手を
小狸
短編
母は、自由な人であった。
振り返ってみると、そう思う。
スーパーに行った時のことである。
私がお手洗いに行きたくなった。
母と約束をする。
「ここで待っていてね」
「分かった」
と、母は返事をする。
そして帰ってくると、当然のようにその場からいなくなっているのである。
困り果てた私は、しばらくその場で待機して、母が戻って来るのを待つ。
すると平気な顔をして、母はどこかから戻って来るのである。
約束を簡単に
逆に母がそうしてくれたお
いや、令和の今なら虐待と言われても仕方がない――子どもを、しかも女の子を一人で放置しておくことに、まだ寛容だった時代である。
ただ、良かったことばかりではない。
次第に私は、母を信用しなくなっていった。
――ああ、この人は約束を守らないんだ。
――私との約束なんかより、その辺の買い物の方が優先なのだ。
――私を大切にしてくれないんだ。
無論、大人になった今振り返れば、母にも母で言い分はあったのかもしれない。
ただ、そうやって約束を反故にされる度に、私の自己肯定感は少しずつ下がっていった。
中学時代なんて酷いもので、まあ思い出したくもないほど黒歴史である。
それだけ私の中には、ずっと
どうしてだろう。
どうして当たり前のように、手を離してしまうのだろう。
握っていて欲しかった。
ずっと一緒にいたかった。
安心、したかった。
そして、私が高校に進学すると同時に、両親は離婚した。
母の不倫が発覚したのである。
相手は、通っていたヨガのインストラクターであった。
いくら自由だとしても、破ってはいけない自由もある。
父は探偵と弁護士を雇って証拠を固め、私も父の側についた。
その時。
忘れもしない、弁護士の人を交えた、二度目の話合いの時。
その時だ。
母は、私の親権を要求しなかった。
それは、要らない、と言われたも同然であった。
いや、分かる。
高校生であり、もう自分である程度物事の分別の付く年齢である。ここで父についていくことが、私にとっての正解だと分かる。社会的に見て、不倫などという行為を行う母は唾棄すべき存在であることに何ら違いはない。
親権を争って欲しかった、とは敢えて言うまい。
結果的にスムーズに協議離婚が成立し、私は父についていくことになって良かったと思う。
でも。
それでも。
時折、こうも思ってしまうのだ。
私は、お母さんにとって、必要でありたかった。
手を繋いでいてほしかったのだ。
一緒にいたかったのだ。
それだけの、私の小さな望みは。
数枚の紙によって、見事に跡形もなく、雲散霧消した。
そして
私は結婚し、二児の子を産んだ。
親になった。
旦那は、職場の同期である。
未だ私の心には、離婚調停の時の母の表情が、くっきりと残っている。
だからこそ。
母親となった今、私は、たとえ子どもとはいえども、交わした約束は守るようにしている。
その手を、離さないようにしている。
そうすることで、きっと何かが。
未来に、繋がってゆくと思うから。
(「手を」――了)
手を 小狸 @segen_gen
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