でんき

香久山 ゆみ

でんき

 ――「未解決事件番号No.9」に関する資料が、警察庁の保管庫から消えた。――

 元同僚の刑事から連絡があった。

 未解決事件番号一桁台――かつて未解決のまま捜査終了となった事件の内、特に凶悪・異様・不可思議な事件に、一桁の番号が振られた。その捜査資料を収めた箱が、現在あるべき場所にないという。

 それではやはり、昼間で見た「No.9」と刻印されたダンボール箱が、それに違いない。なぜ入居型高齢者施設などというこんな場所にあったのかは分からないが。一桁台ならば、そのような不可思議もありうることだ。しかし、俺が箱を確認した時には、すでに中身は空っぽだった。嫌な予感がする。

「それで、No.9の事件の内容は?」

の部類だよ。……分かるだろ?」

 電話の向こうで吐き出すように言う。

 分かる。

 捜査一課で事件を追っていると、時々どう考えても人間の仕業とは考えられない事件に出遭でくわすことがある。ぐるぐると何重にも捻ってちぎられた首、傷一つないのに体中の血を失った死体。そういう部類なのだろうし、あいつが口を濁すということは、特に凄惨な手口なのだろう。

「一応、連続殺人事件として扱われたが、被害者たちに共通点はない。年齢も住む場所もばらばら。何件か容疑者が上がったものの、これも事件ごとにばらばらの人物だった。各々、容疑がかかった以外の事件では犯行不可能なアリバイがある。しかし、一連の手口は間違いなく同一犯だ。マスコミに流していない事件の特徴まで一致していたからな。それで、結局決定的な証拠もなく未解決のまま時効を迎えた」

「なるほど」

「まあ、なにせ資料ごと消えちまってるから、すぐに出せる情報はこれだけだ。詳しいことが分かればまた電話する」

 そう言って通話は切れた。

 俺も溜息を吐く。

 そんな凶悪なものが、この施設のどこかに潜んでいるかもしれないのだ。被害が出る前に何とかせねばならない。

 ぐっと息を吸って、踊り場の小さな窓に視線をやる。外は真っ暗で、最終電車も終わったらしい。踊り場とはいえ、建物の中の方が明るいため、ガラスの反射で外の景色はよく見えない。と――。

 窓ガラスの端に、女の姿が見えてぎょっとする。

 青白い顔。暗くて表情はよく見えないのに、じっとこちらを見ていると感じた。赤い唇がぱくぱくと動くのが見える。

 一瞬、女がどこにいるのか混乱したが、ここは二階だ。ガラスの向こうではなく、手前の景色が映っているのだ。俺は後ろを振り返った。

 しかし、背後に女などおらず、また、狭い踊り場には身を隠すような場所もない。

 幽霊などよく見るもんだし、どうってことない。そう思うのに、なぜか背中から冷汗が噴き出して止まらない。。俺の直感が告げている。

 念のため、階段を下りる。明るい二階よりも、夜間は消灯されている一階の方が、幽霊がいそうな気がする。

 一階は非常灯が点灯しているだけでひっそり静まり返っている。スマホのライトを点けてフロアを確認するも、幽霊どころかゴキブリ一匹いない。安心していいのか落胆するべきなのか分からぬまま、二階の詰所に引き返そうとした。

 視界の隅に女が見えた。玄関の自動ドアのガラスにあの女が映っている。

 動きを止めて、息も潜める。

 女の方も俺の存在を認めたのか、ガラス越しにまたゆっくりと赤い唇を動かす。

 口を大きく開けて何か言っている。

 けれど、何を言っているのか分からない。俺は視えるだけで、聞こえないから。

 くそ。聞こえれば解決の糸口になるかもしれないのに。

 振り返るとまた姿を消すような気がして、微動だにせずじっとガラスを見つめる。女の唇はずっと動いている。同じ言葉を繰り返しているようだ。一体何と言っているのか。そこだけ赤く浮かび上がったような唇の動きをじっとみつめる。分からない。けれど、六文字だ。あ、あ、あ、あ、い、え。赤い唇が金魚の口のようにぱくぱく動く。あ、あ、……。

「ちょっと、探偵さん!」

 ロビーに突如響く大きな声に、思わず振り返る。

「とっくに休憩時間過ぎてますから、早く戻ってきてください。普段は霊能探偵でも、今日は介護施設の夜勤アルバイトなんですからね。命を預かっているって自覚を持ってもらわないと」

 夜勤介護士の冨久司ふくしがプリプリ怒りながら階段を下りてきた。

「あれ? どうしました?」

 真っ暗なロビーの中央に立ち尽くす俺に、不思議そうな顔をする。慌てて玄関を振り返ってみたが、もうそこに女の姿はなかった。

 二階へ戻りがてら、冨久司に今の出来事を説明する。施設のことなら職員の方が詳しいこともあろうかと思ったからだ。No.9のことは言わずに、女の幽霊が何か伝えようとしていたが分からなかった、ということだけ説明した。残念ながら、冨久司はその幽霊のことは知らぬという。まあ、あれが出るようになったのは今日の昼間以降だと思われるし、冨久司に霊は視えないのだから、当然か。

 しかし、冨久司は意外なことに興味を示した。

「その口の動きって覚えてますか?」

「え? ああ、まあ覚えているけれど」

「やってみてください。読み取れるかもしれません。利用者さんで発声困難な人も多いので、そういうの得意なんで」

 妙にやる気が漲っている。深夜テンションなのかもしれない。

 俺は、促されるままに、幽霊の口の動きを再現する。

 ぱくぱくぱくぱくいーえい。

「なるほど。六文字で、母音はa、a、a、a、i、e、ですね」

 俺の口の動きをじっと見つめて冨久司が言う。うん、それは俺も分かってる。だから再現できてる。で、何て言っているのか。

「んー。パパパパピ~ネ?」

「パパパパピーネ?」

「んなわけないか。んー、何だろ。いつもは利用者さんの表情とか様子を見ながら読み取るんですけど、口の動きだけだとやっぱり難しいもんですねえ」

 ああああいえ。ななななみえ。ままはまみや。はながさいて。あ、やわらかいね。って、何が? 一人でぶつぶつ言っている。

「おっと、コール鳴ったんで、ちょっと行ってきます。302号室のおじいちゃん、眠れない時いつも呼び出されるんですけど、話が長くてなかなか離してくれないんですよぅ」

 ぶつくさ言いながら廊下に出た冨久司が、ピタッと立ち止まる。

「どうしました?」

「分かりました」

「え?」

 満面の笑みで冨久司が振り返る。

「はなさないで」

「え」

「はなさないで、です。a、a、a、a、i、e」

「離さないで、って一体何を?」

「さあ、それは分かりませんが。……あ、じゃなくて、かもしれませんよ」

 あたしは302号室のおじいちゃんに長話しないで寝てほしいですけどね。と言いながら、今度こそ冨久司は出発していった。

 はなさないで、か。

 一人きりで事務机に頬杖を付く。恐らく正解だろう。意味も通っているし、幽霊の言いそうな台詞だ。けれど、「離さないで」でも「話さないで」でも、事件解決に向けて、何のヒントにもならない。

「何を?」だ。

「離さないで」なら、ダンボール箱に入っていたはずの何かだろうか。

「話さないで」なら、事件の真相といったところか。しかし、肝心のその真相を誰も知らないのだ。

 せっかく糸口を掴んだと思ったのに、何にもならない。がっくり肩を落とす。

 ブ、ブ、ブ。

 スマホの着信音が鳴る。

 元同僚から、事件についての追加情報が来たかと思い、慌てて画面を確認する。

 違った。元同僚からではなかった。

 詩織からだ。こんな時間にどうしたのだろう。もうすぐ日付が変わる。この時間の電話って、恋人同士みたいだよなーなんて思ってみたり。やばい、俺も深夜テンションだな。

「もしもし?」

「夜分にすみません。今日、そちらにスマホを忘れてきたみたいで。明日の朝から仕事で使うので、今から取りに伺ってもいいですか?」

 書店主の詩織は今日の昼間、ボランティアとして、ここの図書室で一人で蔵書整理をしていた。夕方ばたばた帰っていったので、忘れ物をしたのだろう。意外とおっちょこちょいなところも可愛い。

「こんな時間に女性が一人で出歩くのは危ないので、俺が持っていきますよ」

「いえ、今夜は施設の人手不足だと聞いています。うちから施設まで自転車で十分も掛かりませんし、大通りはまだ開いている店もあって明るいので、大丈夫です」

 確かに、電話番が留守にするわけにはいかない。

 十分経っても到着しなかったり連絡がなければ迎えに行くと約束して、ここで待つことにした。ちょうど十分経つ頃に、詰所に戻ってきた冨久司と入れ替わりで、玄関まで詩織を迎えに行く。

 先程ここに幽霊が出たんだよなと、玄関扉のガラスを見ると女が映っていてぎょっとする。いや、詩織だ。彼女をあの恐ろしい幽霊と見間違えるなんて、どうかしている。

 手動で玄関を開けて、詩織を招き入れる。

 ロビーの隣に設えられた図書室へ一緒に向かう。ちらとフロアを一瞥する。大丈夫、幽霊はいない。

 図書室のドアに手を掛けて、引く。

「あれ?」

 開かない。押しても引いても開かない。詩織が不安そうに見つめる。

「探偵さん!」

 階段を下りてこちらへ駆けてくる足音がする。

「探偵さん、図書室の鍵忘れてますよ」

 もう、ドジなんですから! 冨久司に肩を小突かれ、鍵を受け取る。

 最後ちゃんと戸締りしてくださいね、図書室も玄関も。そう言って、冨久司はすぐに二階へ戻って行った。忙しいのに申し訳ない。

「さあ、入りましょうか」

 詩織を振り返ると、大きな瞳でじっとこちらを見ている。何か言いたそうなのに、何も言わない。急に不機嫌そうに見える。

「ずいぶん仲良くなったんですね、冨久司さんと」

「え?」

「あんまり他の女性と話さないでほしいな、なんて」

 詩織が口を尖らせる。本気とも冗談ともつかない。もしかしてだけど、嫉妬だろうか。

 上手い返しをできず、「うぐぅ」と変な呻き声だけ上げて、図書室の鍵を開ける。詩織がするりと部屋に入る。

 今から、深夜の狭い部屋で男女が二人きりで過ごします。俺は激しく後悔していた。同僚に聞くべきは、訳の分からん事件のことではなく、女性のエスコートの仕方だったんだ。深夜に二人きりなのだ。しかも、彼女はどうやら自分を憎からず思っているようだ。何も起こらないはずはない。

 そんなことを考えながらも、ドアを閉め切るのも気が引けて、開け放したままにしている俺は小心者だ。

 俺が入室すると、窓際に佇む詩織のシルエットが月明かりに浮かぶ。まるで女神セレーネのようだ。

「見つかりましたか?」

 電気を点けると、詩織は振り返って曖昧に微笑んだ。俺はすぐに自らの失敗に気付いた。馬鹿、俺の馬鹿。今の絶対に電気消したままでオーケーだったよ。

 しかしながら、もう一度電気を落とす度胸はなく、情けないことに何も気付かない振りをして会話を続けた。

「スマホ、見つかりました?」

「ああ、いえ……、ないですね」

 そう言って机の下に腰を屈める。詩織の華奢な背中、とお尻が……。俺は反対を向いて、そんなところにはないであろう本棚の上を懸命に探すふりをする。理性理性と口の中で唱えながら。

「きゃっ」

 背後で、詩織が小さな悲鳴を上げる。何もしていないぞ、まだ。

 振り返ると、白い顔をした詩織がドアの外を指している。

「今、廊下を女の人が通り過ぎました」

「冨久司さんですか?」

 ううん、と詩織は首を振る。

「青白い顔の女性でした。まるでこの世のものではないような」

「ちょっと見てきます! 詩織さんはここで待っていてください」

 部屋を出ようとすると、詩織もついてくる。

「私も行きます。一人にしないでください」

 俺の歩く隣にぴったりと身を寄せる。そのままぎゅっと手を握られる。手を握られる。俺の心臓もぎゅっとなる。

「絶対に離さないでくださいね」

 詩織が力いっぱい俺の手を握りながら言う。離すはずがない。

「あっちに入っていきました」

 詩織が廊下の先を指す。夢心地でそこへ向かう。もう何が出てきても負ける気はしない。俺のハートに熱い灯が点っているから。

 二人で突き当たりのトイレに入る。

 誰もいない。蛍光灯の白光が妙に眩しい。

「いませんね」

「……」

 俺の腕に詩織が細い腕を絡ませる。半袖の二の腕がひやりと柔らかい。

 彼女を庇うように半身になって、三つある個室を手前から順に開けていく。

 いない。

 いない。

 いない。

 蛍光灯がチカチカと明滅する。

 バチンと電気が落ちる。

 小さな窓から射し込む月明かりを受けて、洗面台の大きな鏡の中に青白い顔が浮かんだ。

 浮かれていて、違和感を見逃してやしないか。俺がこんなにモテるはずがない。彼女には過去に一度フラれているのだ。そもそも、スマホを失くしたのに、彼女はどうやって俺に電話を掛けてきたのだろうか。だいいち、彼女は人のはずだ。過去の事件で、容疑者がばらばらだったのは、元凶が比較的簡単に人間に憑依できるタイプだからだろう。凶悪な幽霊は、今も誰かに取り憑いているかもしれない。

 女は俺の手を固く握ったまま、鏡の中で赤い唇を動かす。

 a、a、a、a、i、e。

「はなさないで」ではなかった。

 彼女の肉体を借りて、その声ははっきりと俺の耳に届いた。

「あ、な、た、が、し、ね!!」

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