第2話

 松浦はまずは陳列棚を回って、翼が食べ物を取りやすいように立ち止まった。それも前もって決めていたことだ。時計の代わりに頭の中で歌を歌い出す。体を落ち着けるために空いた左手でリズムを取る。それはかつて多くの人に好まれていた流行歌だった。およそ四分半、その歌を歌い終わるのにかかる時間だ。それだけ待てば十分だろう。

 これなら最悪誰かが隠れていたとしても、すぐに退散すれば少しは食料を入手することができる。そういう秘策だった。店内は陳列棚で視界が狭くなっている。今誰かに出くわしても後ろが詰まっていて逃げることができない。そうなれば大声を上げて、みんなに知らせる必要がある。松浦は用心深く角を覗いて、ほっとした。まだ安心はできないが、次の角まで誰の姿も見えなかった。甘い考えかもしれないが、ひょっとしてこのコンビニは無人なのではないか。このまま何事もなく終わればいい、と祈るような気持ちで囁いた。

 松浦の左手は空いていたが、万一のことを考えて食べ物を漁ることはしなかった。すぐ目の前に食べ物があるのに、手を伸ばせないのは辛かった。しかし、いつ不測の事態が起こるとも限らない。それに備えておかないといけないとリーダーに釘を刺されていた。自分だって命は惜しい。

 包装された食べ物をリュックに詰め込むガサガサと耳障りな音が、静かな店内に響いて、松浦の鼓動を大きくさせた。六人分の食糧だ。すぐには集められない。その事が分かっているからと言って、焦る気持ちは抑え切れなかった。まだ物事の分からない子供の作業だから、効率なんて考えていないだろう。口出ししない方がいいと諦めるしかなかった。松浦は五分経って次の角に歩き始めた。その向こうに誰かが身を潜めている確率は高かった。

 角まで来てそっと覗いた。運よく誰もいなかった。それで少し安心した。少し歩いて、翼が冷蔵庫の飲み物を取りやすい位置まで移動した。飲み物は小さい物でも、子供にとっては重い荷物だ。二リットル入りのペットボトルなら一本持つのがやっとだろう。だから五百ミリリットル入りの小さい奴を幾つか手にするように言ってあった。まだほんの小さな子供だが、意外に考えはしっかりしていた。言われたことはきちんと守ってくれるから、安心して翼に任せられる。

 男の子のリュックは食料と飲み物で一杯になっていた。重くて足が地面を突いているのが精一杯だった。それでもこれで十分な量とはいえない。六人で分配すれば、一人の取り分は細やかな物となる。最後にスプライトを掴んだ。左手が引かれて、もう行こうという合図が出た。もっと時間があれば、みんなのリュックに入れられれば、自分が子供でなくて一派な大人であれば、もっとたくさんの食べ物と飲み物を得ることができたのに。悔しい思いがした。男の子は諦めて腕が引かれるままに歩きだした。兎に角何事もなかったのは幸いだった。あとはコンビニを出るだけだ。心配することは何もない。

 壁と陳列棚に挟まれた狭い通路を慎重に歩く。まだ油断してはいけないと分かっていても、作戦はほとんど達成できていたから足取りは軽かった。ずっと前の松浦が陳列棚の終わる所を曲がって、レジ台の前を通っていく。男の子も遅れないように付いていった。

 体が硬直して足が動かなくなったのは、その時だ。怒鳴り声を聞いて、それに驚いて六人の内の誰かが陳列棚に体が当たった。並べられた商品がバラバラと床に散乱した。

「おい、何するんだ。俺の店だぞ。お金も払わずに行く気が!」

 レジ台の後ろから、突然と数人の男女が手を繋いで現れた。怒鳴ったのはその一番端の五十くらいのハゲタカに似た、髪の薄くなった小太りの店主らしい。床に座った所為か、水色の制服はよれよれになっていた。目もハゲタカのように鋭かった。それが六人を均等に睨んでいた。店主らしい男に威圧されて、六人は思わず足を止めたのだった。

「おい、黙ってないで何とか言え!」

「お金はない」

 リーダーは店主らしい男に更に迫られ、消え入りそうな声で答えた。

「じゃあ、泥棒か? 万引きか? それなら容赦しないぞ」

 店主らしい男は、この店の支配者は自分だと言わんばかりに傲慢な態度を取った。

「そう呼ばれてもしょうがない。ただ生きていくためには、こうするしかなかったんだ」

「盗人猛々しいとは、お前らのことだな。さあ、盗んだ物をレジ台の上に置け。この店から何一つ持って行かせないぞ!」

「それはできない。俺らはこれがなければ、どうせ野垂れ死にだ。それが分かってわざわざ食べ物を置いていくほど愚かではない」

「そんな事は、俺には関係ない。言って駄目なら、体に言うことを聞かすまでだ」

 店主らしい男の左手には電動カミソリのような物が握られていて、短剣のように突き出した。それが空気を切り裂く凄まじい音と共に、閃光を放った。スタンガンだ。六人は震え上がった。冗談じゃない。もしあれを食らってしまったならば、この町では命を落としかねない。たとえ一度に一人しか電撃を命中させることは出来なくても、手を繋いでいるのだから一人でも気絶させられれば劇的な危機に陥る。全滅がないとも限らない。繋いだ手を離せば簡単に絶命してしまう世界では、拳銃で撃たれるようなものだった。唯一の救いは、スタンガンの攻撃範囲は非常に短いことだ。それは積極的に攻撃を仕掛けるより、攻撃を受けて反撃する時に威力を発する物だからだ。

 店主らしい男は、六人ににじり寄った。あと一メートル近づけば、その雷を誰かに食らわせることができる。勝利を確信したように、口元がにやりと笑った。だが動いたのは、先に男の子の方だった。手にしたスプライトのペットボトルから、噴水のように店主らしい男の顔へ目掛けて炭酸水が噴射された。店主らしい男は完全に目潰しを食らった。悲鳴が聞こえた。

「今だ。逃げて!」

 男の子がみんなに叫んだ。何が起こったのか呆然としていた五人が我に返って、逃走し始めた。正気を取り戻したのは、店にいた数人の男女も同じだった。だが店主らしい男が視界を失っていて身動きが取れないために、追い掛けることができなかった。彼らはただ食べ物が奪われていくのを悔しそうに見詰めていた。

 コンビニを出ると六人は自然と気持ちが弾んで、逃げる足も速くなった。作戦の成功させた充実感と、食料を得た満足感が彼らを勢い付けた。追手は来ていない。もし追って来たとしても、今度は別の誰かに店の商品を自由にされることになる。そうなる事は、絶対に避けなければならないと分かっているはずだ。六人は歩道を真っ直ぐ走って、コンビニからどんどん遠ざかっていった。振り返っても既にコンビニは見えない所まできていた。それでようやく走るのを止めた。正直あまり急いで走ってきたので、みんな息が上がって、その場にへたれ込みそうになった。

「翼、よくやった! 大活躍だよ」

 桜田が頬に奇麗な笑窪を作って、嬉しそうに男の子を褒め称えた。両手が塞がっていなければ、歩道の雑草くらいに伸びた髪の毛をくしゃくしゃと撫でてやりたかった。男の子は恥ずかしそうにただ笑った。手にしたペットボトルが空っぽになっている。それを残念そうに捨てた。ゴミはそこら中に落ちている。だが、あまり食べ物の痕跡を残すのは、誰かに目を付けられる危険を孕んでいた。

「翼、荷物重くない。ごめんね、手痛くなかった?」

 母親は男の子の体を心配そうに隅々まで確かめた。逃げているときに、強く手を引っ張り過ぎたのだ。小さな手が人形のように取れてしまうのではないかとハラハラしたくらいだった。

「大丈夫だよ」

 男の子は素っ気なく言った。

「そう、だったからいいけど。もうあんな危険なことは、この子にはさせたくないわ」

 それが母親の正直な意見だった。今度また食べ物を取りに行く機会があったら、自分が率先して男の子がやった役を願い出ようと考えていた。

「誰か付けてきているかもしれない。安全が確保されるまでしばらく歩こう」

 リーダーは辺りの警戒に余念がなかった。当たり前だ。今、自分たちは喉から手が出るほどの食べ物と飲み物を所持している。コンビニにいた奴らと一緒だ。それを必死になって守らなければならない。

「ここまで来れば、大丈夫じゃないか。走ったから喉が渇いた。早く何か飲ませてくれ」

 松浦の考えは、いつも楽天的だった。食べ物はあるときに食べる。飲み物を手にすれば、後先考えずに口にするのが当たり前だった。備蓄なんて言葉は松浦の頭にはなかった。後になって思えばコンビニに入った時、一本その場で飲めば良かったと後悔した。だがあの時は緊張から、とても飲み物が喉を通らなかったのを、もうすっかり忘れていた。それに先頭に立って、敵がいないか確認しなければならなかった。それは仕方ない。だが今は違う。翼ばかりが褒められて、少し癪に障る。俺の活躍も大きいはずだ。スーツのポケットには、くちゃくちゃの黒ずんだハンカチが収まっている。その中に飲み物を一本入れるべきだった。

 松浦は翼が炭酸飲料を男の顔面に噴射したのを見て、勿体ないことをしたなと思った。顔も手も碌に洗っていない。風呂もいつ入ったか忘れてしまった。糖分でべとべとするとは言え、シャワーを浴びるところを想像して羨ましいと思ったくらいだ。

 六人はしばらく虫食いのようなゴミで散乱した道を道なりに歩いた。何度も曲がりにくい角を曲がった。誰か付いてこないか確認するために、線路を楕円に繋いだオモチャの列車みたいに同じ所をぐるぐる回った。幾ら警戒しても安全は確保できなかった。町にいる全ての人が敵のようなものだ。それから身を守らなければならないのだ。

 松浦は、いい加減うんざりしていた。折角手に入れた食べ物と飲み物だ。持っている間に誰かに奪われたら、全ての苦労は水の泡だ。そうなる前にさっさと食ってしまえばいいのだ。食べ物があれば食えばいい。後の事は後になって考えればいい。単純なことだ。

「よし、これだけ回ればいいだろう。どこか隠れられる場所を見つけて、食事を摂ろう」

 リーダーの許可が下りた。六人の間に纏わり付いて離れなかった、張り詰めた空気が一気に緩んだ。よくやく食べ物を食べることができる。そう思うと、みんな笑顔を取り戻した。足取りは自然と軽くなった。警戒心も緩んでいた。

 それで突然現れた数人の手を繋いだ男女に、いち早く気づくことができなかった。男女は最初、男の子のリュックを奪おうとした。目的はその中の食べ物と飲み物だった。彼らはずっと執拗に後を付け、食べ物を狙っていたのだ。しかし、男の子は必死にそれを守った。

「それは早く離せ! そうしないと痛い目に遭うぞ」

 怒号が荒廃した町に響いた。それに母親と手を繋いでいるのだ。どうやってもリュックを奪うことは出来なかった。それで彼らは作戦をすぐに変更した。男の子はさらわれ、母親の手が物凄い力で引きはがされた。悲鳴が上がった。

「翼! 行ったら駄目」

 男の子を連れ去った奴らは、みるみる遠ざかっていった。一瞬の出来事だった。その一瞬で運命が大きく揺らいだ。残された五人は悔しそうに、男の子を連れ去った男女が見えなくなった方を見詰めていた。

「食べ物と飲み物、全部奪われたぞ!」

 松浦が悔しそうに悪態を付いた。

「翼、翼、翼」

 母親は泣き叫んだ。

「翼を取り返して下さい」

 手を繋いだみんなに懇願した。

「あんた、余計なこと考えてるんじゃないだろうね」

 リーダーが母親に警告した。彼の目は冷酷な光を帯びていた。

「翼がいないと生きていけません」

 母親は涙は止まらない。まるで少女のように泣きじゃくっている。

「奴らだって野蛮人じゃない、男の子は大丈夫よ」

 桜田が優しく慰めた。それが母親の態度から、何の気休めにもならないと知っていた。

「私取り返しに行きます」

「あんた、まだこの状況を分かってないようだな。俺らは運命共同体なんだ。身勝手は許されない!」

 リーダーは語気を強めた。

「一緒にいられないなら、私死んだ方がましです」

 母親はそう言って、行き成り手を放した。数歩歩かないうちに倒れた。絶命した。突然の出来事に、五人は呆然とした。

「どうして手を離したんだろう。あの人と翼は、赤の他人だったのに」

 桜田が動かなくなった母親を、じっと見詰めた。彼女が同じ立場なら、自分の命を優先させたに違いない。もし彼女の本当の子供だったらどうだ。ありもしない仮定をあれこれ考えても意味がないと止めにした。

「分からない。自分の子供の代わりだったんだろう」

 斎藤が死体を見ないように、そこから顔を背けた。

「ちょっと言動もおかしかったしな」

 松浦は冷たく言った。翼の事ばかりひいきする、母親のことをよく思っていなかった。

「これから、どうする?」

 桜田はリーダーに目をやって意見を求めた。いい返事を期待していたわけではない。そう聞かずにはいられなかった。人の死を目前にしたのだ。何か言ってなければ気が変になりそうだった。

「気の毒だが死体はここに置いていくしかない。それに食べ物の事も考えないといけない。翼のリュックに全部入れてあったからな」

 リーダーは母親の死体を、明日は自分がこうなるかもしれないと危惧しながら見下ろした。ロウを流し込まれたみたいに体がだるかった。

「だから、早く食べれば良かったんだ。これじゃあ、腹が減って身動きが取れないぞ」

 松浦はひび割れた口を真一文字に結んだ。苦々しい顔をした。目の前に食べ物があったのを、見す見すそれを逃したのだ。これ程愚かなことはない。

「今更そんな事言っても遅いよ。それとも、もう一度取りに行く? さっきのコンビニにはもう行けないけど。まだコンビニなら他に幾らでもある」

 と言って桜田は言葉に詰まった。周りを見れば疲れた様子の三人だけ、人数も減ってしまった。さっきのようには上手くいかないと自覚していた。

「作戦を考えないとな」

 リーダーはコンクリートの薄汚れた壁に手を突いて、どうにもならない事を考えている。眉間の皺が濃くなった。

「どんな作戦があるというの?」

 桜田は、そんな作戦あるわけないと否定しながらも聞かずにはいられなかった。空腹がイライラをもたらすのは分かっていた。

「それは今から考えるさ」

 リーダーははっきりしない考えを誤魔化すみたいに、息を吐くのと同時に呟いた。

「もう一度盗みに行くしかないんだ」

 斎藤は結局幾ら考えてもそこに行き着くことを、前倒しに結論付けた。それはみんな分かっていたが、そう簡単なことではなかった。

「兎に角今日は、ねぐらに帰ろう」

 その事だけは作戦が成功しても失敗しても、リーダーは初めから決めていた台詞だった。空腹で疲れた体のまま、不安な夜を過ごすのはどれだけ辛いか身に染みていた。もう何日もそうしてきた。食べ物のなくなった森に冬籠りする小動物のようだった。

 四人は念のために路地を何度か曲がって、少し遠回りした。迂回するたびに肩に重しを載せられるみたいに疲労が蓄積されていった。歩いても歩いてもなかなかねぐらにしているカラオケボックスにはたどり着けない気がした。ようやくねぐらに着いたときには、辺りは暗くなっていた。ちょうどいい。もし誰かが付けてきたとして、暗い景色の中で尾行を続けるのは難しいからだ。

 入り口は狭く安普請の細長いビルは、何となく誰も寄せ付けなかった。これでよく客が訪れたと心配するくらいだった。人が一人やっと通れるくらいの階段を上って二階に上がった所が、カラオケボックスの扉になっていた。扉に鍵は掛かっていなかった。松浦が扉を引いて開けると、暗闇が広がる。そこは小さなロビーになっている。記憶を基に個室の扉まで向かう。いつも使っているのは一番奥の部屋だ。もし誰かが来ても奥にたどり着くまで気づくことができるからだった。

 松浦がノブを回して扉を開いた。ぞろぞろと四人が部屋に入っていく。ねぐらに帰ってきたからと言って、食べる物も飲む物もなかった。ただ横になって休息を取るだけだ。各々が決められた場所に腰を落ち着けた。疲れがどっと出たように感じた。そのお陰か寝付くのは早かった。目を瞑ると、いつの間にか眠っていた。

「誰?」

 桜田は小さな足音で目が覚めた。電気が点らない廊下を探るように歩く足音だった。この場所を知っているのは六人だけだった。もしまだこの町が正常を保っていた頃のここの持ち主が生きていたとしたら、ここの常連客がいたとしたら別の話だが。それは考えにくい。ここには何もない。窮屈に横になれる硬いソファーと小さなテーブルとガラクタになったカラオケの機械があるだけだ。隣でごそごそと音がした。みんな警戒して体を起こしたのだ。

 扉が開く気配がした。ゆっくりと扉は開かれた。この店の受け付けて見つけた懐中電灯を、桜田が点した。光の輪の中に眩しそうにする男の子と女の顔が浮かび上がった。

「翼! どうしたの?」

 ねぐらに現れたのはさらわれたはずの翼だった。

「隙を見て逃げて来たんだ」

 翼は桜田に微笑み掛けてきた。桜田は子供が大人相手にどうやって逃げられたか不審に思った。

「翼よく帰ってきたな」

「心配したぞ」

「無事で何よりだ」

 リーダーや松浦、斎藤も翼を歓迎した。

「その人は?」

「新しいお母さんだよ」

 翼としっかり手を繋いだ女は、亡くなった母親よりまだ若かった。

「食べ物を持ってきたよ。さあ、みんなで食べよう」

 翼のリュックにはたくさんの食べ物と飲み物が入っていた。それをみんなで分け合って食べた。それからまた六人の過酷な生活が続く。

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その手を離さないで 中編版 つばきとよたろう @tubaki10

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