本編

 ※本編(音声スポット・大阪城公園の極楽橋付近)



 ハナが住んでいるマンションは大阪城公園のほど近くにある。母方の祖母と同居するようになったのは、ハナが中学一年生になった年だった。八十歳間近の一人暮らしは大変だろうと、ハナの両親が祖母に同居を提案したのだ。


 祖母はどことなく可愛らしい人で、ハナを幼い頃から可愛がってくれた。大好きな祖母との同居に、ハナは特に不満を抱かなかった。

 ただ、同居をはじめてからまもなくに、祖母が奇妙な行動を取るようになった。


 祖母は毎日の散歩を欠かさなかったが、帰ってくると、ときどき一握りの砂を持っているのだ。散歩コースである大阪城公園の砂に違いなかった。

「もらった砂やさかい、渡してあげんとね」

 砂をティッシュで包みながら、祖母はそのような話をした。しかし、誰にもらったかも誰に渡すかも、まったくわからないという。そして、翌日になると砂はもうなくなっていた。どこかに捨てているようだ。


「認知症やろか……」

 ハナの母はそう疑っていた。ハナもそうかもしれないと思っていた。

 祖母は食事をしたのを忘れることもあったり、亡くなった祖父をさがしまわることもあった。


 祖母の砂を持って帰ってくる行動は何年も続いた。

  

     *


 土曜日の午後一時過ぎのことだった。

 現在のハナは中学を卒業して市内の高校に通っている。陸上部に所属しており、学校が休みの日に、しばしば自主練を行う。母に大阪城公園にいくと伝えてから玄関に向かった。大阪城公園には自主練に最適なランニングコースが設けられている。


 がりまちに座ってランニングシューズを履いていると、背後で祖母の声が聞こえた。

「ハナちゃん、今日も走るんかね?」

 祖母の声を認めても、ハナは後ろを振り返らなかった。シューズの紐を結びつつ短く答える。

「うん、そう……」

 高校生になった頃から祖母との会話が減った。祖母が嫌いになったわけではないのだが、話をするのをつい面倒に思ってしまうのだ。

 認知症が影響しているのか、話が噛み合わないときがある。何度も同じ話をするのが時間の無駄に思えて、なるべく会話を避けてきた。

「大阪城のとこにいくんやね?」

「そやで……」

「あっこはぃつけなあかんよ。死んだ人がたくさんおるよって」

 これまでに何度も聞いた話だ。認知症らしき症状が出はじめた頃から、死んだ人がいると、気味の悪い話をするようになった。

「死んだ人っちゅうのはねえ、後ろから話しかけてきはる。振り向いたらあかんで」

 これも何度も聞いた。

「今日は特に空気がざわざわしてるさかい、気ぃつけてな」

 空気がざわざわとはどういう意味なのか。よくわからないが尋ねはしない。シューズの紐を結び終えたハナは、無言のまま立ちあがりドアを開けた。


     *


 大阪城公園の広さは甲子園球場のおよそ二十七個ぶんある。本丸に建つ大阪城のほかに、西の丸庭園、豊國神社、梅林などが園内に存在する。ここに設けられているランニングコースはふたつ。一周三・五キロのロングコースと、二・九キロのショートコースだ。

 ハナが好んで走っているのは、大阪城の堀の周囲を走るショートコースのほうだった。


 コースのスタート地点に立つと、水をたたえた堀が左手側に見える。ハナは軽く屈伸運動をしてから走りだそうとした。そのとき、地面に落ちたハナの影の横に、誰かの影がすうっと並んだ。背後に誰かが立ったらしい。

 ほかのランナーだろうか。ハナは後ろが気になって振り返ったが、そこには誰の姿も認められなかった。

(あれ……?)

 前に向き直ってみるとハナの影だけが地面にある。別の影を見た気がしたが、錯覚だったらしい。ハナは今度こそショートコースを走りはじめた。


 大阪城公園はランナーの聖地とも言われている場所であり、息を切らして走るランナーとしばしばすれ違う。加えて大阪城目当ての観光客が多い場所でもある。ぶつからないように注意しながら走り抜けていく。


 そうやって走っていると、後ろから迫ってくる足音があった。他のランナーのものに違いないが、まさかぶつかってはこないだろう。ハナは高をくくってそのまま走り続けた。すると、


「はあぁぁぁ……」

 冷たい息が首筋にかかった。


(えっ)

 ハナは思わず足を止めて後ろを振り返った。

 しかし、息を吹きかけてきたと思われる人物はいなかった。


(なんやろ、今の……)

 息のかかった冷たい感触が、まだ首筋にはっきり残っている。汗をかいた首筋に風が触れでもしたのだろうか。後ろから迫ってくるような足音は、なにかを聞き間違えたのかもしれない。ハナは怪訝に思いつつもそう納得して練習を再開した。


 しばらく走っていると、行手に極楽橋ごくらくばしが見えてえきた。

 堀に架けられた極楽橋を渡り、少し進めば大阪城に到着する。大阪城見物においてはポピュラーな道順だ。


 だが、ハナの目的は大阪城見物ではない。極楽橋を渡らずに堀沿いの道を真っ直ぐ走っていく。 

 ここまでくると観光客の姿がだいぶ少なくなる。走りやすくなったので、ハナは加速しようとした。ところが、シューズがぶちっと音を立て、足がずるっと横滑りした。

 なんとか転ばすに済んだものの、シューズを確認して驚いた。

(なんで……)

 右足のシューズの紐が異常な切れ方をしている。一箇所だけ切れることは稀にあるが、甲の部分に通してあるすべての紐が切れていた。


 その場に片膝をついて、切れた部分に指で触れた。触れると余計に不可解に思えた。切り口が鋭利な刃物を使ったかのように滑らかなのだ。

(なんやろか、この切れ方……)

 切れた紐を見つめていたとき、ハナのすぐ前に誰かが立った。見えたのは膝から下の素足だったが、火傷をしたかのように皮膚がただれていた。

 ハナはぎょっとして相手を見あげそうになった。だが、急に直感が働いて、慌てて下を向いた。

 きっとこれは人ではないモノだ。

 これを不用意に見てはいけない。

 

 また、周囲がやたらと静かだった。人の気配がまったくなく、物音がひとつもしない。にもかかわらず、空気がざわざわとしている。


 祖母の言ったことが耳の奥によみがえった。

「今日は特に空気がざわざわしてるさかい、ぃつけてな」


 片膝をついたまま動けないでいると、ザリ、ザリ、と足音らしきものが聞こえはじめた。

 最初はひとりぶんの足音だった。しかし、だんだん足音は増えていき、五、六人ぶんにまで増えた。気づくとハナはその足音の主たちに取り囲まれていた。

 膝から下の素足が見える。真っ黒に焼けこげていたり、血まみれになった足もある。


 冷たい汗が頬をつたうのを感じる。

 そのとき背後で声が聞こえた。

「ハナちゃん……」

 老いた女性とおぼしき声だった。

 ハナは声につられて背後を振り返った。


     *

 

 大阪城公園から家に帰ってきたハナは、自分の部屋のベッドに腰かけていた。

 手の平に乗せた砂をじっと見つめている。


 シューズの紐が切れたために自主練を中止し、シューズが脱げないように注意つつ帰宅した。それははっきりと覚えているのだが、ほかにもなにかあったような気がする。断片的に足の映像が頭に浮かび、恐ろしい体験だったように感じる。だが、詳しいことはなにも思いだせない。


 また、帰宅してから気づいたのだが、ハナは一握りの砂を持っていた。

(この砂、渡してあげへんと……)

 誰に渡すかは不明であるものの、なぜかそんな思いがよぎる。

(おばあちゃんと一緒や……)

 きっとこの砂にはなにか意味があるのだろう。祖母は認知症ではなかったのかもしれない。


 その夜、ハナは奇妙な体験をした。

 ベッドで眠っていると、深夜にふっと目がさめた。すると、真っ暗な部屋の隅に誰かが立っている。ぼんやりとしていて視界に捉えにくいが、着物姿の若い女性のように思えた。

 女性はハナに向かって頭をさげると、すうっと足もとから消えていった。

 彼女が生身の人間でないのは明らかだったが、不思議と恐怖をまったく感じなかった。

 

 あの砂を渡すべき相手は、彼女だったのだろう。

 ティッシュに包んだ砂を勉強机の上に置いていたが、それが消えていた。


     *


 翌日の日曜日、ハナの両親は昼前に出かけていった。観たい映画があるのだという。

 玄関で両親を見送ったハナは、がりまちに座ってランニングシューズを手にした。

(ほんまに、なんでこんな切れ方したんやろ)

 シューズの紐を見やっていると、衣擦れの音が聞こえて、背後に誰かの立つ気配があった。

「砂を渡してくれたんやね」

 祖母の声だ。

 ハナは後ろを振り向かずに応じた。

「うん」

「ハナちゃんはええ子やね。ええことしたねえ」


 祖母は砂についてなにか知っているはずだった。  

 シューズを土間に置きつつ訊いた。

「あの砂はなんやったん? なんであの人に渡さなあかんの?」

「おばあちゃんもようは知らんの。そやけど、あの砂は供養になるさかい、取りにきはった人に渡してあげるんや」

「供養?」

「そうや。ずっと昔に大阪城でたくさんの人が死にはった。何度か戦さがあったさかいね。砂はその人たちの供養になるんよ。そやけど――」

 祖母は声を少し落として話をつぐ。

「供養してあげれん人もおる。死んだ人は後ろから話かけてきはるから、そんときは振り返ったらあかんで」


 それを聞いたはハナは、後ろを振り向かないまま思い切って尋ねた。

「……だから、おばあちゃんも後ろから話しかけてくるん?」


 祖母が亡くなったのは半年前だった。風邪をこじらせて肺炎を患い、入院した病院から帰ってこないまま亡くなった。

 死んだはずの祖母は、ハナにしか見えないモノになって、未だにここにいる。


「おばあちゃんに話しかけられても、振り返ったらあかんの?」

「そやね。可愛いハナちゃんの顔を見たら、名残おしゅうて成仏できんくなる」

 それを聞いたハナはたまらなくなった。


 ハナは何年か前から祖母を面倒に思うようになり、なるべくかかわらないようにしてきた。そのうち祖母は肺炎を患って逝ってしまった。恨まれても仕方ないというのに、祖母はまだハナを可愛い孫だと思っている。ここに未だいるのだって、ハナを見守ってくれているのかもしれない。


 目に後悔の涙が溜まっていくのがわかる。

「おばあちゃん、ほんまにごめん……」

 とうとう我慢できなくなったハナは、立ちあがって後ろを振り返った。それと同時に、「え……」と声がもれた。


 そこには祖母が立っているはずだった。しかし、実際に立っていたのは、祖母とは似ても似つかぬ老婆だった。

 

 老婆は真っ黒な和服を着ており、枯れ枝のように痩せていた。黒目は濁って灰色になっている。顔立ちも身なりも、明らかに祖母ではない。


「誰……」

 呆然とするハナを揶揄からかうかのように、老婆はお歯黒を見せてねっとり笑った。

 それからさっきと同じことを口にする。

「可愛いハナちゃんの顔を見たら、名残おしゅうて成仏できんくなる」

 

 背筋がぞくりとした。

 老婆の正体は不明だが、悪意のかたまりのような、そんな不吉なものに思えた。


 祖母は亡くなってからまもなくに、ハナの前に現れるようになった。しかし、声は何度となく聞いたものの、姿は一度も見たことがない。振り返ってはいけないと、忠告されていたからだ。

 ハナは恐る恐る訊いた。

「ずっと……」

 声がかすれた。

「ずっとおばあちゃんの真似をしてたの……?」

「そんな面倒なことはせえへん。昨日まではあんたの祖母やったよ」

 今まで聞いてきた声は本物の祖母だった。

 だとすれば――。

「おばあちゃんはどこ……?」

 老婆の唇が、にやぁぁ……、と歪む。

「喰うた」

「え……」

 次の言葉が出なかった。

「老いぼれの魂やっても、そこそこうまいんや」

 老婆は見せつけるように舌なめずりをした。

「さっきわたしに誰って尋ねよったね。さて、わたしは誰やろうね」

 そう言って薄く笑う。

「あんたの祖母は供養のために砂を持って帰っとった。そやけど、砂くらいじゃあ成仏できんもんもおる。そんなもんをつれて帰ったらえらいことや」

 ハナは一歩、二歩と後ずさった。

「死者に話かけられても、振り返ったらあかん。あんたの祖母も言うとったやろ」


 今になって大阪城公園での出来事を思いだした。

 シューズの紐が切れて走るのを中止したさい、なにかに取り囲まれて動けなくなった。

 そのときに老いた女性の声が背後でした。ハナちゃん……。

 ハナはその声につられて後ろを振り返った。


「振り返ってもうたら、死者はついてくるよ」

 老婆はまた舌なめずりをした。

「若くて元気なあんたの魂はどんな味やろか。きっとうまいんやろうねえ」



     了



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〔受賞作〕大阪城ではたくさんの人が死にはった。昔に何度か戦さがあったさかいに。 烏目浩輔 @WATERES

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