梁に縄を渡して、先生の両手首を吊し上げた。辛うじて爪先が床につく程度に調整する。彼は手を上げた状態のままぐったりしていた。傍から見れば変な絵面だ。行灯の明かりが身体に刻まれた無数の切り傷と紫色の打撲の痕を照らし出す。その傷痕のひとつをなぞると、身体が僅かに動いた。彼の浅い息が、微かに聞こえる。


「先生、大丈夫ですか」

と聞くと、彼はこくりと首を傾げた。

「まだ、生きていて下さいね」

でないと困るので。僕の娯楽がなくなってしまうので。


 だが、そんな自分勝手な願いは、叶う筈もなかった。僕がいくらか暴行した後、彼は咳き込んで血を吐き、遂には事切れた。黒い血を顔面に浴びた僕は、そのまま何もできずに立ち尽くした。彼は暫く待っても動かなかった。虚ろな瞳が床の一点を見つめたまま濁っていくのを、僕はただ眺めていた。


 先生が死んだ。

 僕が先生を壊してしまった。

 

 しかし、不思議と罪悪は感じなかった。感情が麻痺していたのかもしれぬが、やり切ったのだという感慨のほうが大きかった。僕等は泥沼に沈み、衝動のままに突き進んだ。なんて素晴らしい。道を踏み外したなどと言ってくれるな。僕等は人間らしく生きたのだ。皆が心の奥底に飼っている、しかしちょっとやそっとで気づきやしない欲求。僕等は気づいてしまった。そして僕等は欲求に正直に生きた。心のあるがままに、生きたのだ。


 彼の顔に、行灯から取り出した蝋燭を近づける。彼の瞼を下ろしてやり、黄土色の顔を優しく撫でた。それから、亡骸の唇に接吻する。ねぇ先生、僕等、頑張った。そうでしょう。


 先生を残して僕は書斎に向かった。彼の原稿、遺稿となるものが整頓されて作業机に置かれている。先生は既に小説を完結させていたのである。だが、物語を終わらせた後も彼は僕との遊戯を続けてくれた。彼もまた、正直に生き切った……それだけでなかったのかもしれない。僕を泥沼に引きずり込んだ贖罪だったのではないか。君がこの沼から抜け出せないのなら、自分もここで果てよう、そう思ってくれたのかもしれない。今となっては、本当のことは分からないけれど。


 遺稿を携えて、先生の元に帰った。その下に座すると、彼がやけに神々しく見えた。両手首を梁に括り付けられ、だらりと首を垂れた彼の姿。あゝまるで、先生が本当に神様になってしまったようで――僕はその骸に見惚れてしまった。


 「ねえ、先生」

 物言わぬ彼に語りかける。


 先生はこれで良かったんでしょうか――良かったんですよね。あゝきっとそうだ。僕等が暴力に溺れなければ、先生は描けなかった、描き切ることができなかった。そうなのでしょう、先生。


 僕は、そう信じたい。


 ねえ、先生。

 愛しています。


 愛しています。

 僕も――貴方の口から、その言葉を聞きたかった。


 彼の遺した原稿用紙が散らばり、暗闇に解けた。

 独りぼっちになった泥沼は血腥くて、酷く冷える。


【了】





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泥沼 見咲影弥 @shadow128

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