最終話 わたしはたぶん振り返らない
ビュッフェを食べたホテルで泊まったら楽だったのになぁ、と帰りのそれなりに人口密度の高い電車内で奈智子は愚痴を言う。
あのホテルの宿泊費を知っていたわたしは無理無理と笑って答える。そもそも、明日は仕事である。
電車の外はすっかり暗くなり、窓に映る景色は時々通り過ぎる街灯の明かり以外は何も見えない。闇の中を淡々と突き進んでいくようだった。
隣に座る奈智子はおもむろに鞄からスマートフォンを取り出す。
そして非常に素早い指遣いでメッセージを書き込み、画面を凝視し、また指で画面を叩く動作を繰り返した。どうやらSNSで誰かとやり取りしているらしい。
わたしはその様子を盗み見、思わず目を瞠ってしまう。
スマートフォンの画面を見る奈智子の表情は慈しむような笑みを湛え、メッセージの変身を読む一瞬だけ切実な真剣さが加わり、また甘く少女の顔を綻ばせながらメッセージを返すのだ。
表情が、もう完全に恋する乙女のそれなのだ。
瑞々しく満ち足りたような表情を、この同級生はスマートフォンの向こうの高校生男子に溢れさせているのだ。
そんなやり取りを10分弱続け、返事を待つ奈智子にわたしは思わず口を開いた。
「……子どもの頃、わたしにとってひなは憧れの女の子だったのよ」
奈智子は、眉毛を持ち上げて驚いたようにわたしを見る。
「頭も良くて人当たりも良くて美人な女の子で。ある意味人生の指針だったのよ。全ての女の子が目指すべき最高の存在だと思っていた」
「最高の存在」
「でもさ、いまにして思うと、そんな風に勝手にひなを女神のように祭り上げていた子どもの頃の自分が恥ずかしいのよ。ひなも、悩みや欲求もある一己の人間なのに、わたしとは違う、ある意味別の種類の生き物だと分類していた」
「ふぅん……。いまのわたしは、人間っぽく見える?」
「いまでもひなは完璧な女の子だと思うわ……。でもね、わたしとは縁遠い存在だとか言って壁を作るようなことは止めたいなって思った。それは何だか、ひなと関わる上で不誠実でしょ?」
「……正直よくわからなくて」
奈智子は眉間に皺を寄せて困ったような顔を作る。
「どっちかって言うと『照れるなぁ』っていうのが感想なんだけど、いまのわたしとみのりぃの関係が『健全』だと思えるなら、それは正しいことなんじゃないかな?」
「まぁ……、いまの関係が健全かどうかは疑問に思うけど、盲目的に讃えていた子ども時代よりは幾らかマシだと思う」
「う~~ん、ちょっと話題からズレるかもしれないんだけど……」
「ん?」
「みのりぃのこと、普通に凄い人だって思ってるよ。私立の進学校の教師をきっちりやれて自立してるって、十分凄いことじゃん」
「え、えっと……」
「イマドキはみのりぃみたいなヒトの方が格好良くて素敵なんじゃない?」
「いや、わたしは……」
これは、確かに照れるが、照れると同時に「そうじゃないんだ」と叫びたくなる気持ちにもなる。
「いや、わたしは、得意なことをちょっと頑張っただけの人間だし……」
「ぶっちゃけわたしもそれだよ?」
「まぁ、そうなんだろうけど……」
「好きなことや得意なことにのみ注力していた人生を振り返って、微妙に後ろめたく感じるあの感覚、一体なんなんだろう……」
「なんなんだろうねぇ……」
奈智子はふと、手に握ったスマートフォンの画面に目を遣りタップして画面を呼び出した。
しかし彼女が望んだものはそこには映っておらずまたスマートフォンから視線を外す。
「決めた」
そして奈智子は不意に、決意に満ちた力強さで呟く。
「亮治さんとちゃんと会うよ」
「……うん」
「会ってその上でまた恋が出来そうになかったら、そのときはちゃんと離婚する」
「そっか」
まぁ、特に驚くような決断ではなかったのだが、その決意は、奈智子にとっては重大な転機なのだろう。
人間としての『正しい老い』を捨て理想とする魔女の生き方を選ぶための決断。
「変な話かもしれないんだけど、柏木先輩と付き合って、そこをちゃんと決着付けないと、二股になるじゃんっていまさら後ろめたい気がしてさ」
「本当にいまさら過ぎる」
「それに、わたしとの関係を引き摺っているせいで、亮治さんが次の恋愛に進めないのも本当に良くないし」
「……」
本当に、この人は『恋愛感情』を人生の中心に据える気なのだ。
決断も言い訳も、全て恋愛に委ねる気だ。
その代償で手に入れたものが、この上辺だけの、眩しいくらいの愛らしさだと言うのなら、人生は本当にままならないものだと言わざるを得ない。
「養育費についても、うん、払えると思う……」
奈智子はスマートフォンを鞄に仕舞い、人混みの電車内の先に広がる夜闇へと視線を向ける。
もうすぐ、高校の期末テストのシーズンになる。
魔女はまだまだ青春を続けるつもりなのだ……。
FIN
花も嵐も踏み越えて わたしはたぶん振り返らない 沢城 据太郎 @aliceofboy
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