とりあえず、冒険してみようか
遊月奈喩多
冒険は突然に
Trick or treat!
どこからともなく、無邪気な子どもたちの声が聞こえる。いや、さすがにこれは幻聴だろう──何故なら今はまだ春になるかならないかという時期で、今まさに通りかかっているこの公園には、ベンチに座ったツナギ姿のいい男以外誰もいないからである。
とりあえず帰らなければと足を早めるが、無邪気な子どもたちの声はずっと近くから聞こえてくる。まるで俺の後をつけてきているみたいだとありえない想像を一笑に付しつつ、念のため後ろを振り返る。後ろに誰かがいたってどうするわけでもなかったが、菓子のひとつでも渡してやれば帰るのではないかとも思った。もっとも、俺があげられるのなんてあたりめ1本だけなので、それはそれで取り合いが始まったりしそうではあったが──それなら、誰もいなくてよかったかも知れない。
街はまだ肌寒く、季節の流れに取り残されまいと抗う冬が、進む足に絡み付く。確かに今日は風が強いとは聞いていたが、これは想像以上だ。寒いはずなのにいっそ汗までかいてしまいそうな北風のなか、俺は半ば意地になって家路を急ぐ。春と冬が慌ただしく往復する天候に翻弄される住宅街を歩くと、まだ数日前に降った雪の積もっているのが目に入る。道路脇に除けられた雪の塊を踏み締める児童の列を横目に見ながら、ふと見慣れない光景に足を止めた。
あったのは、古ぼけた鳥居とその先に続く石段だった。すっかり苔むして、昔からずっとここにありましたよと言わんばかりの風情を漂わせてはいるが、生まれてから四半世紀以上この街に住んでいる俺は、こんなものを見たことがなかった。
ひとまず深呼吸だけして、じっと石段を見る。けっこうな高さで、たぶんここを往復すればそれだけで十分な運動になるだろうという佇まい。運動不足を否が応にも自覚せざるを得ない年頃の俺としては、まぁもし昇るのであればありがたいことこの上ない存在とも言えた。
同時に、これは最後のチャンスにも思えた。
周りを見れば昇進、結婚、はたまた子どもの成人と、いわゆる『人生のステップ』みたいなやつを着実に進めているやつばかりだ。そういうやつらと自分を比べて劣等感とまではいかないまでも、ある程度焦ったりまごついたり、自分は何をしているのかと自問自答するような機会も増えていた。今日だって例外ではない。
だが、もしもこの先に非日常が待っていたら? これまでの鬱屈した人生が丸ごと引っくり返って、お釣りまで来るようなことが待っていたら? そんな機会を逃すのは、ひどくもったいないように思えた。
だから、俺は。
「とりあえずセーブしとくか」
もちろん、俺自身はゲームの中の人物などではない。だからセーブというのは、まぁいうならここに来ているという痕を残すこと。具体的にはバックパックに入れた鶏皮を小皿に置いて写真を撮り、SNSにアップすることだ。……よし、できた。
鳥居の下に鶏皮を置いて気持ちを落ち着かせたところで、俺は意を決して石段を昇る。そこそこの段差がある石段が、一気に俺の中の酸素を減らしていった。
「はぁ、はぁぁ~っ、」
何度となく息をつきながら石段を昇り、上を見る。何かのトリックでも使われているのか、一向に終着点までの距離が縮まっている気がしない。こんなことなら上なんて見なければよかった。
ドッと出てきた疲れのままに、俺の視線はこれまで昇ってきた背後へと向く。ひょっとしたらトリックでも何でもなくただ俺の運動不足で、大して昇れてないのに疲れきっているだけなのかも知れない。もしそうなら戻ろう、そして求人雑誌でも読もう──そう思って振り返った先は恐ろしく長い石段で、地上はもはや遥か彼方だった。まさか、遠くに見える豆粒見たいのが日本?
「え、」
声を漏らすと同時に腰が抜けて、思わず石段から落ちそうになる。宙にまで伸びているくせに手すりもないので、不親切設計にも程がある。
だが……まぁ、その、どうするか。
「とりあえず、座るか」
誰が聞いているのかは知らないが、腰が抜けたなんて口に出すのも
それに抗う気力すら残っていなかった俺は、とりあえず先々立ちはだかることになるだろう問題については後回しにして、眠ることにした。
とりあえず、そう、とりあえずだ。
なんだかいつもと変わらないことを言ってるな──眠りに落ちる前に、そんなことを思いながら。
とりあえず、冒険してみようか 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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