交通事故に遭ったが、何とか一命を取り留めたらしい

佐々木 凛

第1話

 ふと目を開けると、そこには白い天井と心配そうにこちらを見つめる彼女の顔があった。僕が目を開けたことに気付くと、彼女は涙を流しながら僕の手を両手で包み込むように握った。

「よかった……ほんまに良かった」

 言葉に詰まりながら言う彼女。その目からは大粒の涙が流れる。だが、僕は全くもって状況が分からない。自分がさっきまで車を運転していたらしいという事だけはかろうじて覚えているのだが、そこからなにがあってベッドに寝ているのかが分からない。

 辺りを見渡す。部屋の全貌を見ようと思ったが、俺の寝ているベッドの周りはカーテンで囲まれている。右には、アームに繋がれて角度が簡単に変えられるようになっているテレビと、その下に小さな冷蔵庫がある。そして、俺の両手には点滴の管が刺さっていたり、脈拍を図るためであろう電極らしきものが張り付いていたりする。これらのことを総合して考えると、すぐに答えは出た。

「……僕、事故に、遭ったの?」

 話してみて、初めて気付いた。口元が酸素マスクで覆われている。医療ドラマなんかでよく見ていた、あの緑色のプラスチックのようなものだ。これをつけているからか、なんだか妙に喋り辛い。長く話そうとすると、息が苦しくなる。だから、言葉を短く切って話さないといけない。

「そうだよ。仁君、事故に遭ったの。仁君の運転してた車に、信号無視した別の車が突っ込んできて、車がぐっちゃぐっちゃになって……ほんまに、ほんまによかった。もう、目ぇ覚ませへんかと思って、私……」

 そこまで言ったところで、彼女は顔を伏せた。普段は恥ずかしいからと出さないようにしている関西弁が出ているあたり、僕が眠っている間は本気で心配し、今は本当に安心しているようだ。僕としては、関西弁全開の彼女のほうがチャーミングだと思うので、これはこれでいいものが見れた。助かったことといい、これも不幸中の幸いというやつだろう。

「そんなに、凄い事故、だったんだ。それで、僕は、もう、大丈夫、なんだよね」

「……はなさ、ないで」

 話さないで?

 僕はそんなに重症だという事だろうか。ひょっとしたら自覚がないだけで、もう三日三晩意識を失ったままだったりしたのだろうか。あるいは、医者から回復の見込みがないとでも言われているのだろうか。それとも――。

「……なんで暴れてんの」

「いや、べつに」

 よかった。両手両足は思った通りに動くし、ちゃんとある。植物人間になったり、四肢が欠損したりしたわけではなさそうだ。

 じゃあ、なんで彼女はなんて言ったのだろうか。

 とにかく、今は情報を集めることが重要だ。冷静じゃない彼女に全部説明させるのは難しいだろうから、色々質問してこっちで考えるほうが良さそうだ。

「相手は、どうなったの」

「……相手?」

「事故の、相手」

「相手の女性は、即死だったんだって。だからお医者さんは、仁君も……」

 言葉を詰まらせ、嗚咽する彼女。だから話さないでと言ったのだろうか。生死の境を彷徨っている僕に、話すという行為で体力を消耗してほしくないと、そういうことだろうか。

「心配、してくれて、ありがとう。でも、僕は、大丈夫、だよ。ほら、元気だ。香織にも、そう、見える、だろ」

「うん。でも……はなさ、ないで」

 随分心配しているようだ。こういう時に元気だとアピールする方法は、医療ドラマのワンシーンで見たことがある。そう、口元の酸素マスクを外して話す、あのシーンだ。それを再現すれば、香織も心配せずに会話してくれることだろう。

 そう思い、僕は彼女の両手からそっと右手を抜き取り、酸素マスクの方へと持っていった。すると香織はこれまで見たことがないほどに素早い動きで僕の右手を握り、元の位置へと叩きつけるように荒々しく降ろした。

「だから! もう……はなさ、ないって」

 なるほど、そういう事か。香織は話さないでと言ったのではなく、と言ったんだ。もう二度と、自分から離れてほしくない。勝手に何処かへ行ってほしくないという、そういう気持ちの表れだったんだ。

 謎は解けた。もう、何も言う必要はない。僕は左手を伸ばし、枕元にあったナースコールを押した。これで、僕が目を覚ましたことが伝わるだろう。

 ナースコールを鳴らすと、ドタドタと足音をたてながらすぐに看護師さんが走ってきた。それから遅れて一分ほどで、聴診器を首にかけた、絵に描いたようなお医者さんもやってきた。

 なにも痛みを感じていない。僕はもう大丈夫だと、そう二人に伝えたかった。しかし相変わらず酸素マスクのせいで息はしづらいので、話して伝えるのは面倒だ。香織にも余計な心配をかけてしまいそうだし、ここは爽やかな笑顔で迎え入れることで、アピールすることにしよう。

「その爽やかな笑顔。彼女さん、ひょっとして彼にもう伝えたんですか」

「はい。最初は分かっていないみたいでしたけど、もう受け入れられたようです」

 香織がそう言うと、お医者さんはホッと胸を撫で下ろした。その後すぐに切り替え、僕にことわった上で体に聴診器を当て始めた。そしてしばらくすると、お医者さんは首を縦に振りながら徐に立ち上がり、彼女の目を真っ直ぐ見つめて言った。

「奇跡です、あの状態から持ち直すなんて」

「じゃ、じゃあ、仁君はもう大丈夫なんですね」

「はい」

 お医者さんが力強く返事したことで、ようやく彼女の笑顔が見られた。やはり彼女は、笑っている顔が一番よく似合う。これで僕も、元気万倍だ。

「それでは、田崎仁さん。これから最低でも数日は入院してもらいますが、状態次第では退院も考えていきましょう」

「ほんまによかった。仁君、よー頑張ったね」

 香織が、僕の手を強く握る。付き合って三年ほど経つが、これほど手を繋げて嬉しいと感じたことは無かったかもしれない。

「これからは一生酸素ボンベを引きずって生きていくことになりますが、彼女さんと一緒に、この苦難を乗り越えてくださいね。では」

 そう言ってお医者さんは、颯爽と去っていった。

 ――待て。今、なんて言った?

「香織。今、お医者さん、酸素、ボンベと、一緒だって、言ってた」

「うん。そりゃあ、そうでしょ」

「なんで?」

「あぁ、まだ混乱してるんやね。ごめんね。もう一回言うね」

 そう言うと香織は、自分の顔を指さしながらゆっくりと言った。

「鼻さぁ、無いで」

 ……彼女の関西弁がこれほど憎たらしく思えたのは、初めてだ。

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