泥沼

見咲影弥

 「ぼくを殴ってはくれまいか」


あまりにも突飛な申し出に僕は驚き動揺を隠せなかった。危うく折角淹れてきた紅茶を溢しそうになる。どうぞ、と大波の立った紅茶を先生の作業机に置いて、何事もなかったかのように下がろうとしたのだが、先生に腕を掴まれ強引に引き止められた。


「まだ何か御用が」


「ぼくを殴れ」


今度は命令口調で、僕の目を真っ直ぐ見て、彼は言う。はぁ、と思わず溜息が出た。書生の僕が、雇い主である先生を殴る――何とも気の進まない話である。だが、仕方ないのだ。これも書生の役目である。もとより、作家である先生に憧れ、先生の元で働きたい、先生のためならどんなことでもするんだと意気込んで書生になった身である。先生を全力で支え、己の身やら心やらを総て差し出す覚悟はできている。


 先生が今執筆に苦戦している、所謂スランプに陥っているというのは薄々感じ取っていた。筆を執っては投げ出し、原稿用紙を丸めて床に捨てる。その繰り返し。親指の爪を割れるまで噛み、五分刈りの頭を激しく引っ掻く。彼の癖はより過激になっていた。夜中も起きて作業をしていて、障子越しに丸くなった後ろ姿が見えることがあった。しかし、朝方先生が散歩をなさっているうちに片付けのため書斎に伺うと、原稿は全然進んでいなかった。机の上に置かれた一枚にも大きくバッテンが入って皺が寄っていた。どうやら相当思い詰めているようだった。


 ぼくを殴れ――とうとう先生がおかしくなってしまったのかと思ったが、それは僕の杞憂だった。というか、そもそも先生はおかしかった。頭のネジが何本か外れていた。


「ぼくは、今行き詰まっているんだ。担当編集からとある雑誌の連載を始めないかって持ちかけられてね。成年向け雑誌だから基本好きなものを描けると言われて、ずっと温めていた構想で書こうと考えた。暴力的な場面をふんだんに描写して、飛び切り血腥い小説を書こうと思っていたのだがね、そこで誤算が生じた。ぼくは暴力描写というのが極端に苦手だったのだよ。書き始めて気づいた。誰かを殴るとか蹴るとか、血が流れるとか、痛いこと全般、そういうのを上手に書けない」


酷く薄っぺらい感想になっちまうのさ、と彼は彼は肩を竦めて言う。


「作家たるもの、経験したことのないことをさも経験したことがあるかのように描くことができねばならん、昔のぼくは君にそんな講釈を垂れたこともあったと思うが、今のぼくがそれを否定しよう。経験してこそ、得る知見がある。身をもって学ぶことも、時には重要だ」


特に痛みとかね、と彼は続ける。


「痛みなんて、実際感じないと分からないことだらけだ。どれくらい痺れるとか、どのように感じるとか。小手先で描けるものではない。ぼくは、より現実味のある表現を追求したい。こういう場合、医学的な知識を取り入れるのが最善手なのだろうが、やはり実際味わう方がてっとり早いと思うのだよ。そこでだ。君に頼みたいんだ。ぼくを殴ってくれ」


ぼくをいたぶってくれ、と真面目な顔で言われるもんだから、断るわけにもいかない。少し戸惑いを見せてから、承知しました、と小さい声で言うと、そうかそうか、と先生は大層嬉しそうにした。


「じゃあ早速頼みたいのだが」


彼は肘掛け椅子から立ち上がって背筋をすっと伸ばした。彼は僕と同じくらいの背丈なので、殴りやすいには殴りやすい。


「えっと……どんなふうに、殴ったらいいんでしょう」


「頬を殴れ。横から拳で。本気で、思いっきり、いってくれて構わん」


彼は歯を食いしばって、腕を組んで待っている。目をかっ開いてこちらを凝視しているので、非常にやりづらい。殴る前から罪悪感に駆られる。


「おい、早く」


僕がもたもたしているので痺れを切らしたのか彼が急かした。僕も覚悟を決め、拳を固く握り締めた。たとえば――恋人を奪った憎い奴を殴るとしたら、どんなふうに、殴るのか。想像してみると、力が入った。腕を引いてタメをつくって、拳を勢いよく彼の頬めがけて――。



鈍い音が響いた。



先生は次の瞬間には床に手をついて倒れていた。


「大丈夫ですか、先生!」

としゃがみ込むと、彼はゆっくり立ち上がって、大丈夫だ、と言った。彼は苦痛に顔を歪めていた。片頬が次第に赤みを増してゆくのが見て取れた。


「ありがとう、良い一発だった。お陰でいい描写ができそうだ。それに頭も冴えた」


そう言ってぎこちなく微笑む。その唇の端から血が滲んでいた。


「先生、血が」

とハンケチを差し出すと、彼は不敵な笑みを浮かべ、舌で器用に拭い取って告げた。


「君、冷やすものを持ってきてくれるかい」


 台所で氷嚢を拵えて書斎に戻ったところ、彼は既に執筆を再開していた。万年筆が恐ろしい速さで進んでいる。彼の作戦はうまくいったみたいだった。


 夕飯が出来上がったので書斎に呼びに行った。先生は晴れやかな顔で出てきた。


「面白いぐらいに調子が良くなったんだ。いやはや、本当に助かったよ」


それはよかった、と僕は彼の先を歩きながら言った。すると、彼は、ねえ君、と僕に呼びかけた。


「今度、また、ぼくの馬鹿げたお願いに付き合ってくれるかい」

振り返ると直ぐ後ろに彼の顔があった。


「ぼくはもっと、痛みを知りたいんだ」


そう告げた彼はどういうわけか笑っていた。非常に愉快だと言わんばかりに。つい先程受けたばかりの痛み――彼の頬の赤みはとうに引いていたが、唇の端には乾いた血がこびり付いていた。


「先生、血が」

話を逸らすように彼に告げた。先程と同じように舌で拭うのかと思いきや、彼は笑ったまま僕を見ていた。あゝそういうことなのかと僕は察した。彼に一歩近づき、肩を持って顔を寄せる。彼の唇の端を舌でなぞった。次第に舌と舌が交わり、縺れる。丁度いい雰囲気になり始めたところで、彼が僕をそっと引き離した。それから彼は耳元で囁く。


「続きは、夜にしようか」


【続】





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