話さないで

kou

話さないで

 夜の街は、賑やかな街路をネオンの光であふれさせていた。

 歩道の人々の姿は昼間に比べれば少ないが、それでも酔客や派手な服装をした若い男女などもいた。

 その一人に、くたびれたスーツに身を包んだ男がいた。

 30歳半ばほどのその男は、疲れた足取りで歩いていた。

 顔は青白く、表情も暗い。

 名前を野田武志たけしという。

 武志は、足取りもおぼつかなく、ふらふらと歩いていると、前から歩いてきた若い女性とぶつかった。

 武志はよろめき、女性は持っていたバッグを落とした。

 慌てて拾おうとする女性に、武志は謝罪した。

 だが女性のほうは武志の言葉を無視し、バッグを拾うと武志を押しのけるように歩き去った。

 その様子を見ていた通行人たちは、くすくすと笑ったり、武志をあざける言葉を吐いたりした。

 武志は溜息をつき、再び歩き始めた。

「終電を逃しちゃったな……」

 額に手を当て、再び溜息をついた。

「仕方ない、歩いて帰るか」

 武志は落胆気味に、ぎこちなく体を動かし始めた。

 財布の中は底を付いており、タクシーすら利用することはできなかった。いつものように残業に明け暮れた毎日だが、この日は特に酷く終電まで逃してしまった。タクシーに乗る金もないが、唯一救われるのは明日が休みだということだった。

 深夜の街路を歩きながら、ふと空を見上げると、夜空には月が出ていた。

 満月に近い大きな月だ。

 月明かりに照らされた街を見ていると、不思議と安らかな気分になった。まるで自分がこの世界にたった一人取り残されたような孤独感があった。

 事実そうだと思う。

 幹線道路を外れて狭い道に入ると、そこは暗く人気もなく静まり返っていた。自分の足音だけが響き渡り、それが余計に寂しさを感じさせた。

 ひっそりとした路地裏に差し掛かった。

 そこで奇妙な音が武志の耳に届いた。

「なんだ?」

 それは、うめき声のようだった。

 男なのか女なのか分からなかったが、苦しそうな声だった。

(酔っ払いでもいるのか?)

 そう思いつつも、興味本位で声の方へ体を向け少し近づく。

 街路灯の光が暗闇をかすかに照らしているに過ぎず、路地の奥は闇に閉ざされている。

 声はビルの間の細い路地から聞こえてくるようだった。

 耳を凝らし闇に目を送る。

 すると、そこに人が倒れていた。

 うつ伏せなのか、仰向けなのか暗くて詳細は分からない。

 ただ、その人物がひどく苦しんでいることだけは分かった。

「だい……」

 大丈夫ですか、と声をかけようとした時、その人物のそばに何かがいることに気づいた。

 人だ。

 誰かが倒れている人物を見下している。

 そして、その人物はナイフのようなものを手に持っているのが見えた。

 何が行われているのか瞬時に理解した瞬間、全身の血が逆流するような感覚が襲った。

 殺人が行われている。

 そう思った時には体が動いていた。

 鞄を投げ捨て全速力で走りだす。

 全力で走ることなどいつ以来だろうかと思う間もなく、必死に走った。息が切れ心臓が悲鳴を上げても構わず走り続ける。後ろから足音が迫ってくるのが分かった。

 しかし、振り返らず、ただひたすら前を向いて走っていた。恐怖心が足を加速させ、もつれそうになる足を懸命に動かし続けて逃げた。


 ◆


 武志が気がついた時は、自宅アパートだった。

 どうやって帰ってきたのか覚えていなかった。

 スーツのまま布団の上に転がっており、全身汗まみれになっていた。

 時計を見ると、昼近くなっている。

 昨日の記憶が蘇る。

 武志は慌てて体を起こし、テレビをつけた。

 ニュースを確認する為だ。

 だが、どのチャンネルも昨夜、武志が見た殺人事件については取り上げていなかった。ネットニュースも確認してみたが、それらしい記事を見つけることはできなかった。

 夢だったのかと思いたかったが、体中にまとわりつく疲労感が現実だと告げていた。あの出来事は全て実際に起こったことなのだ。

 なぜ誰も知らないのだろう。

 そんなことを考えたまま夕方近くまで部屋で過ごしていると、部屋のチャイムが鳴り響いた。

 武志は誰だろうと思いながらドアを開けると、そこには宅配便を手にした宅配業者がいた。

 サインをし受け取る。

 ダンボール箱は抱える程だが、あまり大きくないものだ。

 重さは、程々。

 差出人欄には匿名配送とあった。

「フリマサイトで買い物したっけ?」

 武志は疑問に思いながら箱を開け、ギョッとする。

 なぜなら箱の中には、武志が会社へ出社する時に使っている鞄が入れられていたからだ。見間違いようもなかった。間違いなく武志のものだ。

「どうして僕の鞄が……!」

 そこで彼は気付いた、鞄をどこで無くしたのかということに。

 それは昨晩、遭遇した事件の現場だ。

 では誰が届けてくれたのだろうか?

 武志はしばらく考え込んだ後、ある結論に達した。

 それはナイフを手にした人物だ。

 おそらく鞄の中に入っていた名刺等を見て、武志の住所を知り、送り届けてくれたのだと思われる。

 だが、どうしてこんなことをしてくれたのか分からない。

 それと同時に、犯人に自分のことを知られているという恐怖心が襲いかかってきた。もしかすると、あの男はまだ近くにいるかもしれない……。

 そう思うと背筋が凍るような思いだった。

 すると、武志のスマホが振動し始めた。

 画面を確認すると、非通知設定からの着信だった。

(まさか……!)

 武志は息を呑み、通話ボタンをタッチして耳に当てた。

 相手は何も言わなかった。

「もしもし……」

 武志は恐る恐る話しかけた。

 電話の主は何も答えない。

 しばらく沈黙が続いた後、相手が口を開いた。

「鞄は届いた?」

 その声はボイスチェンジャーを通したような声だった。

 男の声なのか女の声なのか分からない不思議な声だ。

 それを聞いた途端、全身に鳥肌が立ち震えだした。その声を聞いただけで吐き気が込み上げてくるほどの恐怖を感じた。住所も名前も電話番号も知られている。もしこの声の主が自分を殺そうと思えば、簡単に殺せるのだということを実感させられたからだ。

 緊張のあまり喉が渇き声がうまく出せない状態で、なんとか言葉を絞り出すように答えた。

「な、何が目的だ……」

 その言葉に返事はなかった。ただ無言の時間が続くだけだった。その間、武志は自分の心臓の音が相手に聞こえてしまうのではないかと思うくらい緊張していた。やがて相手の方から先に口を開いてきた。

「昨晩見たことを、話さないで。誰にも話さない限り、何もしないから」

 そう言って電話は切れた。

 武志はしばらくの間放心状態だったが、はっと我に帰ると慌てて警察に通報しようとしたが、すぐに止めた。警察沙汰にしてしまえば自分の身柄に危険が及ぶ可能性があると考えたからだ。

 冷静に考えて、殺人も傷害事件も報道されていない。事件そのものが無いのなら昨晩の事にしても、今の出来事を正直に話して信じてもらえるとは思えなかった。

 それなら誰にも話さず黙ってやり過ごすしかないと思った。

「話さなきゃ。命拾いできるって訳か」

 武志の全身に戦慄が走った。


 ◆


 数日が経った。

 外出する際は常に気が気でなく、辺りを気にかけながら生活するようになっていた。たまに知らない男を見かけて怯えてしまうこともあった。

 会社に行く際も、上司や同僚の態度が気になり過ぎて、ストレスが溜まっていった。

 いつ誰かに気付かれるのではないかと、常にビクビクしていた。

 時折、自宅の留守番電話に不気味な無言の電話がかかってくることもあった。

 武志は会社を転職し、新天地で新しい人生を歩み始めることにする。

 そして、職場の後輩である香織と出会い、恋に落ちた。

 いつもじっと熱を帯びた視線を送ってくれる香織のことが気になり、少しずつ会話を増やしていった結果だった。

「香織。これからは2人で力を合わせて、幸せな家庭を築いていこう」

「はい。武志さん」

 武志は香織に心から誓った。過去の恐ろしい出来事は、すっかり忘れ去っていた。

 やがて香織は武志と子供をもうけ、3人で仲睦まじく暮らすようになった。武志自身も愛する家族のために残業を減らし、家庭を大切にするように心がけた。

 武志に子供が生まれしばらくすると、地域で不審者が出没するという噂が流れるようになる。

 最初はよくある噂話だと気にしていなかったのだが、ある日のこと、近所に住む女性がハサミで襲われるという事件が起こった。幸いにも軽傷ですんだものの、犯人は捕まっていないままだった。

 正体の分からない存在は、武志に過去を過ぎらせた。

 過去の光景がフラッシュバックし、全身が震えた。

 あの夜の事件。

 そして自分に降りかかった脅迫のことが頭をよぎった。

 家に帰ると、台所で夕飯の用意をしている香織がいた。

 武志は、あの恐怖を一人で抱えていることに我慢できずに香織に昔の出来事を打ち明けてしまった。

「あの時は本当に怖かったよ。殺されるかと思ったんだから……」

 しかし、同意を求めた香織の反応は異様だった。彼女は険しい表情になり、ネギを刻む包丁の手が止まった。

「香織?」

 武志は訊く。

「……話さないで。って、言われたでしょう」

 香織の瞳は無機質に冷たかった。

 武志は、その眼差しに戦慄した。

 香織はキッチンから離れる。その手には包丁が握られていた。彼女の手には殺意がこもっているように感じられた。

「……あなたが黙っていれば、私達はずっと幸せでいられたのに」

 武志は愛する妻の変貌に驚き、腰を抜かしてしまった。そのまま這って逃げようとするが、足が震えて思うように動けない。その間にも、香織はゆっくりと近づいてきた。

「まさか。……そんな香織が、あの時の犯人なのか?」

 その言葉に、香織は首を横に振った。

「違う。私がしていたことは死体を運ぶ運転手役。あの夜、あなたが見たのは私の兄。そして殺したのは、父。あの父親はクズよ。家族を顧みず、DVを繰り返しギャンブルや女にお金を使い込んでいたわ。耐えきれなくなった母と兄と私は、父に保険金をかけて殺すことにしたの。

 でも、殺人だと捜査の手が入って私達の犯行だとバレる可能性がある。だから殺して埋めて失踪したことにしたの。7年もすれば死亡扱いになって保険金が入るの」

 武志は絶句した。今まで信じていたものが、音を立てて崩れていくような感覚に陥った。

 だが、なぜ目撃者である自分を生かしておいたのか分からない。

「どうして、僕を殺さなかったんだ」

 その問いに、香織は答えた。

 それは簡単なことだった。

 それは、自分達の都合で憎くもない人を殺すことに抵抗を感じたからだ。自分達は殺人鬼ではない。DVと借金を重ねるクズから自分達を守るために人を殺した。だから《話さない》ことを条件に武志を殺さず、事件が他言されないようにした。

 一度話せば、同僚や友人、酒を飲んだ時の話題にする。自分が遭遇した怖い話しとして口にし、それはまことしやかに囁かれ、都市伝説としてネット拡散されることに繋がりかねない。

 その場所は、どこだ?

 いつの頃の事だ?

 見たのは誰だ?

 そんな好奇心に駆られた人間は真相を調べようと行動するかもしれない。それがSNS等で発信されたなら、一気に広がるだろう。

 現場が発覚すれば、そこから警察が動く可能性もゼロではない。

 それだけは絶対に避けなければならなかった。

「香織は監視するために僕に近づいたのか」

 愕然とする武志に対し、香織は静かに頷いた。

「……少し違う。武志さんの、近くに居ることで事件の話しがでないことを監視してた。でも、武志さんの人柄に惹かれて好きになったのは本当」

 そう言って涙を流す香織を見て、武志は何も言えなくなってしまった。

 自分さえ、事件の事を話さなければ……。こんなことにはならなかったのかもしれないと思うと胸が痛んだ。

 思わぬ所から、武志は今まで口が裂けても言わないでいたことを口にした。確かに、妻一人に打ち明けただけでは終わらなかったと思う。怖い話題が出た時に、自分はこんな体験をしたんだと、共感を得る為にしゃべり続けていた可能性はあった。

 犯行を目撃された者にとって、それがどれだけ恐ろしいことか、武志は想像もつかなかった。

「私も、自分の犯行を口にした以上、今まで通りの夫婦生活は送れないわ。《話さないで》の約束を破った、武志さんを母と兄に説明しても絶対に信用してくれない。母はダブルワークをして父の借金を返し続けている。実行犯である兄には妻も子供がいるの。父の失踪を念入りに調べられたら……逮捕されたら、私達一家は、みんなが不幸になるの。……でも、安心して武志さんとの子供は私が一人で育てるから」

 その言葉を聞いた瞬間、何かが壊れたような気がした。

 もう元の生活には戻れないんだと悟った。

 そして自分の人生も終わるのだということも理解した。

「ごめんね」

 香織は本当は武志を殺したくなかった。

 でも血の繋がった家族を守らねばならない。その覚悟を決めた時、美咲は包丁を振り上げた。

 武志の視界が一瞬真っ赤になり、自分の体が血の海に浸かっていた。

 意識が遠のきかけた時、最後に目にしたのは悲しそうな顔をした最愛の女性の顔だった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

話さないで kou @ms06fz0080

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ