蒼穹に背黄青

皐月あやめ

蒼穹に背黄青

「インコが飼いたい」


 黒い瞳を熱く輝かせて、息子が懇願している。

 息子も小学校三年生だ。学校の友人から影響を多大に受けるお年頃。春先にはサッカー教室に入りたいと言い出したっけ。

 大方、友達の家に遊びに行ってペット自慢されたか。はたまた好きな女の子が「小鳥さんが好きッ」とでも言ったとか?

 何にしても『ペット』のおねだりは、いつかは来ると覚悟していた。

「ちゃんとお世話する」

「お手伝いもする」

「サッカーもサボらないで頑張るから」

 子供らしい条件を並べて、渋る夫に詰め寄っている。

 そのラインナップにはぜひ「宿題を忘れない」を一位で入れて欲しいところだ。


 夕食後、いつもならアニメ動画やゲームに興じる時間帯なのに、息子は食べ終わった食器をシンクに下げるとテーブルを拭き、改めて夫に直談判。我が息子ながら健気に頑張っている。

 けれど夫は、実は鳥が苦手なのだ。あの足が怖いらしい。

 今も「ペットはダメじゃないけど、鳥はない。でも息子が……。でも鳥は……」と、どうやって諦めさせようか思い迷っている表情かおをしている。

「鳥じゃなくて犬はどうだ?柴犬!きっと可愛いぞ!」

「吠えたり咬まれたりするの、怖い」

「じゃあ猫は?猫は……」

「目が光るの、怖い」

「お父さんも猫の目は苦手だな……」

 なんだって?あのお月様のようにくるくると表情を変える光輝く瞳が魅力的なのに。ウチの男どもは何たるヘタレか。そんなわたしはもちろん猫派だ。

「お母さんはどう思う?!」

 男ふたりが声を揃えてこちらを向く。

「そうねぇ……」

 わたしは洗い物を続けながら、遠い夏の日の出来事を思い出していた。


 十歳の頃、わたしはひと夏だけセキセイインコを飼っていたことがある。



  ***



 夏休みに入って間もなく、父が鳥を連れて帰って来たことがあった。黄色い顔、胴体は緑色のごく一般的なセキセイインコ。

 それがわたしと『きみどり』との出会いだった。


 喫煙者の父は車内でも煙草を吸う。そして喚気のために窓を開けるのが習慣だった。

 その日も帰宅途中の車内で一服した父は、窓を開けて信号待ちをしていたらしい。すると助手席側からバサリと羽音が聞こえたかと思うと、窓から一羽の小鳥が飛び込んで来たのだそうだ。

 狭い車内でシートに止まったり、かと思うと飛び回ったりしている小鳥に驚いた父は、その小鳥を捕まえることはしなかった。

 放っておけばその内、窓から出て行くだろう。

 そう考えた父は、すべての窓を開けた状態にして普段よりは速度を落とし車を走らせた。

 そして自宅ガレージに駐車するまで、遂に小鳥は逃げ出すことな無かったのだった。


 そんなことがあるだろうか。

 もしもその話が本当なら、それは奇跡だ。

 奇跡が起きた。だって、わたしの目の前にはこうして小さな鳥がいるのだから。

 艶々と濡れたように滑らかな緑色の体。青く長い尾。黄色い小首をかしげて、黒く輝く瞳にわたしを映して。

 宝石のように美しい。

 わたしはその宝石の虜になった。

 『きみどり』と名付けた。


 子供の頃から猫派を自負していたわたしだったが、もうすっかり『きみどり』に骨抜きにされ、夏休みなのをいいことに毎日『きみどり』を眺めて過ごした。

 四角い鳥かごの中の止まり木にちょこんと止まったかと思うと、とんとん跳ねて餌を啄む可愛い姿。隙間から指を差し入れると、カジカジ齧ってくれるのがたまらない。

 ほんの少しの時間だけ家の中に放つ。もちろん窓は忘れずにきちっと閉める。自由に羽ばたく『きみどり』、わたしの頭に止まる『きみどり』、華奢な見た目に反して足の力が強くて爪が刺さったりするが、それも心地よかった。

 夏休みの図画の宿題も、当然『きみどり』を描いた。我ながら力作で、後日、学校の廊下に貼り出す絵の一枚に選ばれた程だ。

 そして、ただ可愛がるだけでなく、餌や水の取り換えも糞の掃除も毎日やった。

 『きみどり』のためなら早起きも汚れもへっちゃらだった。


 そんな時だ。父親が訊いてきたのは。

「今年のキャンプはどこに行きたい?」

 そう、我が家は毎年、父のお盆休みに合わせて二泊三日の家族キャンプに出掛けていたのだ。

 そうか、もうすぐお盆。けれどこの夏はいつもとは違う。

「今年は行かない。だって『きみどり』がいるもん」

 わたしは指先に止まる『きみどり』の頭を撫でながら「ずっと一緒だもんね」と笑いかけた。

 そんな私の姿に、両親はさぞかし困ったことだろう。

 家族キャンプは、なかなか休みの取れない父、そしてパートと家事で忙しい母と一緒に過ごせる数少ないイベントだ。中止にしてしまうのはさすがに忍びないと思ったのか、一泊だけでもと持ち掛けられた。

 『きみどり』のことがなければわたしも家族揃って遊びに行きたい。できれば『きみどり』も連れて行けたら。けれどそんなことは無理だ。子供心にもそれは分かっていた。

「じゃあ『きみどり』はお婆ちゃんの所で預かってもらうのはどう?」

 母が提案してきて、わたしは「それなら」と頷いた。

 そして簡単な話し合いが行われ、日程は一泊二日になり、キャンプではなく近場の温泉に行くことになった。母親は大喜び。

 実はわたしも楽しみだった。温泉街の近くに『ひまわり畑の大迷路』があったから。


 当日は快晴だった。

 朝早くに祖父母の家に行き、鳥かごごと『きみどり』を託した。

「ごはんあげるの忘れないでね。絶対『きみどり』から目を離さないで。逃がしゃちゃダメだよ。絶対、絶対だよ!」

 祖父母にお願いしたわたしは、かごの隙間から指を入れて『きみどり』の体を撫でる。

 待っててね『きみどり』、明日お迎えに来るからね。


 家族旅行は想像以上に楽しかった。

 近隣の町が運営している『ひまわり迷路』は大盛況で、たくさんの家族連れで賑わっていた。

 両親に手を引かれて自分の背丈よりも大きなひまわりの間を抜ける。父が写真を撮り、母と売店で可愛いキーホルダーを買った。

 どこまでも青い夏の空に、鮮やかな黄色いひまわりが揺れている。

 その風景に、わたしは『きみどり』を思い出していた。

 

 翌日、お土産を持って祖父母の家に到着したのは、お昼少し前。

「ただいま『きみどり』!」

 息急き切って家の中に駆け込むわたしを待っていたのは、空の鳥かごだった。

「……。『きみどり』は?」

 呆然と訊ねるわたしに、心底すまなそうに祖母が言った。

「ごめんね。今朝お水を換えるときにかごから出てちゃって、それで、窓から……」

 窓。

 『きみどり』のかごが置かれていた和室の障子は開け放たれており、降り注ぐ日差しで室内は明るい。そして通り抜ける風が心地よい。窓が開いている。

「まさか出て来るとは思ってなくて……。本当にごめんね」

 謝る祖母の声は聞こえていなかった。

「……お願い、したのに」

 わたしは空の鳥かごに縋りついた。

「バカッ!バカッ!嫌い!!――『きみどり』!!」

 暴言を吐き泣き叫ぶわたしを大人たちは宥めようとしてくれたが、その時のわたしにはひとつも響いては来なかった。

 わたしの心は居なくなってしまった『きみどり』を想って、荒れ狂っていた。


 『きみどり』が行ってしまったのは今朝のことだという。ならばもっと早く帰って来ていたら間に合っていただろうか。

 そもそも『きみどり』を預けなければこんなことには。家族旅行なんてしなければ、そうしたら『きみどり』が逃げ出すこともなく、みんなに酷いことを言わずにすんだのに。

 楽しかったのに。楽しい旅行だったからこそ悔しかった。

 悔しくて、悲しくて。

 どこにも居ない『きみどり』、もう二度と会えない小鳥を想うと、涙が止まらなかった。

 ある日、気まぐれに舞い降りた小さなセキセイインコは、また気まぐれに飛び立って行った。

 青い青い空の彼方に背黄青せきせい色が溶ける。

 ひと夏だけの、わたしの宝石――



  ***



「――そうねぇ。いいんじゃない?インコ」

 食器についた泡を水で洗い流しながらそう答えたわたしに「よっしゃあッ!!」と息子が大声でガッツポーズを決める。

「ちょっ、お母さん待って」

 夫が狼狽して顔を蒼くしていた。

 大丈夫よ。ひと目でもあの美しい姿を見たなら。少しでも触れ合ってみれば、きっと。

「ありがとう!お母さん!」

「わッ?!危ないっ!」

 大喜びの息子が背後から腰に抱きついてきて、思わずお皿を落とすところだった。

 満面の笑顔で見上げてくる息子。そうか、この子もあの頃のわたしとそう変わらない年頃になったのだ。

「とりあえず、今度のお休みに一度ペットショップに行ってみよっか」


 息子はどんな宝石に出会えるのか——わたしの方が楽しみだった。




  完




 


 


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