明日の結婚式、俺は欠席する

凪野海里

明日の結婚式、俺は欠席する

 明日、長年片思いをしていた好きな人が結婚する。それを聞いたときはうまく言葉が見つからず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 光は俺より5つ歳が上の近所のお姉さんで、小学校の頃は登校班が同じだった。いつも前髪にはヒマワリの形をしたヘアピンをつけていて、その笑顔だけで周りの花が咲いてしまうのではないかというくらい、明るい性格をしていた。

 光は昔からとても面倒見が良かった。彼女は一人っ子で、「ずっと弟か妹が欲しかったの!」が口癖だった。俺も一人っ子で、両親がいつも仕事で忙しかったから、光には充分甘えさせてもらった。俺自身、彼女をお姉さんだと思いながら接していた部分はあったのだろう。光は俺にとって、もう1つの家族のかたちだった。

 なかでも忘れられないエピソードがある。

 実は、俺が自転車に乗れるようになったのは彼女が毎日つきっきりで見てくれたおかげだった。

 あれは俺が3年生の頃だったと思う。恥ずかしながら、俺はその頃まで自転車に乗ることができなかった。友達と遊ぶときはいつも歩いて現地に向かっていたのだ。

 だが、さすがに3年生にもなると、周りが自転車に乗れてるのに俺だけが乗れないことに恥ずかしさを覚えた。

 それを光に相談したら、「よしそれじゃあ練習しよう!」と彼女は言った。そのときすでに中学2年生である。驚いて「乗れないよ!」と怖気づく俺に、光は何の根拠もないのに「大丈夫!」と言った。


「弟の面倒を見るのは、お姉ちゃんの役目だもの!」


 まったく何の解決にもなっていないので、俺は馬鹿らしくなって笑ってしまった。でも光に練習を見てもらうのに悪い気持ちは起こらなかった。

 光は自分が小さい頃に使っていた自転車を自宅の物置から引っ張り出してきて、それを俺に与えてくれた。

 ピンク色で、ネコのキャラクターがハンドルの中央についた、なんとも女子らしい自転車は乗るのにだいぶ羞恥心をかなぐり捨てるようなものだったが、何よりも光が乗っていた自転車だ。

 光がお尻をつけていたサドルや、白く細い手で握っていたハンドルなのだ。それに触れるのはきっと後にも先にも俺しかいなかっただろう。自分のなかにある邪な気持ちが光に悟られないよう、それを隠せるか、俺はとても不安になった。

 最初のうちはバランスをとるのさえやっとで、光に後ろを支えてもらわないと乗ることができなかった。「はなさないで! 絶対はなさないで!」と叫ぶのに光は「うん、わかったー」と陽気に答えながら何度もそれを裏切ってきた。おかげで何度も転んだし、光はそのたびに「ごめん、ごめん」と笑いながら謝ってきた。

 そういう赦せないところはあったけれど、光は俺に丁寧に自転車の乗り方を教えてくれた。中学にあがってから勉強についていくのがやっとになってると言いながら、俺の自転車の練習には毎日のように付き合って、1日として欠かしたことはなかった。

 おかげで、練習を始めて1ヶ月ほどで俺は自転車に乗れるようになった。



 ただ、自転車に乗れるようになったことで俺たちが疎遠になったのも事実だ。

 きっかけは、同級生の些細なからかいだった。そいつは俺と光の放課後の練習風景をよく見ていたのだろう。ようやく自転車に乗ることができて、朝から気分が最高潮だった俺にそいつはこう話しかけてきたのだ。


「お前、中学生と付き合ってんの?」


 その噂は瞬く間に広がっていった。俺はそれを覆い隠そうと躍起になった。万が一光に知られてしまったら、俺の気持ちも知られてしまったら、俺はもうきっと光に顔を合わせられない。自転車の練習中、光が乗ってたというだけで自転車の練習がたまらなく好きになってしまったことさえ知られてしまったら、俺はきっとあいつに軽蔑されると思ったからだ。

 あいつと顔を合わせるたびに、俺は逃げるようになってしまった。あいつがそのたびにどういう気持ちを抱いていたのか、俺は知らない。小さい頃からよくしてあげていたのに、きっと礼儀知らずの子どもだと思っただろう。それから数年ほど、近所で顔を合わせるだけの他人に成り代わってしまった。

 再び転機が訪れたのは、俺が小学校をまもなく卒業する頃合いだった。駅前に用事があった俺は、そこでとんでもないものを見てしまう。

 光がいたのだ。俺が6年生になった年に、あいつは17歳の高校生になっていて、地元から電車で30分はかかる公立高校に進学していた。それを教えてくれたのは俺の母親だった。

 その頃まで俺は光について本当に何も知らなかった。あいつが好きなものや、得意な教科。まして俺以外の男と親しくしていること、そしてあいつが恋をしているときに見せる表情が俺と過ごすときとは全く違うということさえ。

 そいつは、いかにも真面目でかつ清潔そうな男だった。制服をきちんと着こなし、風になびく明るい茶髪がさらさら揺れる。

 光はそんな男の手をしっかりと離れないように握っていて、きっと別れ際だったのだろう。あろうことか、そんな男の頬にキスをした。

 キス! あのときの衝撃は一言で表せるものじゃない。世界が逆転した。光の1番が俺じゃなかった。俺は光の全てではなかった。光にとって俺はただの近所に住むガキで、光には手を握って、キスをしたい男がいたのだ。何よりそのときの光の顔は、俺がこれまで見たことのない、「恋する女」の顔をしていた。

 男と光が別れてから、俺はそっと光に近づいた。最初に「おい」と話しかけた。光は自分のことだと気づいていないようだった。もう一度、「おい、光!」と声をかけた。


「え? あ!」


 光は俺の顔を見て、驚いたあと。「久しぶりだね!」と声をかけてきた。俺はその言葉にムッとした。最後に顔をあわせたのは、先週の日曜日だった。町内の清掃ボランティアに光が参加していて、もちろんそこには俺もいた。

 その話をしたら、「でも話しかけてくれたのは久しぶりでしょう?」と言ってきた。


「寂しかったんだから」


 その言葉を受けて、俺は途端に申し訳ない気持ちになった。心のうちに秘めていた怒りが一瞬にして静まり返ってしまうくらいには。


「さっきの、彼氏?」


 短く告げると、光は「見てたの?」とまた恋する女の顔をしだした。


「やだ。恥ずかしいな……。お母さんたちには言わないでね」


 シーッ、と唇に人差し指をあてる光に、俺は「どうしよっかな〜」と言った。泣きたい気持ちだった。


「えぇ、言わないでよぉ! あ、ガリガリ君! ガリガリ君奢るから、そこのコンビニで。ね?」


 そんなもので買収されてたまるか。結局のところ光にとって俺は、いまだに近所に住むガキで、弟のような存在でしかないのだろう。悔しかった。

 もし、俺が3年生のときに無駄な意地を張らずにあいつの隣に居続けることを望んでいたならば、きっとあいつの隣にいたのは変わらず俺だったのかもしれない。

 最初にあいつを手放したのは、間違いなく俺のほうだった。

 俺が何度、あの男と光が別れれば良いのにと願ったことか。きっと光は知り得ない。けれど光は結局、高校を卒業しても大学にいても大人になっても、あの男と居続けた。そのうち俺の両親や光の両親にもその存在を知られることになるが、俺の両親も光の両親も、たちまち男のことを気に入った。気に入らないのは俺だけだった。

 そして、明日。光はその男と結婚するという。引越し先の住所も聞かされた。男は、俺がどんな思いを抱いて長年2人を見続けてきたのか知らないまま、俺が1番好きな女を遠くへ連れ去ってしまうつもりらしい。

 光。もしも望むなら、そいつと幸せにならないでほしい。病めるときも健やかなるときも、真心を尽くすことなんて誓わないでほしい。

 明日、俺は結婚式には出ない。あいつの1番綺麗な姿を、俺の隣にいるわけじゃないあいつを、俺が1番見たくないから。

 俺が嫌いな人間の傍で微笑むあいつを、俺が見たくないから。

 光が好きな男の名前。俺がこの世で1番嫌いな男の名前。


 そいつは名前を、晃という。

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