第3話 クラリス②

(莉子の記憶が戻ってよかった)


 まさかそんなことを思う日が来るなんて思わなかったが、それはクラリスの素直な気持ちだった。


 前世を思い出して寂しくなったことは確かだし、なんの役にも立たないと思ったことも事実だけど、莉子の記憶のおかげでバルトと友達になれた。それだけでも感謝しかない。


 相変わらず小間使い扱いは変わらないけれど、記憶と魔法の有効活用で今までより手際よく色々片付けられるようになったから、結果、時間に余裕もできた。

 少し前なら夜更けにようやく疲れて眠るような毎日だったのに、今は体力にも気持ちにも余裕ができたうえ、仕事終わりにお楽しみができた。

 時間が許す限り、バルトが会いに来てくれるようになったのだ。


「やあ、クラリス。途中の屋台で揚げ菓子を買ったんだ。一緒に食べないか?」


 そんな気軽さで来てくれるバルトと、他愛もない話をして笑いあう。ただそれだけなのに、一日の終わりが満ち足りた気持ちになった。


 莉子の記憶のおかげで、自分を客観視できるようになったのも大きいだろう。

 前世の自分は今のクラリスよりも大人の女性だ。そんな大人の目で今の自分を見てしまうと、「若いのにもったいないわね!」、ということになってしまうのが面白い。


『いいわねえ、十代。でもね、お肌も髪も、今のうちに手入れをしっかりするべきなのよ? 髪だってこうしたほうが似合うし絶対可愛いわ!』


 そんな莉子の幼馴染である百花の声まで聞こえてきて、できる範囲で美容にも気をつけるようになった。


(百花たちも転生してくれてたらよかったのに……)


 彼女らがまるですぐ側にいるみたいなのに本当はいなくて、懐かしくて少し寂しくて、でも心の支えになる。

 そんな不思議な感じはきっと、今のクラリスにいい影響を与えているのだろう。ある日、父が何か考え込んだような顔をし、クラリスにも家庭教師をつけてくれたのだ。


(妹の先生がついでに教えてくれるだけだけどね。それでも奇跡だわ)


 令嬢としての礼儀作法しか躾けられていないクラリスだから、十七歳から突然地理や歴史、はては詩や物語などの教育を突然されても、本来ついていけるはずもない。

 妹のジェルメーヌや義母が強く反対しなかったのも、もの知らずのクラリスを笑う気満々だったからだろう。


 しかし、クラリスだって実母が生きていたころに基本的な文字は教わっていたし、時間が許す限り読書もしている。しかも日本で教育を受けた記憶はすっごく役に立った。つまり、教師から習うことにも自ら学ぶことにも慣れているのだ。


 黙って授業を受けることや、分からないことを質問する。

 それは莉子の記憶を持つクラリスには普通だったことだけど、やる気がない妹を教えていた家庭教師には新鮮だったらしい。


「今までどなたかに師事されてたのでは? とても教え甲斐があるお嬢様です!」

 と感心されたそうで、意外な娘の優秀さに父は鼻が高かったらしい。


 ジェルメーヌと義母からは射殺しそうな目で見られたが、全く気にならなかった。今まで得られなかった学ぶ機会が嬉しくて、新しい知識を得ることが面白くてたまらなかったのだ。


 大げさかもしれないが、やっと「人」になれたような、そんな気がした。



 バルトのお供で来てくれるガスパーが、マルゴのことを好きなのだと気づいたときには、クラリスが経験したことがないはずの学生時代に戻ったみたいでワクワクした。


(だって、絶対二人はお似合いだもの)


 いまのところ大事な乳姉妹は彼に塩対応しかしていないけれど、生まれたときからの付き合いであるクラリスは、それがただのツンデレであることに気づいている。今はツンばかりだけど、彼女がデレる日はそう遠くないと思うのだ。楽しみすぎる。


(そのきっかけをくれたのも、結局はバルトさんだものね)


 もともとバルトとは罰ゲームの求婚から始まった関係だったから、本音を言えばあの場限りで終わりになってもおかしくないと覚悟はしていた。クラリスとは十一も年が離れているのだ。大人の対応で、にこやかに別れておしまいになっても全然不思議ではない。


 でも友達なら――?

 時々お使いで街に出る時に、彼とすれ違うことができればいい。挨拶を交わして、あわよくば、ちょっぴりおしゃべりだってできるかもしれない。

 そんなささやかな願いを持ったものの、今のクラリスにとっては高望みだったかもしれないと、寝る前にちょっぴり落ち込んだ。


 なのにバルトは本当に、クラリスを大切な友達であるかのように接してくれるようになった。

 もちろん、彼にとっては些細な暇つぶし程度のことだろう。


 それでもクラリスの空虚な世界に色がついた。とても嬉しかった。



 正直なところ、クラリスにとって初めの頃のバルトは、前世でいうところの「推し」だったのだと思う。

 最初はルックスが好みすぎて、彼の姿を思い出すだけで頬が緩んで仕方なかった。声も大好きで、名前を呼ばれると嬉しくて幸せでたまらなかった。


 男らしくて、でもクラリスと年齢に差があるからか、すごく紳士的に距離を保ってくれる人。


 クラリスを令嬢に憧れる女の子だと思ったのか、いつも挨拶に手の甲のキスをしてくれた。それは貴族の令嬢が受けるごく当たり前の尊敬の印でしかないけれど、莉子の意識が、あまりにも馴染みのない習慣に照れてしまったっけ。


 柔らかな声で「またね」とか、「おやすみ」と言われるのが好き。

 頬にお休みのキスをしてくれるようになったときは、照れよりも嬉しさのほうが上回ってしまい、お返しに背伸びをして彼の頬にチュッとしてしまった。


(まさかあんなに照れられるとは思わなかったけど。……バルトさん、可愛かったな)


 おやすみのキスは、マルゴや彼女の母である乳母にだってする。でも男性にするのは、幼いころ父にしたのが最後だった。だからちょっと照れちゃうくらいの気持ちでいたのに、首まで真っ赤になってしまったバルトの顔に、再度ノックアウトされてしまった莉子……もといクラリスは、かなりちょろい女なのかもしれない。


(でもでも、男らしい男性のあんな顔、絶対反則だもの)



 街で偶然ほかの団員たちに遭遇したときは、「団長の求婚を断った噂の女の子だ!」とやたらウケていたが、そんな彼らにすんなり受け入れられたうえ、和気あいあいとバルトの色々な話が聞けるようになって楽しい。


(顔を真っ赤にして「散れ!」ってみんなに言ってるバルトさん、おかしかったなぁ)


 好みの権化のような彼は、知れば知るほど素敵な人だった。好きにならないはずがない。好きで好きで大好きで、でもこれは、けっして恋ではない。そんな存在。


 いや。本気で恋をしてはいけないと、自分の心を常に戒めるようにしていた。



 クラリスは、生まれと立場だけなら伯爵令嬢だ。


『クラリス。いいこと? おまえはいずれ、家のために嫁ぐ義務があるの。義務よ、義務。わかっているわね?』


 それは子供のころから何度も継母から言われていたことだ。

 礼儀作法だけは実の母が生きていたころのように叩き込まれているのは、その将来のためだと、常に口うるさく言われてきた。本当はクラリスになんてお金をかけたくないのにと、実際言われたことだって何度もある。


 ならばいっそのこと縁を切って、ただの平民にしてくれたらいいのにと、何度そう思ったか分からない。

 けれど死んだ母はクラリスに、「エーテ家の娘である誇りを忘れてはいけない」と言っていた。もしクラリスがこの家から逃げてしまったら、大好きだった母のことも思い出してはいけない気持ちになってしまうだろう。


 だから唯々諾々とすべてを受け入れてきた。

 何でもないふりをしていた。


 でも前世を思い出したことで、はじめてクラリスの心を縛っていた何かが緩んだような気がした。

 初めに感じた寂しさが徐々に薄れたきっかけは、きっとバルトだ。


 推しのパワーってすごいのだと、自分に言い聞かせて笑っていた。

 始めはそれが真実だったはず。


 いつからだろう。

 息もできないくらい、胸がぎゅーっと痛くなるのは気のせいだ。

 会いたくて会いたくて、ずっと側にいたくてたまらないなんて。

 彼に微笑みを向けられただけで涙が出そうになるなんて。

 そんなこと絶対、あってはいけないことでしょう。


(好きだけど好きじゃない。彼に恋なんてしてない。大丈夫、好きになんてなってない。――まだ好きじゃない……)


 本気で好きになってしまったら辛くなるだけだと知っている。

 ただの騎士であるバルトを困らせることなんて、絶対してはいけないって分かってる。

 身分が違う。立場が違う。


(だから恋に恋するだけ。その夢は十分叶えてもらった)


 わかっているのに、日に日に想いが募っていく。


 バルトに笑ってほしい。いつだって喜ばせたい。

 

 そんな気持ちを覆い隠し、クラリスは大きな仕事で長く街を離れるというバルトを見送った。ちょっと雑談をした程度の軽さだったから、いつもより長く会えないのはさみしいなと思っただけだった。


(疲れて帰ってくるだろうし、次会うときは、彼が好きな焼き菓子を作るとかどうかしら)


 長くても数年だけの夢だと分かっていても、もう少し時間はあると思っていた。


 こんな風に突然終りが来るなんて、思ってもみなかったのだ。


   ◆


 ――魔獣討伐に向かった騎士団に負傷者多数。


 領主である父への報告を偶然耳にしてしまったクラリスは、世界が音を立てて崩れていくような気がした。

 なかでも団長であるバルトが重傷を負い、一時は生死をさまよったという。


 あまりのショックに気を失いそうになったが、それに対する父の返事は「そうか」の一言で、くわしい事が分からない。娘であっても父親の執務室に押し入ることなどできるはずもなく、かといって、あとで父に聞いても答えてはもらえないだろう。

 クラリスは何か情報を得ることができないか奔走した。


「一命はとりとめたんだよ」


 ようやく顔見知りの騎士に話を聞くことができたのは、あれから三日もたってからだった。


「団長の近くに運よく治癒士がいてね。出血は多かったけど無事だ」

「そう、ですか」


 へなへなと座り込み、安堵に息を吐く。

 他の騎士に、あやうく腕がもげるところだったのだと軽口を言われ、再び血の気が引いたが、件の治癒士は相当優秀だったらしく、傷が少し残るだけだと言われホッとした。


「クラリスちゃん、心配してくれてありがとね。団長丈夫だけど、さすがに今回は回復には時間がかかるらしくてさ、まだ戻れないんだ」

「いえ、教えてくれてありがとうございます」


 できることならば見舞いたいけれど、バルトの療養先は遠い。行動範囲が限られているクラリスが行けるところではなかった。

 いや。例え行けたところで、面会が家族に限定されていると知ってしまえば、ただの友人であるクラリスにはなんの資格もない。


 ただひたすら彼の回復を祈ることしかできなくて、それが歯がゆくて悲しかった。


「求婚されたとき、頷いてしまえばよかった」


 冗談だったと笑い飛ばされることは明白だけど、しつこく婚約者だと言い張っていれば、彼のもとに飛んで行けたかもしれない。

 伯爵令嬢なんてなんの役にも立たない肩書は、さっさと捨ててしまえばよかったのだ。


「でもお嬢様は捨てられなかったですよね」


 ただ一人愚痴を聞いてくれるマルゴが、泣きそうな顔でクラリスの手を握る。


 誰よりもクラリスの立場を、気持ちを、考えを理解してくれる彼女は、クラリスが感情のままに行動できないことも、大事な人に迷惑をかけることもできないと知っていた。


 クラリスが立場を捨てようとしても、責められ、責任を取らされるのは、クラリス以外の人間だ。騎士という仕事に誇りを持っているバルトから、それを奪うような真似など絶対にできるはずがない。


「でも、一目だけでいい。会いたい……。バルトさん……」


 側にいられなくてもいい。遠くからでもいい。無事な姿をこの目で見たかった。


  ◆


 秋が深まり、冬が訪れる。

 バルトの代わりに、焔騎士団には新しい団長が就任した。


 親しくなれたと思っていた騎士たちとは自然と疎遠になったが、唯一ガスパーを通してのみ、マルゴ経由でバルトの様子を知ることが出来た。


「そう。バルトさん、サキュラに行ったの……」


 サキュラは、エーテ領をはじめとする十七の小領地を束ねる大領地の都だ。騎士を引退したバルトはここには戻らず、サキュラで働くことになったらしい。


 別れの挨拶くらいしたかったとも思うが、日本のように庶民が気楽に使える連絡手段は手紙だけだ。それでも裕福な庶民であれば旅行の機会もあるだろうが、クラリスにも騎士であるバルトにも、そんな自由はない。


「バルトさん、まだ利き手が不自由らしいです」


 そう言って、マルゴが預かってきたという手紙を差し出した。


 ――――心配かけてごめん。絶対に会いに行く。バルト――――


 苦労して書いたような筆跡に涙があふれた。

 おそらくもう会えない。分かっているのに、会いに行くと言ってくれたバルトの優しさに心が震えた。一枚の紙切れに彼のぬくもりが宿っているような気がして、そっと胸に抱きしめる。


(会いたいです、バルトさん……)


 会いたい。あなたの声を聴きたい。


(でも、あなたが生きていてくれただけで充分)


 バルトが大怪我を負ったと知った時の恐怖は、二度と味わいたくない。無事生きてくれていれば、それだけでいい。


 返事を預かってくれるというので、短い手紙を託した。

 騎士団経由で届けるにしても、彼に届くのはきっとずっと先のことだろう。届かない可能性もある。それでもよかった。


 彼との思い出は、心の奥に大切にしまっておこう。

 消せない気持ちも見ないふりをしていけば、きっといつか思い出になるはずだから。


  ◆


 冬が過ぎ、再び春が訪れようとしていた。

 エーテ伯邸では、大領地領主であるリベラ侯爵一行が訪れるということで、その準備に大わらわだ。定期的な訪問があるとはいえ、今回は抜き打ちのような形で予想外の訪問だったのだ。


「連絡が来たのが二日前だぞ。準備に三日しかないとは何事だ」


 父は憤慨していたが、継母が意味深ににっこりと笑った。


「ジェルメーヌを見に来るんじゃないのかしら。リベラ侯爵の末のご子息は、たしかジェルメーヌと同い年ですもの」


 婚約者探しか! と納得したらしい父が張り切りだし、使用人たちを仕切りだす。もちろんクラリスも使用人に交じって準備に奔走した。


 今回は継母の言いつけで、クラリスが客人の前に出ることはない。

 ジェルメーヌだけを見せたい彼女にとって、秋から一気に大人の色気をまとったクラリスは娘の引き立て役にもならず邪魔だと、不快な顔を隠すことがなくなった。

 クラリスとしても裏方のほうが気楽なので、黙って従っている。


(もしかしたら従者の中にバルトさんがいるかもしれないし)


 リベラ侯爵の私設騎士団は、王の近衛騎士団と肩を並べるほど優秀だという。バルトならそこにいてもおかしくないと思うのだ。


 あの手紙以降、バルトの近況はわからない。あえて知ろうとすることもやめたから。

 そうやって彼を忘れようと努力しているが、どうやっても消せない気持ちは仕方がないとあきらめることにした。恋から愛に変わってしまった想いは強すぎるけれど、それでもいつか、時間が解決してくれるだろうことを知っている。


クラリスにとっては初恋だけど、莉子は何度も恋を経験したもの)


 でも莉子と違ってクラリスに次の恋はない。

 次に上がるのは政略結婚の話だろう。すでにいくつか縁談が来ていて、父が条件のいい相手を吟味しているのには気づいていた。


(初婚の若い男じゃなくて、どこぞのおじいちゃんの後妻がいいって思ってるのよね。ジェルメーヌが玉の輿に乗ったらまた変わるかもしれないけれど)


 でもそんなことどうでもいい。

 今は客人の中にバルトがいるかどうかだけが大事だった。


   ◆


 翌日。

 侯爵の訪問は奇妙だった。


 歓迎ムードのエーテ伯爵と妻子を一瞥したリベラ侯爵は、あごをなでた後不思議そうな顔をした。


「エーテ伯代理」


 重々しい声と呼びかけられた名に、エーテ伯であるはずの父がびくりと肩を揺らす。お仕着せをまとい、使用人らの後ろで下級メイドのようにして立っていたクラリスは、それを不思議な思いで見た。


(代理? お父様は伯爵ではなかったの?)


 意味が分からずクラリスがひそかに首をかしげていると、侯爵が「エーテ伯爵令嬢はどこにいる?」と父に尋ねた。父の横にドレスアップしたジェルメーヌがいるにもかかわらずにだ。


「あの、侯爵様。娘でしたらここに」


 遠目でも青くなっている父に気づいていないのか、継母がジェルメーヌの肩を抱いて一歩前に押し出した。

 そう。ここで伯爵令嬢と言えば、昨年社交界デビューを果たした彼女に他ならないのだ。間違ってもクラリスのことではない。

 なのに侯爵は面白そうに声をあげて笑った。


「それはおまえの娘だろう。わたしは、本物の、伯 爵 令 嬢 が、どこにいるのかと聞いているのだ」


 獰猛な獣のような目に射竦められ、継母と妹が「ひっ」と息をのむ音が聞こえた。


(私を探しているの? え、どうして?)


 戸惑いながらも使用人のふりをしていると、父がこっそり睨んできたから、こくりと息をのむ。しかし、ジェルメーヌを冷たく一瞥した後、ぐるりと見まわす侯爵とばっちり目が合ってしまったクラリスは、あわてて顔を伏せた。なぜ自分が呼ばれたのかは分からないが、返事をしたら父たちから叱責されるのは間違いない。


(私はメイド。メイドです!)


 ここで邪魔をしたら確実に折檻される。政略結婚の相手も決まっていない今なら、どれほど傷つけても構わないと、昔のように継母が張り切って鞭をもってくるかもしれない。

 昔打たれた手の甲やふくらはぎを思い出し、ぎゅっと目を閉じた。

 継母はクラリスだけではなく、両親を亡くしたマルゴのことも毎回巻き込むのだ。


(あの子、せっかくガスパーに求婚されたんだもの。マルゴのことは絶対守ってみせる)


 マルゴの幸せはクラリスの幸せでもある。ガスパーはマルゴに求婚する前に、クラリスの了承も取りに来てくれた。口の堅いマルゴが秘密を打ち明けたのだ。

 マルゴのことを大事に思ってくれているのはもちろん、彼女が大切にしてくれるクラリスも尊重してくれる。そんな相手になら、喜んで嫁に出すわ! なんて、母親気分で涙を流したばかりなのだ。


(絶対、傷つけさせない)


 使用人たちも息を殺し、どうすべきか分からずにいるのを感じていると、侯爵が不快気に鼻を鳴らした。


「バルト。ご令嬢をここへ」

「はっ」


 その短い会話に、クラリスの胸にさざ波のような震えが走った。

 バルトがここにいる。会いたくてたまらなかった人が、すぐそばに!


(でもだめ。見つけないで)


 俯きながらそっと後退りしたが、迷いなくこちらにやってくる足が見えて息をのんだ。


「クラリス」


 囁くような小さな声。その予想外にも甘い声に、クラリスは自分の意思に反して顔を上げてしまった。


(バルトさん)


 きれいに髭を剃って見慣れない騎士服をまとったバルトは、息をのむほどかっこよかった。

 どこも痛そうにはしていない。

 むしろ前よりたくましくなった気がする。

 そして、もっともっとずっと、かっこよくなってる気がする。


(ああ、バルトさんだ)


 彼の目の温かさにホッとした。

 彼はすべて知っているのだと直感が訴えた。


 ぎゅっと握っていた手を開き、少し寂しい気持ちで差し出された彼の手を取る。

 そのままバルトのエスコートで侯爵の前まで行くと、バルトが「クラリス嬢」ですと言い、クラリスはお仕着せのスカートをつまみ、丁寧に礼をした。


「このような姿で申し訳なく存じます。クラリス・エーテです」


 その挨拶に侯爵は、クラリスの全身を見て懐かしそうに目を細めた。

 

「ふむ。ミレーヌによく似てる。クラリス、おじさんを覚えているかい?」


 気さくに声をかけられ、クラリスは慌てて記憶をさぐったが、侯爵が前回訪問した時は母が生きていたころで、クラリスも幼かった。

 逡巡したあと正直に謝ると、侯爵は気を悪くすることもなくにっこりと笑った。


「いや。顔を忘れられるほど長く訪れなかったせいだ。わるかったね」


 親戚のような気さくさに戸惑ったクラリスは、その後の展開にただ驚き、瞬きを繰り返した。

 突然父が捕縛されたのだ。


「エーテ伯爵代理。任務不履行につき、その任を解く」


  ◆


 クラリスの父は伯爵ではなかった。

 前伯爵はクラリスの母ミレーヌであり、ミレーヌ亡き後は、彼女の血を引くクラリスが後継者だったのだ。

 しかしクラリスが子供だったため法に則り、父が伯爵代理となった。


「つまりどう転んでも、クラリス嬢の妹は後継者にはなりえないわけだよ」


 馬鹿にしたように妹という単語を吐き出した侯爵は、ジェルメーヌが父の本当の子だと気づいているのかもしれない。


 父が爵位を持っているのだと信じていたから、微塵も疑ったことがなかった。昔から仕えてくれていた使用人がいないのは、このことがクラリスに知られないようにするためだったのだろう。


 もともと父はエーテ家の遠い親戚筋で、最初は執事見習いとしてエーテ家にきたらしい。

 しかし、まじめに働く父に目をかけた祖父が亡くなる前に、娘婿にと結婚を勧めたのだそうだ。手に入るはずのなかった爵位を前にして、父に悪魔が囁いたのかもしれないが、もともと母を裏切っていたのだ。同情の余地はない。


 継母はともかく、何も知らなかった妹は真っ青になって支離滅裂なことを叫んでいたけれど、平民に戻ったらこれまでのような贅沢も、狙っていた貴族との結婚もすべてなくなってしまうのが嫌だったのだろうことは分かる。

 馬鹿にしていた姉が令嬢だなんて認めないと言っていたが、クラリス自身、まだ現実味がないのだ。


「でも、どうして急にこんな……」


 父はうまくやってきたのだと思う。なのに突然バレた理由がわからず首をかしげると、そのきっかけはバルトなのだと教えてもらった。



 バルトははじめ、クラリスが伯爵令嬢だとは知らなかった。

 偶然事実を知った時は驚いたが、冷静に考えると色々おかしなことに気づいたのだそうだ。

 令嬢にもかかわらず家事などに慣れ、手が荒れていること。粗末な服は変装のためと言うには妙になじんでいたと言われ、クラリスの頬が熱くなった。


「クラリス。あなたが跡継ぎである令嬢なら、俺が側にいてはいけないと思ったんだ……」


 しかし色々調べてみると、おかしなことがボロボロ出てきた。


 話を聞いたエーテ領の古参騎士はエーテ伯について事情を知っていたが、クラリスが虐待されている事実は知らなかったらしい。


 クラリスの父は事実を織り込んだ嘘を重ね、すべてをあいまいにしていたらしい。クラリスを政略結婚させようとしてたのも、病弱だったゆえに世間知らずで我儘なクラリスが、勝手にしたことにしようとしてたらしいのだ。教養が高くなったことで、売り込み方法を変える作戦に変えたが、場合によっては駆け落ちをしたとして、ひそかに殺されていた可能性もあった。実際その準備をしていた痕跡も見つかったという。

 叩けば出てくる埃が多すぎて、父が生きて外に出てくることは二度とないらしい。


「私は、そんなに憎まれていたのですか……」


 ただ嫌われていたならわかる。

 でも殺されかけてたなんて想像もしたことがなかったクラリスは、母親の死にも不審な点が見つかったと聞いて強く目を閉じた。

 クラリスは母親の生き写しともいえるほどそっくりなのだ。


 のちに、父たちは母のことがただ邪魔だったこと、彼女の死後も母親に似てくるクラリスが恐ろしくなったのだと知った。

 くだらなくて悲しかった。


   ◆


 正式にエーテ伯になったクラリスは、侯爵の甥の力を借りて、少しずつ領地を運営していくことになった。多少なりとも社会人経験の記憶があってよかったと思う。


「バルトさん、こっちの資料についてなんですけど」


 そう。

 バルトはリベラ侯爵の弟の子で、れっきとした伯爵令息だった。

 もともと跡継ぎとしての教育も受けていたため、領地経営についても頼りになるのだが、執務室のバルトは大人すぎて、一歩引いた態度を崩さず、知らない人のようにも思えて寂しかった。


(助けてもらっているのに贅沢よね)


 それでも好きな人が元気で側にいる。

 期間限定であっても、気が狂いそうなほど好きな気持ちを懸命に抑え込んでいても、かけがえのない日々であることには間違いなかった。




 仕事三昧の日々が過ぎ、ようやくいろいろなことに慣れてきたころ、クラリスはもうすぐ二十歳になろうとしていた。

 バルトも落ち着いたのか、最近では以前のように世間話などをすることも多くなっている。さすがにキスはないけれど、穏やかで楽しい時間は増えた。


(前みたいに友達になってくれるのかな)


 とはいえ、バルトも三十を過ぎた。いつまでもここにいてくれることはないだろうし、結婚の話が出ているということも小耳にはさんだ。


(マルゴも結婚して子供も生まれるし、バルトさんも幸せになってもらわないとね)


 今のクラリスがいるのは間違いなく彼のおかげで、大事な恩人だ。


 だから、最近彼が落ち着かなげにソワソワしているのも、こっそりポケットに指輪の小箱を潜ませているのを知っても、泣きたいくらい苦しかったけれど、心から応援した。彼に求婚される女性のことが心の底から羨ましかったけど、同時に幸せになってほしいと強く思う。

 彼にはその価値があるから。


 クラリス自身は一生独身でもいいと思い始めていたし、いずれ養子をとって跡継ぎにするのもいいだろう。法律にちゃんと照らし合わせれば、きちんと道はあるのだ。


(お父様にだって、望みをかなえる方法はちゃんとあったのよ。私は後を継ぎたかったわけじゃないんだもの。お父様がきちんと勉強して、私ともちゃんと話をすれば、とても平和に解決したんだわ)


 法律に照らし合わせてその方法を見つけたとき、クラリスの中に湧いたのは猛烈なさみしさだった。


 その父は、去年牢獄で亡くなった。風邪をひいてから肺炎になり、驚くほどあっけなく逝ったらしい。

 継母は修道院に行き、妹はその近くの町で働いているそうだ。

 好きではなかったけど、二度と会わない人たちだ。元気に暮らして、自分たちがしたことを反省してくれたらいいと思う。



 一人になった執務室の窓から領地を眺め、クラリスは小さく息を吐いた。


「明日の準備もしなきゃなぁ」


 責任を感じているのか、年に数回様子を見に来るようになったリベラ侯爵からは、何度もいい婿を連れてきてやると言われている。いつも笑って辞退しているけれど、本気で話を持ってこられたら断れないことも分かっている。


「はあ。日本に帰りたい……」


 誰もいないことをいいことに、ポツンと弱音がこぼれた。

 莉子だったころに戻りたい。身分なんかない世界で、普通の女性として生きていたころが羨ましくて仕方がない。


(もしここが日本なら、私は会社を継いだばかりの社長令嬢みたいな感じかなぁ)


 会社で不慣れな自分を助けてくれる男性に恋をして、思い切って告白をする空想をしてみた。鍛えられてがっちりした体型のバルトは、スーツ姿もきっとかっこいいだろう。

 思い切って食事に誘うとか、頑張ってアプローチして、タイミングを計って告白をするのだ。


「バルトさん、好きです。――なんてね」


 頬杖をついて独り言ちると、後ろからドスンと何かを落とす音が聞こえて驚いた。振り返るとバルトが立っていて、唖然としたような顔をしている。


(うそでしょ。聞こえた? 聞こえてないよね?)


 囁きより少し大きい程度の声だ。絶対聞こえてないことを祈り、なんでもない顔で笑顔を作る。しかしそんなクラリスの前でバルトは片手で顔を覆い、長い溜息をついた。


(ああ、呆れられちゃった)


 聞こえていたのだと分かり羞恥で全身が熱くなるけれど、ここは頑張って、空耳ですよ作戦にしようと決意した。絶対相手にされない人に聞かれるなんて、さすがに恥ずかしすぎる。


 やがて気を取り直したように何度か咳払いしたバルトが、澄ました顔で執務室のドアを閉めた。窓を全開にしているにもかかわらず、心臓がドキドキしすぎて空気が薄くなった気がするけれど、クラリスはポーカーフェイスを続け、仕事をするつもりで机に向かったが――


「クラリス」

「はい?」


 椅子に座る前に肩をつかまれ、お仕事モードの顔で彼を見上げた。

 しかしバルトはその場で片膝をついてしまったのでギョッとする。


「えっ? バルトさん?」


 それはまるでいつかの再現のようで、クラリスは一歩後退った。


(また罰ゲーム?)


 そんな心の声が聞こえたのかバルトは少し眉を下げ、「今度は罰ゲームじゃないぞ」と、困ったように微笑んだ。


「本当は今夜する予定だったんだ」

「なに、を……」


 口の中がカラカラになり、クラリスの喉がこくりと鳴る。


(罰ゲームではないなら、本命への予行演習とか?)


 期待しそうになる心を叱責して、そんなことを考える。甘い夢はしょせん夢でしかないのだから。


 泣きそうになったクラリスの前で、バルトは束の間ためらった後再び立ち上がった。何かをやめてくれたのだと安堵した途端、彼はクラリスをひょいと横抱きにして窓際にあるソファにそのまま腰を下ろしてしまった。


 バルトの膝でオロオロするクラリスの頬に、彼の大きな掌が触れる。覗き込むように見つめられ、クラリスは睫毛を伏せた。


「クラリス」

「…………」


 仕事中とは違う甘い声で名前を呼ばれ、涙がぽろっと零れた。


「ごめん。泣かせるつもりはなかったんだ」


 涙でぬれたクラリスの頬に、バルトが唇を当てる。

 一度、二度と優しく触れられ目を開くと、顔を上げたバルトと目が合った。その眼に浮かぶクラリスへの想いを目にし、息が止まった。


「バルト、さん」


 手を伸ばして彼の頬に手を当てると、彼が目を閉じて軽く頬ずりするように頷いた。そして目を開けたバルトがクラリスの手をつかむと、こちらを見ながらその手にキスをする。ほとばしるほどの強い色気に眩暈がする。


「クラリス。好きだよ」


 ずっとずっと夢見ていた言葉に、クラリスの目からぽろぽろと涙がこぼれた。


「ずっと好きだった。君の隣に立つにはどうしたらいいのか、たくさん考えたんだ」


 バルトには継ぐべき家があった。

 しかし彼は弟に継いでほしいという願いがあったから、家を飛び出して騎士になったという。


 本気で結婚相手を探そうと思ってた時にクラリスに出会ったこと。

 伯爵令嬢だと知って、一度は身を引こうとしたこと。

 でも死にかけたことをきっかけに、どうしても諦められないと悟り、最善の道を探したこと。それをきっかけにクラリスの父親の罪を知り、悩みながらも断罪させたこと。

 そしてクラリスと共に働き、ようやく落ち着いた今夜、求婚をするつもりでいたという。


「これ以上引き延ばすと、しびれを切らした伯父上が、本気で縁談を持ってくるだろうからね」


 おどけて肩をすくめるバルトにクスクス笑う。

 実はクラリスの気持ちがわからず、ずっと不安だったのだと打ち明けられ、愛しさでいっぱいになった。地位狙いだと思われる可能性が高く、軽蔑されるかもしれないとも考えていたらしいのだ。


「侯爵様は、結婚を認めてくれると思いますか?」


 かすかに首をかしげてそう問うと、一瞬息をのんだバルトがにっこりと笑った。


「それは、俺を君の伴侶にしてくれるという意味かな?」

「バルトさん以外となんて結婚したくありません」


 きっぱり言い切ったあと、「私だって、ずっとずーっと、愛してたんです」と打ち明けた。バルトがほかの女性に求婚するつもりなのだと思い込み、それでも祝福するつもりでいたほど、彼の幸せを願っていた。


 改めて跪いたバルトは、緊張したように固い息を吐くとクラリスに指輪を差し出した。


「クラリス、愛してる。どうか俺と結婚してくれないだろうか」


 いつかのような求婚にクラリスはにっこりと笑った。もう二度と、莉子だったころに戻りたいとは思わないだろう。


「はい。喜んで」




 そうして超絶好みだった騎士様は、最愛の旦那様になった。


Fin

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前世を思い出した瞬間、超絶好みの騎士様から求婚されましたが、とりあえず頷いてもいいかしら? 相内充希 @mituki_aiuchi

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