中
先生には妻子がいない。外遊びもせずに年がら年中家に籠もりっきりであるので、外に想い人がいるわけでもない。家には先生と書生の僕、二人だけ。僕らがそういう関係になってしまうのは、致し方ないことであった。否、成り行きではないのかもしれない。端からそういう関係を求めるために、書生を雇ったのかもしれない。しかし、別に僕にとっては苦痛でも何でもなかった。寧ろ快楽であった。なんたって憧れの先生を手中に収められるのだから。この時間だけは自分のものにしてしまえるのだから。独占欲の強い僕にとって、その関係は好都合なものであった。
寝支度を整えて先生の居室に伺うと、彼は正座して待っていた。行灯から滲み出る明かりが、ぼっと彼の顔を照らす。彼は嬉しそうな顔をしていた。彼と膝を突き合わせて座ると、彼は口を開いた。
「ねえ、君は暴力が好きかい」
そんなわけない――と早く否定してしまえばいいものを、僕は否定できずに押し黙った。少しだけ、快感を覚えたのだ。情交の際に感じる快楽に似た、あの感覚。他人を痛めつけ、傷つけることへの、得も言われぬ感動。じわりと染み渡る痛み。拳に残る余韻。己に狂気を感じるほど、僕は暴力に感じ入っていた。
「そうかい」
と彼は僕の心情を感じ取ったのか呟いた。それから、ねえ君、と僕に語りかけた。
「ぼくはね、今ならもっと表現の高みを目指せるような気がするんだ。今なら、濃縮された狂気を描くことができる。ぼくなりの暴力を書き切ることができると思うんだ」
だから、ねえ君、ぼくの仕事を手伝うと思って、ぼくをもっと、もっと、痛めつけてくれないかい――彼は言った。彼の瞳には僕と同種の狂気が宿っているように感じた。あゝ恐らく彼も、取り憑かれてしまったのだ、僕は理解った。しかし、僕に僕を、そして彼を止める術はなかった。僕等は己等の狂気に従順に、欲望のままに愚行に及んだのである。
手を大きく振り被ると、先生が一瞬避けるような仕草を見せたので片手で彼の顔を押さえつける。
「先生、しかと受け止めてくださいよ」
平手を振り下ろし、彼の頬を打った。風船が弾けるような音がした。心地よい音だった。うっと彼が声を漏らすが、間髪入れずにもう片方を平手打ちする。彼の顔面が今度は逆方向に吹っ飛んだ。己の手が遅れて徐々に痛み始める。だが、こんな痛みより先生が受けた痛みの方が大きい筈だ。彼の頬は既に赤みを帯びていたが、顔を顰めるわけでもなく至って落ち着いた様子であった。
「もっと」
もっとやってくれ、と彼は言った。
「ぼくはもっと欲しいんだ」
彼は芯の通った声でそう告げた。彼は純粋に痛みを求めているのだ。そうであるなら僕も彼の期待に応えなければならない。僕は彼を布団の上に押し倒し、馬乗りになった。彼の着物が肌蹴て、肌の色が一層顕になる。先生の顔がぐにゃりと歪んだ。気色の悪い、それでいて素敵な顔をしていた。
「僕も、もっとしたいんです」
先生を、無茶苦茶にしたい。言葉になったその瞬間、僕の中で、何か素晴らしいものが芽生えた気がした。芽生えたというより元々備わっていたものが過激さを増したに過ぎないのかもしれない。僕等は見事に泥沼に嵌った。理性ではどうにもならない深みまで、僕等は潜ってしまったのである。
それから――先生は一層痛みを欲するようになった。苦悶の表情を浮かべながら、それでいて尚、欲しがった。顔は赤く腫れ上がり痛々しい姿になった。だがそれだけでは満足しなくなった、彼も、僕も――。今度は身体全体を痛めつけるようになった。鳩尾を殴って吐かせたり、角材で只管背中を打ったりすることもあった。生々しい傷や出血が生じたが、それでも彼はやめようと言わなかった。僕も言い出せなかった。彼が恍惚とした表情で、感じ入っていたからである。もっと、もっと――と激しい傷を追って尚譫言のように言う。彼は痛みに酔っているのだと理解った。僕も僕で、彼の時折見せる苦悶に満ちた表情が好きだった。あの顔を見たい。彼を痛めつけたい。そういう衝動に駆られるのだ。手を止めるわけにはいかなかった。止めたくなかった。
先生、もっと喚いて――。
先生、もっと顔を歪めて――。
先生、もっと痛みを感じて――。
先生、もっと僕の愛を感じて――。
真正面から彼の顔に狙いを定めて殴る。拳が顔面にめり込み、骨が折れた軽い音がした。鼻骨が折れたみたいだった。暫くすると濃い血がたらりと鼻から伝い落ちた。白い布団が赤黒い血に染まりゆく。その様子を、僕はうっとりと眺めていた。彼はその血を拭い取り、僕の頬に擦りつけた。体温を残したままの血。鉄の臭い。彼の匂い。その血が総て乾き切るまで、僕等は交わった。
怪我の処置は、一通りのことが終わってから行う。救急箱を持ってきて僕が治療を施すのだが、酷い痕は目を逸らしたくなる。消毒する時に彼は顔を顰めるのだが、その顔を見てもただ罪悪感に苛まれるだけであった。あゝ僕はなんてことを……毎度そう思うのだがやめられない。ある種の中毒性を持った行為なのだと知った。
朝、先生はいつも、夜のことがなかったかのように振る舞う。彼は作家、僕は書生。身分を弁え、僕も彼に忠実になる。だが、夜の爪痕はそう簡単には元通りにならない。着物の裾から覗く痣。土色に変色した皮膚。血の固まり切っていない傷痕。何もかもが生々しく、夜のことは現のうちにあったことなのだと実感する。
「怪我は痛みませんか」
と恐る恐る聞くと、彼は豪快に笑って言った。
「何、大丈夫だ。少し痛むくらいが眠気覚ましになって良い。それに君のお陰で最近原稿が瞬く間に仕上がるのだ。自分でも納得のいく描写ができている。より正しい描き方ができているような気がするのだよ」
ひとえに君のお陰だ、と彼は優しく言ってくれた。
もうやめましょう、こんなこと――何度も言いかけたその言葉を、また呑み込んだ。僕は愚かな人間である。先生のために心を鬼にして、なんて綺麗事を言うつもりはない。僕自身が、暴力に心酔してしまったのである。先生をいたぶりたいという加虐嗜好、僕の心のうちにあった、自分でも知らずにいた歪んだ感情、それを、彼が呼び覚ましたのだ。好きなものを、恋い焦がれているものを、自分の手で壊す。その衝動。その感触。僕はすっかり、その虜になってしまったのである。彼も恐らく、僕とは反対であるものの、歪な性愛の虜になってしまったのであろう。
あゝなんて素敵な、恐ろしき泥沼。
しかし、もう総てが手遅れだった。
気づけば、僕等は底無し沼に足を取られていた。
衝動に身を委ね、ゆけるところまで進んでしまっていたのである。
【続】
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