さんの言うことが、正しかった」

 彼女はぽつりぽつりと話し始めた。

「こんな地図、デタラメだ。未空が、私の気分転換にでもなるかと思って渡してくれただけ」

「未空さん、って、親友の?」

「はい。私の唯一無二の、親友でした」

 ひやりとした感触が、心臓を逆撫でする。彼女の口ぶりから察するに、未空は、もう。

「未空が、いつも言ってたんです。『私がいなくなったら、地図の場所まで探しに来て』って。『そうしたら、会えるから』、って」

「それで君は……」

「未空に会いに行くために、ここまで来ました。でも、違った。未空は多分分かってたんだ。どこかでこうなることを。それで、私が立ち直れるように、こんな嘘の地図まで用意して」

「……嘘の地図だって、決めつけるのは、まだ早いんじゃないの?」

 気づいたら、僕は何か強い衝動に駆られて、そう口にしていた。

「え?」

「嘘じゃないかもしれない。少なくとも、未空さんにとっては、本当だったのかもしれないじゃないか。それを、君が諦めるのは、まだ早いだろ」

 僕は戸惑う彼女の手から地図を取り、ある場所を指差した。

「『まほろば遊園地』。まだ、探しに行ってない」

「そんなの、この街にあるわけないじゃないですか」

「うん。あるわけがない。でも、何か手掛かりはあるかもしれない」

「手掛かり?」

 顔を上げた彼女は、気が抜けるほど呆気に取られた表情をしている。僕はそんな彼女に、小さく笑いかけた。

「未空さんの、伝えたかったことへの、手掛かりだよ」


 僕たちは、遊園地があると書かれた街、並木場へと向かった。新月桂からは少し離れた場所だったので、バスに乗り込んで、数駅先に向かう。

「未空が伝えたいことって、なんなんだろう」

 窓の外を見つめながら、彼女は呟く。外はもう日が落ち始めていて、西日が眩しい。少女のいる方の窓は、もう随分と暗くなって、反射で彼女の顔が見えた。目を伏せていて、表情は見えない。

「さあね。……並木場は、工場地帯の方だよ。あまり人通りも多くない。そんな場所に、遊園地があるなんて、突飛な話だとは思う」

「未空は、本当はこの街に来たことがあったのかな」

「どうだろうね。もし来たことがあるなら、この地図は彼女が作ったものって可能性もありそうだ」

「私、あんなに一緒にいたのに、未空のこと、全然知らなかったのかも」

 人気のないバスの中で、掠れた彼女の声が悲痛に響いた。


 並木場のバス停で降りて、二人で周りを歩く。もう日は完全に落ちてしまって、空気は肌を切り裂くような冷たさで僕らを襲った。深海のごとく青い空に染まって、街ごと沈んでしまったような錯覚を覚える。

「もう、夜だ」

 彼女は空を見上げて、小さな声でそう溢した。

「遊園地では、夜になるとライトアップが綺麗なんだって、未空が言ってた」

「そっか。……ライトアップされるような場所は、この辺りにはないかな」

「そう、ですよね。変なの。なんでこの場所なんだろう」

 僕たちは周囲を見渡しながら、行く宛てもなく歩き続けた。特に変わったものなんて何もない、ごく普通の工場地帯。建物から漏れ出す光はお世辞にもライトアップとは程遠く、街灯はちかちかと明滅している。

「未空さんは、自分が君の前からいなくなることを勘付いていたのかな」

 ふと何気なく、僕は気になっていたことを聞き出すことにした。なんとなく、彼女一人で抱えるには、あまりに苦しい真実があるような気がして。

「……病気だったんです。余命宣告も受けていて。

 ずっと一緒に育って、これからもずっと、ずっと一緒だって思ってたのに」

 涙声でそう答えてから、彼女は突然、声高に叫び始めた。

「ねえ、此処にいるんでしょ! 返事してよ、会いにきたよ、未空……未空……!」

 悲痛な叫びが、人気のなくひどく冷たいこの街に響き渡る。虚しく響いて、声が返ってくることなどない。

「っ、未空に会えないなら、こんな地図なんていらない!」

 彼女が投げ捨てようとした地図を、僕は咄嗟に受け止めた。眉尻をきゅっと寄せ歯を食いしばって、彼女は僕を見るとすぐさまこちらに手を伸ばし、必死になって地図を取り返そうとするので、腕を伸ばして抵抗する。

「たしかに此処に彼女はいない! でもこれは彼女の生きた証だろ!」

「でも未空じゃない!」

 攻防が続いたのち、彼女は項垂れて地面に座り込んだ。泣いているようだった。

「お葬式に出ずにこんなところまで来ちゃって、本当に私って馬鹿だ。此処に来たところで、未空は、いないのに」

 ああ、それで、とようやく腑に落ちた。スマホを置いてきた理由。それから、一人で縋るように此処まで来た理由。

「本当は、分かってたんです。あんなの、冗談だって。でも諦められなかった! 未空がいないなんて、そんなの、そんなの……」

「でも彼女はこれを遺した。君が一番分かってるだろ、これはでたらめに作られたものじゃない、それにしては作り込まれすぎている。そこから君が何かを受け取らないでどうする」

「でも、何かって、なんなんですか!」

「それは……」

 言い淀んだ矢先、不意に視界のなかに、光る何かを見つけて、思わず僕は動きを止めて、怪訝に思いながらもじっとそちらを見つめた。セピアがかった柔らかな薄紅色の光が、もう使われていないはずの廃工場から漏れ出している。

 ふと、陽吉深町で見つけた、見間違いかと思った光を思い出す。一瞬でしかなかったのに、たしかに同じ光だと僕は思った。見つけられなかっただけで、もしかしたら夢見橋田と新月桂でも同じものがあったのかもしれない。

 彼女も光に気がついたのか、「あれって……」とぽつりと溢した。

「行ってみよう。何か掴めるかもしれない。この辺りはいつも来ているけど、今までこんなものは見たことがないよ」

「未空の、声が聞こえる気がする」

 僕の声なんて届いていないかのように、彼女は呆然とそう言った。

「未空……私だよ、結那だよ。ねえ」

 おもむろに光の方へ歩き始めた彼女を、僕は後ろから追う。光はだんだんと明るさを増して、僕たちを歓迎するように包み込んだ。不意に、懐かしさのようなものを覚える。まるで、誰かの腕に抱かれているような温もりと、ずっと前から知っているような安心感。あまりの心地よさに目を閉じて、全身でその優しさを感じる。


 次に目を開けた時、僕たちの目の前には、小さな遊園地が広がっていた。まるで古い映画のようにセピアがかった景色が何処か懐かしく、しかし非現実的にも思わされる。


 白昼夢だろうか。いや、白昼夢というのは、複数人で見るものなのだろうか?

 でもたしかに、ここは遊園地だった。それも、いわゆるテーマパークのようなものではなく、小ぶりのメリーゴーランドが軽やかな音楽を奏でながらくるくると回り、子供向けに見える観覧車がゆっくりと回転して、屋台にはポップコーンの調理器具が付属していて、まるで絵に描いたような昔ながらの遊園地。そのどれもがレトロな黄色の電球で彩られ、ライトアップされていた。

「……まほろば遊園地」

 どういうことなのか、僕たちは探し求めていた遊園地に来てしまったらしい。看板には剥がれかけた塗料で、でもしっかりと『まほろば遊園地』と書かれている。

「未空! 私だよ、結那だよ」

 彼女は取り憑かれたかのように親友の名前を呼び続ける。僕はその声にハッとして、ふと自分の手元を見た。

 地図が、ない。まるで此処から先は、地図のない旅だとでもいうように。

 彼女はもう決壊する寸前の濁流のようだった。顔をぐちゃぐちゃにして、両手をぎゅっと握りしめて、絞り出すように声を上げ続けている。

「何処にいるの、ねぇ、此処にいるんでしょ! 答えてよ!」

「そう焦らないでくださいな、お嬢さん」

 突然、嗄れた声が背後から聞こえてきて、思わず振り返ると、そこには品の良いレトロなスーツとシルクハットを身に纏った老紳士が、靴音を鳴らしながら僕たちの元へ近づいてきていた。

「探し人とは、此処で会えますよ」

「未空が? あなたは誰ですか? 未空のことを知っているんですか?」

「私はここの管理人であり、遊園地のオーナーです。改めまして、ようこそ、過去と未来をつなぐ場所、まほろば遊園地へ」

 彼は帽子を脱ぎ、芝居がかった仕草で恭しく礼をした。怪しいが、たしかに遊園地のスタッフらしくもある。

「彼女は今、この遊園地に一人でやってきています。タイムリミットは、月が天上に昇り切るまで」

 彼が指差した先を見上げれば、そこにはセピアがかった薄紅色の満月が浮かんでいた。まだ南中するまではしばらくかかりそうだが、時間があるわけではないようだ。

 このいかにもメルヘンチックでおかしな状況を僕は受け入れきれないまま、心掛りである彼女を見ると、彼女は真剣な面持ちで老紳士の話に頷いていた。

 憔悴していた彼女にとって、彼の話はきっと一縷の望みそのものであるはずだ。

「それじゃあ、此処で未空を探したら、会えるんですね」

「あなたと彼女の望みならば、きっと」

 彼がゆっくりと頷くのを待たずに、彼女は走り出した。

「ちょ、ちょっと、結那さん!」

 慌てて僕は一心不乱に何処かへと去っていくその背を追いかける。

「それでは、気を付けて行ってらっしゃいませ」

 老紳士の声が遠くなるのを感じながら、僕は振り返ることもできずにその場を去った。


 彼女にはすぐに追いつくことができた。今日一日歩き回って体力も限界なのだろう、息も切れ切れで、華奢な両手で口元を覆いながら肩を上下させている。

「無理したら体に祟るよ。それは未空さんも望んでないだろ。

 ゆっくり歩いて回ろう。時間は有限だけど、この場所だってそう広くはない。急がなくても辿り着けるよ」

 彼女は顔を覆ったまま、黙って首を縦に振った。僕はなるべく彼女を安心させるように微笑んで、手を差し出した。

「未空さんが行きそうな場所に、心当たりはない? 君の記憶の中に、彼女が言っていた場所があるなら、そこを目指そう」

 彼女は少し考え込んだ後、一言こう溢した。

「……観覧車」

 彼女は顔を覆っていた両手を下げ、僕の顔を真正面から見た。

「観覧車に乗りたいって。そこから、ライトアップされた遊園地を一緒に見られたらきっと素敵だよね、って、未空、そう言ってた」

 僕たちは観覧車のある方向を見た。小さな観覧車は、僕たちを手招くかのように、ゆったりと回転していた。


 観覧車までの道は、そう遠くはなかった。決して大きなものではないが、それでも高さがある分、見失うこともない。きらめくメリーゴーランドに、楽しげな音楽を奏でるコーヒーカップ、時折弾ける音が聞こえるポップコーンの屋台、お土産屋さんにアトラクション施設。間を縫うように、僕たちは歩き続けた。

 そうして、ようやく辿り着いた観覧車の前には、ショートカットの一人の少女が立っていた。

「……本当に来てくれるなんて、思わなかったな」

 僕たちの足音に、彼女はそう呟いて振り向いた。

「未空……!」

 結那がマフラーを勢いよくはためかせて、少女に飛びついた。少女は結那をそっと抱きしめ、髪をゆったりと愛しげに撫でて、それから僕の方に目を向けた。

「あなたが結那を、此処まで案内してくださったんですね。ありがとうございます」

「い、いえ。僕はそんな大したことはしてないですから……」

「大したことですよ。あんな地図を見てまともに向き合ってくれる人、なかなかいないでしょうから」

 彼女は目線を結那に戻した。

「結那、来てくれてありがとう。一緒に観覧車、乗ってくれる?」

「当たり前でしょ、観覧車も、メリーゴーランドも、コーヒーカップも全部全部一緒に乗る」

 捲し立てる結那に、未空はかぶりを振った。

「一緒に乗るのは、観覧車だけ。そういう約束なの」

「約束って何? 私と過ごすより、大事なこと?」

「大事なこと。絶対に破ることはできないことだよ」

 未空は諭すようにゆっくりとそう言って、結那を離し、代わりに彼女の手を握った。

「誠さん。此処で少し、待っていてください。しばらくしたら、彼女は戻ってきますから」

 名前を呼ばれて、思わず「えっ」と声を上げる。名乗った記憶はない。しかし、夢でも見ているような不思議な場所だ。もしかしたら結那と出会ったところから、全部夢だったのかもしれない。そう思うと、何もかもを受け入れられた。

「わかりました。行ってらっしゃい」

 彼女は小さく、「さよなら」と返した。その言葉でようやく、彼女はもう帰ってはこないのだということに気付く。焦って呼び止めようとした時には、二人はもう、回る観覧車の中に行ってしまった後だった。


 僕はぼうっと観覧車を見つめながら、二人の運命に想いを馳せた。未空は、死んだ人間だ。彼女が戻ってくることはもう二度となくて、此処は過去と未来を一時的に繋いでいるだけで、未空は過去になり、結那は未来に進んでいく。大切な人と永遠に切り離されてしまうことは、どれほど苦しく、耐え難いことであるのか、想像はできても、当事者でない限り、わかることはできない。未空を喪って観覧車から降りてくるであろう結那に、僕は何ができるだろう。

 観覧車は、ゆっくり回ってはいても所詮は子供向けで、きっと二人の別れの挨拶を交わすにはあまりにも小さすぎる。やがて啜り泣きが聞こえてきて、僕は思わず出口の方に走り寄った。

 降りてきたその窓の中には、結那だけが一人、ぽつりと座っていた。


 何も言えないまま、僕は咄嗟に、そのドアを開けた。結那は降りようとしなかった。一人にした方がいいだろうかと悩んでいると、彼女は唐突に僕の腕を引いて、隣の席に僕を座らせる。呆気に取られた僕の腕に、彼女は縋るように抱きついた。

「未空がいなくなっちゃったの……もう二度と会えないなんて、そんなの、そんなの、そんなわけ、ないよね?」

 僕は何も答えられないまま、未空がしていたように、なるべく優しく、壊れ物に触れるように髪を撫でる。何度も、何度も。

 簡単に受け入れられるものではないだろう。だから彼女は僕の街まで来て、親友に会う手掛かりを探し続けた。そうしてやっと会えた探し人と、すぐに別れることになって。

 僕にはもう何もしてあげることなんてできない。それでも、彼女が僕を必要としたなら、せめて今は隣にいよう。月が上り切るまでは、この場所で、一緒に彼女の親友を悼もう。

「未空ね、私に、幸せになってね、って言って、いなくなっちゃった。一緒に幸せには、なれないのかな。もう会えないなんて、そんなの、嫌だよ」

「……此処に来たこと、後悔してる?」

 彼女は強く否定するように首を横に振った。

「後悔なんか、しない。けど、こんなに早くお別れなんて、信じられないよ。

 でも、未空が決めたことだっていうのも、私を想ってくれたのも、わかってる。あんまり此処にいたらいけないって、教えてくれた。一緒にいたら、それだけ過去と未来が曖昧になるから、だから未来に戻って、生きて、って」

「うん」

「だから、嫌だけど、苦しいけど、寂しいけど、私は、生きなきゃ」

「……うん。そう思えるなら、結那さんは、大丈夫だよ」

「それで、未空にいつかまた会えたら、その時は、お土産話をいっぱい持っていくの」

「いいね」

「こんな風に思えるの、誠さんのおかげだよ。あのとき誠さんが言ってくれなきゃ、私、諦めてた。ありがとう、ございます」

「どういたしまして」

 少し照れながらそう返すと、彼女は僕の腕を力一杯ぎゅっと抱き締めた。その瞬間、心臓が飛び跳ねるような心地がして、僕は咄嗟に顔を背けた。

「誠さんは、何処にも行かないでね」

 不安げな彼女の背を、あやすようにそっと撫で、そのままぎこちなく抱き締めた。

「大丈夫だよ。僕はこの街にいる。もし会いに来てくれるなら、すぐに迎えに行くからさ。今度は新しい地図でも持っておいで」

「うん」

 たったそれだけの約束を交わして、月が天上に昇り切り遊園地が消えてしまうその時まで、僕たちはただ寄り添っていた。


 あの幻想の夜から、日常に戻って時間は過ぎ、いつの間にか寒さは消え去っていった。街路樹に薄紅の花が咲くのも、時間の問題だろう。

 僕がいつものように散歩をしていると、春風に乗って、何かがはらりと落ちる。今どき珍しい、この街の地図だ。

「それ、私のものです」

 拾い上げて顔を上げると、そこには少しだけ大人びた彼女が、満開の笑みを浮かべて立っていた。

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ある少女のための巡行 藍沢 紗夜 @EdamameKoeda

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