その手を離さないで 中編版
つばきとよたろう
第1話
「翼、手を離さないでね。お母さん以外の誰とも手を繋いでは駄目よ」
母親は疲労を汗の粒のように顔に浮かべて、ぎゅっと手に力を入れた。左手によく知らない男と、右手に小さな男の子と手を繋いでいた。男は母親と決して手を離さないし、母親は男の子の手を必死に掴んでいた。それがこの町の日常だった。
この町ではいつも誰かと手を繋いでいなければならなかった。それは神から被った恐ろしい罰だと言われている。始まりは分からない。風が吹くようにその現象は起きていた。だから誰もそれに逆らうことはできない。もし誰とも手を繋いでいなければ、たちまち絶命してしまう。町は荒廃し、黒焦げになった車が打ち捨てられている。放置された自転車がバリケードを作っている。その事が突然それが始まったのだと言うことを物語っていた。見るべき物はどこにもない。行くべき所は既に失われた。人々は辺り構わず徘徊し、町を彷徨った。
男女六人の中で、赤いジャンパーを着た男がリーダーと呼ばれていた。強制的に男がそう呼べと決めたのだ。男のジャンパーは怪我をした人のように、片腕だけしか通していなかった。怒り肩で腕力には自信がありそうだが、身長は平均を下回っている。
「止まれ! 人が見えた」
リーダーがみんなを素早く制止させた。その手は両方から繋がれていた。目を細め、通りの向こうの様子を窺っている。一瞬黒い塊が見えたと思ったが、それは今では確信できない。
「食べ物を持っているかもしれない」
母親の隣の男が口を挟んだ。枯れた向日葵のように痩せて背の高い、猫背の男だ。手を繋いだとき、ぼくは斎藤と自己紹介した。
「持っていても譲ってはくれないでしょ」
リーダーの隣の女が答えた。フード付きの紺のパーカーを着ている若い女だ。桜田と斎藤に釣られて言った。自己紹介しないといけないと勘違いしたのだ。
「子供がいるんですよ」
母親が言った側から後悔した。大人だって腹を空かせているのは同じだ。彼らは周りに注意を払う前に、手を繋いだ六人に気を取られていなければならなかった。
「向こうの方が人数が多そうだ」
リーダーは強面の顔を更に険しくした。手を繋いだ人の数が多い方が優位という、上下関係は人が決めたことだ。戦争や喧嘩は数の優位が物を言うのと同じ原理だった。しかし、機動力を考えると六人というのは最適な数だ。最終的な指示を出すのは、リーダーの仕事だった。
「隠れてやり過ごそう」
「でも食料をなんとかしないとね」
左端の三十くらいのサラリーマン風の男、松浦が誰に言うともなく呟いた。松浦、桜田、リーダー、斎藤、母親、男の子の順に手が繋がれている。みんな松浦の意見に静かに頷いた。腹は減っている。もう三日は食事を摂っていない。最後に摂ったのは食事と言っても、放置された車の中で動かなくなっていた男のリュックの中から奪ったスナック菓子だけだった。それは口の中の水分を奪って、食べるのに苦労した。それでも食べなければ、後から辛いことになる。飲み水を確保するのも難しい。男のリュックにスナック菓子が残されていたのは、その所為かもしれないと疑ったくらいだ。
「よし、コンビニに行こう」
「そこには誰かが陣取っている可能性が大いにあるだろ」
斎藤が厄介なことはできるだけ避けたいという態度を見せた。他のグループと接するのは危険なことは、みんなも分かっていた。今まで何度も危険な目に遭ってきた。目の前で人が死ぬところも見てきた。が、その前に空腹で動けなくなったらどうにもならない。
「そこなら、この子の好きな物もあります」
母親は男の子に何か食べさせることを最優先させたいと思っている。空腹に苦しむ男の子の姿を見たくなかった。それはたとえ自分の食べる分を譲っても構わなかった。男の子の小さな手が人形のように、段々と力を失っていくのが辛かった。
「取り敢えず行くだけ行ってみよう。ヤバそうなら逃げればいい」
リーダーの逃げるという言葉が肯定された時、斎藤は安堵した。そうだヤバくなったら逃げればいい。コンビニに人がいるなら、そこから食料を残して絶対に離れないはずだ。追ってきてまで危害を加えることはまずないだろう。
六人は飛び石みたいに無残に道路へ放置された車を見ながら、歩道をこそこそと歩いてきた。それが車の墓場のように見えて不吉だった。コンビニは二番地離れた所にある。リーダーは時々自分たちの居場所を桜田に確かめた。桜田は六人の中でずば抜けて記憶力が良かった。この町に地図は、全て頭に入っていた。その才能もこんな混沌とした情勢では、ほとんど役に立たなかった。
「あと五分ぐらいでコンビニが見えてくるはず」
桜田の言葉にリーダーは満足して頷いた。残りのみんなも覚悟を決めた。たとえ犯罪でもやらなければ、陰鬱な路地の陰で野垂れ死にするしかない。生きていくには何でもする。しなければならない。桜田の言った通りコンビニはすぐに見つかった。辺りは物静かだった。誰も考えることは同じだ。他のグループと鉢合わせにならないとも限らない。リーダーはいつもより慎重に近くの様子を見極める。
「大丈夫だ。他のグループはいないようだ。あとは中に誰かいないかだが。おそらく店内に陣取っている奴らがいるはずだ」
「どうするんだ? リーダー」
斎藤が心配そうに振り向いた。乱闘になるかもしれない。どちらも手を繋いでいる。テコンドウの達人でもいない限り激しい争うにはならないだろう。
「まずは扉を開ける。動かないから開いているかもしれない。食料と飲み物の確保だ。あまり欲張って身動きが取れないといけない。三日分あれば十分だ」
六人の顔はどれ一つとして似ていなかったが、表情は一緒だった。血の巡りが悪いくらい緊張で顔を強張らせていた。
「足音に気を付けろ。そっと壁際に沿って歩くんだ」
六人は蟹歩きの要領でコンビニまで近づいて行った。六人の歩調が合わず、何度も足を踏みそうになった。それでも諦めず進んだ。カラス張りの壁から店内を見渡した。誰もいない。入口の扉は開いたまま停止していた。陳列棚にまだ食料が残っていたのは幸運だった。
「よし入ろう。だがまずは誰か隠れていないか確かめなければいけない。翼はみんなのリュックに棚の物を入れるんだ。誰かいたらすぐに逃げ出せるように、確認と補給を同時に行おう。松浦さんは隠れられそうな所を回って下さい」
「ああ、分かった。何分こういう事は慣れていないからな。上手くいくかな」
松浦は自信のない気持ちを取り繕うように、空いた左手で頭の後ろをぽりぽり掻いた。黒のスーツは既に皺になって、その下のカッターシャツは黒く汚れていた。手が自由に使えることがこれ程ありがたいとつくづく実感した。
「よし、入ろう!」
コンビニの入り口にたどり着くと、同時にリーダーが合図を送った。六人が手を繋いでぞろぞろと店内に入っていく。人影は見えない。男の子は言われた通り、リュークのチャックを開けると、陳列棚の食べ物を入れ始めた。口の水分を奪うスナック菓子はいけない。高カロリーで腹持ちのいいチョコレートクッキーを手に取って入れた。その際あまり夢中になり過ぎて、手を引っ張ってはいけない。左手は離れないようにしっかりと握られていた。その手が離されることはないだろう。飲み物は奥の冷蔵庫にある。幾ら食べ物があっても、飲み物がなければ生きていけないことは十分に知っていた。カップラーメンはお湯がなければ食べられないが、チキンラーメンなら食べれることを知っていた。でも辛い物は喉が渇くことを考えなければならない。チョコレートは簡単に糖分が摂れて、疲労回復にはいいと桜田のお姉ちゃんが言っていた。男の子はチョコレートもリュックに押し込んだ。菓子パンは既に賞味期限が切れて腐っている。その事も教わった。でも本当は菓子パンが食べたかった。アイスクリームは冷凍庫が動かなくなって駄目になっている。男の子は兎に角早く取ろうと、目に付く物をリュックに押し込んだ。左手が引っ張られて食べ物が上手く掴めない時があった。
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