8、きみと手を繋げたら

 黒い髪の女性がデスクにつっぷしている。呼吸は弱いけど、まだ止まっていない。

 頭部には、ごちゃごちゃした機械が取り付けられていた。いろいろな部品をツギハギして作ったみたいだ。

 デスクの上には、注射器が二本あった。使ってあるものと、まだ使っていないもの。両方にラベルが貼ってあった。使用済みの注射器には「遮断」、未使用のほうは「復帰」と書かれている。


 ぼくは考えた……彼女はここから仮想世界に侵入ダイブした。頭の機械がそのためのインタフェースだ。そして、ダイブのためには自分の肉体を動かすための神経伝達を、代わりにインタフェースに送る必要がある。ぼくも、学校にいるときはほんとうの肉体のことはぜんぜん感じられなかった。

 彼女はきっと、薬で肉体への神経伝達を断っている。その状態が続いているから、ここから動けなくなっているに違いない。

 ぼくはデスクの上に身を乗り出して、注射器をゆっくり咥えた。間違っても自分の体に刺さらないように、唾液も針に垂らさないように、慎重に。

 落ち着いて、ゆっくりだ。


 力なく座っている彼女の腿に、ゆっくり針を刺した。皮下注射だ。静脈に打たなければならない薬だったらどうしようと思ったけど、どっちにしろ今のぼくではそんな精密な動きはできない。器用に動く手があればいいのに。仮想世界の中に作ったぼくの体が羨ましく思えた。

 体を傷つけてしまわないように、ゆっくり注入していく。鼻先に注射器を置いて、前足で内筒をゆっくり押す……力が入りそうになって、何度もやり直した。

 注入が終わったらゆっくり抜く。きっとうまくできたはずだ。これでダメなら、ぼくにはもう打つ手がない。


 どれぐらい待っただろう。彼女の体がびくっと震えて、しばらく痙攣した。

 うまくいかなかったのかと心配したけど、痙攣が治まると、彼女はゆっくり体を起こした。

「あ……」

 と、しばらく壁を見つめて意味の聞き取れない声をもらした。薬の効果か、ダイブのせいか、少し朦朧としているみたいだ。

 やがて意識を取り戻した彼女が、足下から見上げているぼくに気づいた。


「シロね……」

 胸がいっぱいになった。彼女がまたボクの名前を呼んでくれた。学校にいた彼女は十歳くらいの女の子だけど、いまの彼女はもっとずっと大人だ。だけど、ぼくを見る目は同じように優しかった。彼女がぼくを見ている。そのためにぼくはここまで来たんだ。

 アオイの手がぼくを撫でてくれた。人の手に触れてもらうのは心地よくて、ぼくはとろけてしまいそうな気分をまた味わった。


「私の言うことが分かるよね。人間達は自分たちが肉体的な進化を遂げれば絶滅から逃れられると考えた。私はここであなたたちの神経を強化して、成果をモニターしていたけど……こんなことをしても進化なんてできやしない。あなたたちを苦しめるだけだと思った」

 彼女の声。今度は空気を伝ってぼくの耳に届いている。だけど内容はどうでもよかった。彼女がそこにいることがただ嬉しかった。


「あなたが【最終試験】に進むことになった時、他の子はみんな不適合だと判断されて処分された。維持にかかるリソースを節約するためよ……。こんなことは許されないと思った。だからせめて、あなただけでも解放したかった」

 ぼくは彼女にすがりついていた。感謝でいっぱいだった。ぼくはぼくが生きている限りの時間ぜんぶを、彼女のために使おうと思った。


「あなたはもう自由よ」

 ぼくの頭をそっと撫でて、アオイはそう言った。どういう意味だろう? ぼくは彼女を見つめた。彼女もぼくを見つめていた。

 声が出ない。不格好な鳴き声だけが漏れる。


 ぼくは彼女の手に触れた。彼女は手をさしだして、掌で受け止めてくれた。

 でも、それだけだった。


 彼女の声は聞こえない。ぼくの言葉も伝わらない。

「お手なんて……。他の犬のマネをしなくていいのよ」

 ちがう。気持ちを伝えたいのに。ぼくは舌を垂らしたまま、何度も念じた。だけど、もう手と手でつながる声は出せなかった。ぼくが奇跡だと思ったテレパシーは、仮想空間でセントラルに気づかれないために作られたプログラムでしかなかったのだ。


「あなたは好きなところで、好きなように生きていけばいい。私はここに残る……。じきに、セントラルの報告を受けた他の人間がやってくる。計画を失敗させた私がどんな扱いを受けるかわからない。あなたが付き合うことはないわ」

 嫌だ。ずっとアオイのそばにいたい。自分で考えたくなんてない。犬で構わない。

 ぼくを放さないで。

 そう伝えたいのに、ぼくには彼女の手を握り返すことができなかった。

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