トリあえず

津多 時ロウ

トリあえず

「とりあえずビール」


 金曜日の仕事帰り。

 たまには外食をするのも悪くないかと、以前から気になっていた居酒屋の暖簾をくぐり、促されるままカウンター席に座って、ビールから頼む。

 店内は木を基調とした昭和のデザインで統一され、至る所に手書き風の短冊状のメニューが貼り付けられていた。


「はいよ、おまち」


 鉢巻きを締めた中太りの大将が愛想のいい顔で出したのは、コップに注がれたビールと、小さな貝が入った小鉢だった。

 先ずはコップの中身を半分ほど喉に通し、シュワシュワとした刺激で、これから食べ物を送りこむぞと、お腹に合図を出す。

 お次は、小鉢の中をじっくりと観察しながら箸を割り深呼吸を一つ。

 お前はいったい何者なのかと慎重に箸で摘まんで口に運べば、ぐにゃりとした食感と醤油味。その中から、鷹の爪の程よくピリリとした辛味がしみ出してきた。


 うまい。

 これは、恐らくシジミの南蛮漬けなのだろうが、軽やかなのど越しのビールと実によく合う。

 そのまま大将の目論見通りに行動するならば、ビールをもう一杯注文するところなのだが、それだけでは勿体ないような気がしてならない。


「大将、ご飯と冷ややっこを」

「あいよ!」


 このお通しだけで、白米も冷ややっこもと頼みたくなるのだから、この店は私の思った通り、〝当たり〟である。

 わざわざ予約した甲斐があったというものだ。

 残念なのは、同期の課長と二人で予約したにも関わらず、そいつが残業で遅れてしまっていることだった。

 店で待ち合わせているとはいえ、一人でこうして食べ進めるのも、罪悪感がないわけではないが、残業に巻き込まれたあいつが悪いのだ。私は決して悪くないと、シジミの南蛮漬けを乗せたご飯を口に含む。

 うむ。おいしい。


「らっしゃい!」


 そのとき、ガラガラと店の入り口が開き、誰かが入ってきた。


「お一人様? お好きなカウンター席にどうぞ」

「あ、しまさんじゃないですか! 隣、いいですか?」


 それはどうやら私の知り合いだったらしく、親し気に声を掛けてくる。

 カウンター席はまだ空きがあって、私が断る道理もない。


「いいよ」

「やった。おじさん、とりあえずビール」

「あいよ!」


 店の大将がすぐにビールと先程のお通しを出し、隣の男が「おいしそー」と声をあげた。舌なめずりの音すら聞こえてきそうである。


「あ、しまさんはこれご飯にのっけて食べているんですね。俺も同じようにしちゃおっかなー」

「うまいぞ」

「本当ですか。じゃ、真似しちゃいますね。おじさん、俺にもご飯ちょーだい」

「あいよ!」

「ところで君のいる課は、総出で残業じゃなかったのか?」

「あー、それなんですけどね、最悪、徹夜になりそうだって課長がいうんで、こっそり抜け出して来ちゃいましたよ」

「はいよ、おまち!」

「あ、おじさん、ご飯ありがとー。いっただっきまーす」


 瞬間、様々な感情が私の体を駆け巡る。

 この若者には言ってやらなければならない。

 大人げないと言われるかもしれないが、これだけは、これだけはどうしてもここで言わなければ私の気が収まらないのだ。


「君、私の名前はしまじゃない。とりだ」



『鳥、会えず』 ― 完 ―

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トリあえず 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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