第五章「日々の光を取り戻す」
第三十八話「前へ進む」
ネムと病院の外で会ってから、一ヶ月ほど経った。琴音は久しぶりに書道教室に出席した。
すると先生がある提案をしてきた。
「もうすぐ中高生対象のコンクールがあるんだよ。病み上がりでしんどいかもしれないけど、もしよければ、今週と来週で書いたうちよくできたものを応募してみない?」
「やってみます」
琴音は筆を硯の中の墨汁に浸し、半紙にゆっくりと線を引き出した。書き始めは要領を掴めず、何枚か文字にすらならない反故を生み出してしまった。だが十枚も書くと感覚を思い出した。
しばらく懸命に筆を動かした。全力で集中して、筆と一体になるような気持ちで書いていく。
以前はどう書いたらよいか分からなくなっていたが、今は自然と迷いなく筆を動かすことができる。あるとき一枚思ったよりよい仕上がりの文字を書けて、先生に見せに並んだ。
「おお、すごいじゃない。立派に書けたね。これは出来がいいから、キープしておくね。急に上達したけど、入院中病室で練習したの?」
先生に冗談を言われ、琴音は照れ笑いした。
「植田さん、顔色もよくなったんじゃない? 前より元気そうだよ」
琴音の顔をじっと見つめてそう言った先生の観察は正しかった。
琴音は前向きに治療に励むようになり、体重は少し増え、胃腸の調子も改善傾向にある。両手の吐き胼胝も傷が深くなるのが止まった。かさぶたが傷跡を覆い、痛みは日を追うことに減っている。
まだ脂っこい消化の悪いものをたくさん食べることなどはできないが、ほとんど普通の食事をできるようになったのだった。
琴音の体調のよさに気づいたのは歌羽も同様だった。
「身体の調子、よさそうだね」
「そう見える? ちゃんとご飯食べる気になったんだ。だからだと思う」
「なによりだよ」
琴音はそっと聞いてみた。
「アルバイト、どう?」
歌羽は琴音の提案通り、掲示板のパトロールを行う業務委託形式の仕事を始めていた。
「頑張ってる。少しだけどお金もらえるのが嬉しいし、人の心の闇を見るのが、よくない趣味から役を与えてもらえるアルバイトに変わって、すごくいい気分」
「気に入ってるんだね」
「すごい気に入った。毎日楽しい。今までのウォチはお金にならないからやる気がしなくてね、やめられた。同じ時間掛けてどっちかやるとしたら、お金になる方をやりたいじゃん? 今は掲示板の治安維持に専念してる」
それを聞いて、琴音は心から安堵した。歌羽の好きになれなかった部分が、消え去ったのだ。
麻理恵が彼氏を紹介したいと言ってきて、週末に三人で会うことになった。
カフェで、琴音は麻理恵とその彼氏と向き合った。彼氏は髪の毛を金髪に染めていて、金色の鎖状のネックレスをつけている。緑と黒のボーダーのタンクトップを着ていて、肩は筋肉がついて盛り上がっていた。
彼氏は麻理恵よりも一層いわゆるヤンキーに見えた。だが悪い人には見えなかった。二人で現れたときから、麻理恵を気遣っている様子が伺えた。
麻理恵が彼氏を指して言う。
「悪そうに見えるでしょ」
「ヤンキーに見える」
「っスよね」
と彼氏は答えた。
「でも超いい奴なの。マジ紳士。原付乗ってんだよ。今日もそれ乗ってきた。だよね」
「おう」
彼氏は短く返事した。琴音を前にして、照れているようだった。
「プラトでいいって言ってくれるし」
「それ重要だね」
「まあ、まあ」
麻理恵がトイレに行って席を外したとき、琴音はおそるおそる尋ねてみた。
「本当に、手繋いだりするだけでオッケーなんですか?」
スマホを見ていた麻理恵の彼氏は顔を上げ、笑って答えた。
「そりゃ俺だってエッチしたいときはあるよ。でもマリがいいって言うまで待つつもりで。マリの気持ちが大事っスから」
たくさんおしゃべりして、それぞれ飲み物を飲んだ後、解散した。彼氏の原付バイクの後ろに跨がって手を振ってくる麻理恵を見て、琴音はあちらも回復したんだなと実感した。自分自身負い目を感じていた、この大切ないとこのことはずっと心配していたので、嬉しくなった。
次の日はネムと遊ぶ日だった。思い切って二人でファミリーレストランへ行った。二人とも少なめの料理を注文した。
さっそくネムが話し出した。
「私は深く反省したから、もう安易に自殺を図ったりしないと自分に誓ったよ。無理しない程度に治療に励んで、学校にまともに通えるようになりたいな。元々勉強は好きだから、授業に出て学びたいな」
「いいね。勉強したい気持ちになれるってことは、相当回復したんだね。私もネムのおかげでいよいよ本当に治療する気になれたよ。学校の友だちの歌羽も完全にネトストをやめたらしいから、お互い心を許せるようになってね。それからお父さんとお母さんも、私がまともに食べるようになったから喜んでてね。お父さんは機嫌よくあれもこれも食べなって勧めてくるんだ。お母さんはまだ疑いが消えないみたいだけど、この間『琴音は本当はいい子なんだもんね』って言ってくれたんだ」
ネムに自分のことを聞いてもらいたくて、琴音は一気に話した。ネムは頷きながらじっくり聞いてくれる。
「琴音。全部いい方向に向かってるじゃん」
「本当に。ネムもだよ。私たち、二人ともうまく行き始めたね」
「行き始めた! このまま行くといいね」
ネムはこれまでで一番幸せそうな表情をしていた。琴音も心が晴れていて、ネムの顔を見ると、一層幸せを実感した。
二人とも注文した料理を全て食べることができた。誰かと一緒に食事をするのも楽しいことに琴音は気づいた。特にネムと一緒だと快い気分になれる。
食後に一緒に薬を服薬した。
ネムと一日遊んだ帰り道、駅から家に向かって歩きながら、琴音は一抹の不安に襲われた。
本当に、みんなそんなにうまくいくのだろうか? そんな中で思い出したのは、麻理恵の言葉だった。
「寿馬がいなくなっても、ウチは生きていかなきゃいけない。ウチ、まだ生きてる」
琴音は晴れやかな気持ちを取り戻した。人生はまだ続いていくし、生きていかなければならない。私は私の人生を、精一杯、生きていくんだ。
冬の初めの冷たく澄んだ空気が、追いかけっこを繰り返しながら琴音の頬をくすぐり、沈みかけた太陽は手を振って地上におやすみの挨拶をするのであった。
また明日ね、と。
了
15th-逆さまの悪魔- 文野麗 @lei_fumi_zb8
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