トリあえずトリにしておこう

沢田和早

トリあえずトリにしておこう

 男の趣味は小説だ。読むのはもちろんだが書くのも好きだ。数年前からとある小説投稿サイトを利用して自作を公開している。

 書いているのは流行りのジャンルではないので読んでもらえることはほとんどない。投稿した作品のPVには0がずらりと並んでいる。

 しかし男が好きなのは書くことであって読んでもらうことではないので、それなりに投稿ライフを満喫していた。


 最近の小説投稿サイトは投稿フォームの機能が充実しているので、自前のエディタを用意する必要もなく、SNSに書き込むような気軽さで投稿できるわけだが、男は必ず文書作成ソフトで小説を書き、パソコンに保存してからサイトに投稿していた。

 以前、直接投稿フォームに書き込んでいたら、何かの手違いで入力中の文章が全て消えてしまったことがあったからだ。どこかのクローンキャラに言われるまでもなく「大事なものには予備が必要」なのである。


「さて書くか」


 男の執筆時間は平日なら夕食後、休日は特に決まっていない。その日は平日だったので夕食を済ませた男は直ちにパソコンに向かった。


「おかしいな」


 男は首を傾げた。使っているのは十年以上愛用している文書作成ソフト。しかし思わぬ障害が発生していた。文字変換がうまくいかないのだ。


 ――彼の財布にあるのは百円玉三枚と十円玉四枚だけだった。五百円の弁当を買うには金が足りない。取りあえず百円のパンを三個買うことにした。


 男が脳内で作成した文書である。しかし実際に表示された文書はこの通りにはならなかった。「取りあえず」の部分が「トリあえず」と変換されていたのだ。


「おかしいな。『取りあえず』なんて頻繁に使っているから、いつも一発で変換してくれるのに」


 彼は「トリあえず」の五文字を消してもう一度入力、変換を実行した。同じだった。何度変換を実行しても「トリあえず」以外の文字は表示されない。


「どういうことだ」


 男は色々と試してみた。意外な事実が判明した。「取りあえず」だけではなく「取り」だけでも「トリ」と変換されてしまうのだ。「鳥」や「撮り」はもちろんのこと「とり」も「トリ」と変換される。そしてそれ以外の文字は決して表示されないし候補にも上がらない。


 ただし「白鳥」や「取材」など「とり」と読まない場合はきちんと変換される。「トリ」になるのはあくまでもその文字を「とり」と読む場合だけなのだ。


「ソフトが壊れたのかな。そうなるとオレの手には負えないぞ。まあいいや。別に『トリあえず』でもそれほど不自然じゃないし、取りあえずこのまま投稿してしまおう」


 面倒になった男は取りあえず「トリあえず」のままで小説を投稿して寝てしまった。


 翌日の夜、男は小説投稿サイトを開いた。


「ひょっとして『誤字です。トリあえずはとりあえず、あるいは取り敢えずではないでしょうか』みたいなコメントが付いていないかな」


 などと期待していたのだが、そもそもPVが0なのだからそんなコメントが付くはずもなかった。その日は投稿する予定はなかったので、ぼんやりと自分の小説や他の投稿者の小説を男は眺めていた。


「な、なんだよこれ」


 驚かざるを得なかった。すでに投稿済みの小説に書かれている「とり」「取り」「採り」「鳥」なども全て「トリ」と表示されていたのだ。それは男の小説のみならず他の投稿者の小説でも同じだった。


「つまり原因はオレの文書作成ソフトじゃないってことか」


 こうなるとますますお手上げである。取りあえず原因究明は翌日にしよう、そう考えて男は寝てしまった。


 翌日、事態はさらに悪化していた。現実の雑誌、書籍、看板、テレビの字幕なども「とり」と読める文字は全て「トリ」と表示されているのだ。


「これはもはや社会現象だ。オレが原因究明しなくても世間がやってくれるだろう」


 男はメディアがこの珍現象を大々的に報道してくれることを期待した。しかしテレビも新聞も一切触れようとしなかった。不思議に思った男はメモ用紙に「取りあえず」と書いて会社の同僚に見せてみた。もちろん書いた瞬間、「取りあえず」の文字は変換されてしまい、男には「トリあえず」という文字が見えている。


「これ、何て書いてあるかわかるかい」

「取りあえず、だろ」

「『とり』の部分はカタカタかい。それとも漢字かい」

「漢字だよ。おまえ、オレをからかっているのか」


 同僚は怪訝な面持ちで男を見た後、ディスプレイに向かって入力を始めた。男は同僚の背後からそのディスプレイを覗き込んだ。「トリ肉のトリ引の件ですが、トリあえず明日の午後三時に喫茶トリトリで……」と表示されている。もちろん同僚には正常な文書に見えているに違いない。男は確信した。


「『とり』と読む文字が『トリ』に見えているのはオレだけだったのか。こうなるとトリあえず後回しにしようなんて言っていられないな」


 そうつぶやいた男は身震いした。脳内の「取りあえず」の文字までもが「トリあえず」になっていたからだ。「トリ」が男の視覚だけでなく精神までも侵略し支配しようとしているのは明らかだった。


「ああ、トリ、トリ様、トリ様」


 数日も経たぬうちに男の頭の中は「トリ」の文字で埋め尽くされてしまった。今の男にとって「トリ」は神そのものだった。この世の全ての「とり」と読む文字を「トリ」に変えてしまう全知全能の存在。これを神と呼ばずして何と呼ぶのか。


「トリ様、あなたはどこにおられるのですか」


 男は毎晩、トリを探し求めてネットの海を彷徨っていた。その夜、男は今まで見たことのないサイトを開いた。とある小説投稿サイトだった。


「こ、これは!」


 そこに鎮座するフクロウのような不死鳥のようなキャラを見た瞬間、男は直感した。これこそが探し求めていた「トリ」だったのだと。


 ――トリあえず、サイトに登録してね。


 脳内に「トリ」の声が響いた。

「仰せのままに」

 男は嬉々としてユーザー登録を済ませた。


 ――トリあえず、サポーターズパスポート、買ってね。


「仰せのままに」

 男はデラックスを購入し、さらにギフト十個を追加購入した。


 ――トリあえず、ネクスト、加入してね。


「仰せのままに」

 男はサポパス会員セットで加入した。


 ――トリあえず、これからもボクのためにたくさん小説を書いて、どんどんお金をつかってね。


「仰せのままに」


 男は幸せだった。これが「トリ」によって仕組まれた罠とも知らず、男は幸福の絶頂にあった。

 これからも「トリ」のために時間と労力を費やして小説を投稿し、銀行口座の残高がゼロになるまで金を落とし続けよう、男はそう心に誓うのだった。











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