言葉ばかりの不用心な君へ

葎屋敷

 


 沈黙が苦手だった。


 それは初対面の人とか、友達とか、家族でもそう。誰も喋らない時間、話題を探している時間。そういうときに流れる気まずい雰囲気が大嫌いだった。

 こういうことを言うと、共感してもらえることも多い。けれど、私の場合は他の人と比べて、よりもっと、よりずっとその空気に耐え難さを感じていた。

 通勤電車みたいな、もとから喋ることが推奨されていない空間ですら、気分が停滞していくような、それでいて急き立てられるような感じがした。


 私はその焦燥感に掻き立てられるように、よく喋った。といっても、ひとりで本を読んだり、空の色模様をぼんやり眺めたり、野良猫と一緒に日向ぼっこするのが好きな、人との没交渉を極めた日々を送っている私には、面白い世間話なんてできなかった。

 なので、自然と会う回数が増える度に話す内容が薄くなり、話すことに困り、ついには身の上話や個人情報を話すのが多くなる。


「――もう話さないでください」


 だから、こう言われてしまうのも無理がなかった。



 *



 私が彼と出会ったのは、今の職場に転職してからすぐのことだった。

 電車での出勤に耐えられず、自転車で通える範囲の花屋で働くようになった。

 店長は仕事場を離れて花の配達に行くか、彼氏Aに会いに行くか、彼氏Bと遊びに行くか、彼氏Cとパチンコで勝ってくるか、彼氏Dと競馬場で負けてくるか、彼氏Eとお酒の出るレストランで昼から酒盛りするかのどれかだったので、店を空けることが多かった。他に従業員もいないから、必然、私にはひとりの時間がたくさんできた。


 なんにも喋らなくていい時間が大切で、貴重で、嬉しくて、私はこの職場が気に入っている。店長はどうしようもない人だけれど、私のことをないがしろにしてるわけじゃないと思う。残業させないようにしてくれてるし、なにより、男に振られたときもそうでないときも私以上にお喋りで、沈黙を作らない人だ。だから気に入っている。


「彼氏に振られた!」

「それは、Aさんですか、Bさんですか、Cさんですか、Dさんですか、まさかEさんですか」

「ううん、G」

「誰ですか、それ」


 本当にどうしようもない人だけれど。どうしようもない人だからこそ、彼女の話は話半分に聞いてればよくて、心地いい。どんなに聞いても私に責任が生じないところ含めて、好きだ。



 そんな店長は私以外を雇っていないから、私はおしゃべりな店長とだけコミュニケーションを取ればよくて、それだけであの苦手な雰囲気から解放されるはずだった。

 けれど、そうは問屋が卸さなかった。対人関係から逃げ続ける私を、神様はとがめて、試練を与えているのかもしれない。


 その試練というのが、エレベーターの中だった。私はそこで、ほぼ毎日同じ人と顔を合わせていた。

 ほぼ同じ時間に帰宅する私と同じように、ほぼ同時刻に帰ってくる人。その人は私より先にエレベーターの前にいることが多いけど、私がエレベーターを待ってる時に気づいたら後ろで並んでるときもある。

 私と同じ、八階に住んでる男の人で、多分私と同じ二十代くらい。


 そういう人がいたからなんだ、って思うかもしれないけど。私にとっては大事なことだった。

 だって、気まずい。私が借りてるこのマンションは、高い階層の部屋が安く借りれる、とても素敵な物件。築四十年であることと、あちこちボロボロなことと、エレベーターの速度がひどく遅いところ以外は、本当に素敵。でも、この瞬間だけはお恨み申し上げたい。

 だって、その人と一階のエレベーター前で会って、それから降りてくるエレベーターを待って、降りる回数をわかっているのに一応尋ねて、「暑いですねー」とか、「寒いですねー」って天気の話をする。視線は右斜め、階数を表示するディスプレイ一点にひたすら注目。その数字が八になったら、胸を撫で折らすように「ひらく」ボタンを押して、って。


 そんな空間が気まずくて仕方ない。


「今日も私のお店、暇で――。えっと、お花屋さんなんですけど、知ってます? 隣町の、黄色いチューリップの看板が目印で、そこに一日中いて」

「今日は、母があんこバターサンドを送ってくれたんです。知ってますか、私の地元なんですけど、その」

「今日は私ひとりでホラー映画を見ようと思ってて、あー、えっと、有名なやつです。今、ビデオ屋さんで借りてきたところで、その、ひとりだと怖いんですけど、いつもひとりで観てるし、今日もひとりで――」


 喋る内容はオチもなく、本当に日記の隅にでも書くのを躊躇うような、中身のない世間話。話し方も我ながら下手で、構成もなにもない、緩急の付け方もわかってない、しょっちゅう噛むし、しどろもどろ。それでも口が開くのを止められない。

 かといって、相手の男の人は全然喋らない。ちょっと、私の話に軽く頷いてみせるくらい。笑ったりは全然しない。

 当たり前だと思う。エレベーターの中で喋らないといけないなんて、そんなルールないんだし。


 でも、この男の人が店長くらい喋る人だったら、どれくらい楽だったかなってよく思う。思いながら、私はよく喋っていた。

 そしたら、それをとがめられた。話すなって、そう言われた。


「あの、いつもあなた、そうやって話しますけど」

「は、はいっ」

「出身地とか、年齢とか、職場とか、いつも独りでいることとか。そういうの、全部名前も知らない他人に喋るの、とても不用心だと思います」

「お、おっしゃるとおりで」

「はい。だからその――」


 男の人はちょっと視線を彷徨わせて、口を一旦閉じた。でも、チンってエレベーターが到着を知らせると、それに頭を引っ張られるみたいに顔を上げた。


「もう話さないでください」


 そして、彼はハッキリと拒絶を口にして、先にエレベーターから脱兎のごとく抜け出していった。

 取り残された私は、エレベーターが閉じるのを見守りながら、その場に立ち尽くしていた。

 言われた内容はごもっともで、迷惑をかけてしまったことへの後悔だとか、申し訳なさだとか、羞恥心が心をぎゅってした。


「消えてなくなりたい……」


 私はボタンを押してエレベーターの扉を開くと、よたよたとした足取りで自分の戸へと向かった。共用廊下にはすでに、彼の姿はなかった。



 *



 それから、私は階段を使うようになった。

 もとから体力なんてないに等しい私にとって、これは苦渋の決断だった。

 エレベーターがあるし、高い方が虫出にくいし、八階の借り部屋をここまで恨んだことなんてなかったのに。早く帰りたいのに、帰れない。息があがる。次引っ越すときは、三階くらいにしようと心に決めた。

 あの男の人のことを、エレベーター前で相変わらずよく見かけた。私は彼がこちらに気づく前に一応会釈して、そのままダッシュで階段を駆け上るようにしていた。

 あの日のことを思い出すと、うわああって叫びたくなるから、そうしないために足と腕を頑張って動かす。私が八階にたどり着くとき、ぜえぜえしてる理由のひとつだった。


 その日はいつもと同じで、エレベーター前にあの人がいた。私はいつもどおり階段を上ろうとしたけど、そのとき私は両手がふさがっていた。買い物袋とかじゃない。私が両手に持っていたのは、松葉杖だった。


 こんな姿になっている原因は店長にある。

 店長はつい先日、彼氏Bと彼氏Cに彼氏Hの存在がバレた。そして店の中で修羅場ができのだ。

 私はその修羅場をどうしようか、警察に通報しようかと迷っていた。店長は目配せして、私にバックヤードに隠れるように指示してくれたが、本当になにもしなくていいのだろうか。

 とりあえず、私は伊勢茶でも淹れながら考えようと思って、伊勢茶の缶を取り出そうとした。けれど、缶がとても高い位置に置かれていたせいで、私は小さな脚立の上で背伸びをして、そのままバランスを崩して脚立から落ちた。骨折した。

 そう、さっきのは嘘だ。全然店長のせいじゃない。


 私が人生初の骨折におののく声は店内にも響いた。響いて、店長と彼氏たちは心配してバックヤードに流れてきた。病院の待合室で店長は感謝していた。おかげで、修羅場が有耶無耶になったらしい。

 第二回戦が明日にでも起こる可能性を指摘して、私は松葉杖を突きながら病院を出た。お金がないので入院を拒絶したから明日から通院生活をしなくてはならなかった。

 ギプスでがっちがちに固めた足を引きづって帰ると、ちょうどいつもと同じくらいの時間になっていた。

 案の定、彼はエレベーター前で降りてくるそれを待っている。私はリュックが肩からずり落ちないように願いながら、いつもどおり階段を昇ろうとした。


 けれど、果敢に階段へ挑戦しようとする私の背後に、彼は声をかけた。


「あの、エレベーター使わないんですか」


 私は声をかけられたことにビックリして、慌てて振り返ろうとしたけれど、そのせいでまたバランスを崩しそうになる。

 枯葉倒れそうになる私に一瞬目を丸くして、すぐさま駆け寄ってきた。顔面からマンションの床に向かって頭突きしそうになった私を、彼は正面から支えるようにして立たせてくれた。


「す、すいません」

「いえ、こっちもいきなり声をかけて、すみませんでした。でも気になって。怪我してるんですから、エレベーター使ってください。この足で八階までは、危ないですよ」

「い、いやでも……」


 彼からの進言はごもっともで、私は言い返せない。この足で階段を昇るというのは、確かに危ないけれど、でも、エレベーターを使うということはあの気まずい空間を味わうということだ。しかも、この前のことがあったせいで、気まずさは他の人に対してよりずっと大きかった。


「気になるなら、僕が階段使いますんで」

「え! い、いやいや、そんなっ。だ、大丈夫です、乗りましょうエレベーター、一緒に! ほら、ちょうど降りてきましたよ」


 私はタイミングよく扉を開けたエレベーターを指さした。

 それは当然、松葉杖を持ったままではできない行為だった。私は片手を杖から話した状態になって、またグラグラと揺れた。体幹の脆弱さを披露する私に、彼は少し怒ったように言った。


「離さないでください!」

「め、面目ないです……」

「……わかりました。僕が補助をしますから、一緒に乗りましょう」

「え」

「足治るまで、お手伝いしますよ」


 そう言って、彼は私の先を歩いて、エレベーターのボタンを押してくれた。

 緩やかに上階へ向かう箱の中で、私は現状の説明を神様に求めたけど誰も教えてくれなかった。


「この前はすみませんでした」

「え」

「お互い黙ってるの気まずいから、話しかけてくれてたんですよね」


 彼はこちらを見ず、文字盤を見上げたまま話しかけてきた。

 初めて、この箱の中で、初めて彼の方から話しかけてきた。


「え、と、それはその、いえ、こちらこそすみませんでした。う、うるさくて、私。その、相手の人が気にしてないときも、なにも声がないと気になるから、それで勝手に喋ってただけで」

「確かに、僕はエレベーター内の沈黙とか気にならないですけど」

「う、そうですよね、はい」

「でも、うるさいのも気にならないです」


 並べられた否定二つを、私は順に頭の中でかみ砕いた。それでも彼の真意は測り損ねて、どう返事したらいいか考えてる間に、エレベーターは八階に着いてしまった。


「でも、不用心なのはよくないと思います」

「は、はい。そのとおりで」


 彼はエレベーターが閉じないように、扉の側面を手で押さえてくれている。私がその横を通り過ぎると、彼は不思議な質問をしてきた。


「いつも、自転車で通勤してらっしゃるんですよね」

「よ、よくご存知で」

「あなたが喋ったことのひとつですよ。明日から歩きですか。それともお休みですか」

「あ、歩いていきます」


 問われた意味もわからないまま、そう答えた。明日はおそらく修羅場二回戦が繰り広げられるだろうから、通報できるようにお店で携帯を握りしめてないといけない。這ってでも出勤せねば。

 店長のことを考えながら頷く私に、彼は苦笑した。


「だから、不用心なんですよ、あなた」

「は、はぁ……」

「では、お気をつけて」


 曖昧に返した返事が扉にぶつかる。目の前には扉と、私の苗字が書かれた表札。

 一礼した彼は、三つ隣の自分の家へと入っていた。



 *



 それから彼はエレベーター前で出くわして、いつも私を手伝ってくれた。毎日のように、彼はそこにいた。

 私が買い物袋を持っていたときも、家の前まで持ってくれる。ボタンも私の代わりに押してくれる。

 しかも、彼は私との会話を拒まなくなった。私が耐え切れずに喋り始めても、話さないでとか言わない。どうやら、私が喋り始めたら、自分も同じくらい喋ると決めたらしい。


「お互い不用心になれば、お互い様になるでしょう」


 って言っていた。そういう問題かなって思ったけれど、そういう問題じゃなくても別に気にならないから、私はそれ以上考えなかった。

 多分、おそらく、きっと、彼との会話が気まずい雰囲気を緩和するためのものではなく、楽しむためのものになったから気にならないのだろう。


 そして会話が楽しいのはきっと、彼が私を尊重してくれてるからだと思う。




 彼が私の帰宅時間に合わせてエレベーター前で待っていてくれると気づいたのは、松葉杖なしでも歩けるようになって初めての日だった。


「どうぞ」


 エレベーター前で差し出された手に、私は首を傾げた。すると彼はため息を吐く。


「ほら、転びそうになったら危ないでしょう」

「確かに」


 反論の余地はなく、私は彼の手を握った。それでその体温とか、肌の感触とかに頭が白くなっていると、彼が質問をしてきた。


「いつから自転車に乗れるようになるんですか」

「え、えっと、わかりません」

「そうですか。なら、わかったら教えてください」

「な、なんででしょうか」


 私の問いに、彼は見逃してしまいそうなほど少しだけ唇を尖らせた。


「だって、補助するためには、あなたが帰ってくるときに下の階にいないといけないでしょう」

「確かに」


 そう納得して、それからエレベーターが八階に到達するというときにようやく、彼が私のために帰宅の時間をずらしているか、わざわざ帰った後に下の階に降りてくてくれてるのだと悟った。

 遅すぎる理解への嫌悪よりも、そのときはぐわっと生じる浮かれた気持ちの方が強くなった。


 私は半歩だけ前に出た彼に連れられて、また自分の苗字が書かれた表札を見上げる。

 それで、今日の役目が終わったと言わんばかりに離れそうになる手を私が逃がさないように力強く握った。


「あの……?」

「え、えっと、ま、まだ話したいんです。その、だから、うんと、あの、あのあの、その、だから――」


 訝し気にこちらを見る彼の視線に耐えながら、私は一生懸命に言葉を紡いだ。心の中の店長が、ここが勝機だと言っている。


「――だからまだ、離さないでください」


 そう私が言うと、一拍遅れて、彼から手を握り返される。それは言葉でしか沈黙を破れない私に送られた、言葉以上に明瞭な返事だった。

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