夕暮れがこんなに赤い理由は

だめこ

夕暮れがこんなに赤い理由は

あなたじゃないなら、この先、誰が私の心を奪い続けるんだろうって言葉を思い出すと同時に、それは、私の心を残酷に引き裂いた。


珍しくも休日出勤になった帰り道、夕暮れの町並みを背に歩く私の目に入ってきたのは、知らない「誰か」と腕を組んで歩く、私の想い人の姿だった。

その楽しそうに笑う姿にいたたまれなくなって、泣きたくなって、私は走って改札を切った。もしかしたら泣いていたかもしれないし、すごい顔をしていたかもしれない。窓の反射を見たくなくて顔を伏せたまま、私はコンビニで珍しくもお酒を買い、珍しくも日の暮れた公園で荒れ放題荒れていた。


最近の学生達は立派なもので、20時を回った公園には誰もいない。きいきいと、油の少なくなった鎖を泣かせながら、私はブランコに座って安い酒を煽る。

時折会社帰りのサラリーマンが通るが、誰もが私を一瞥したあと、ゆっくりと目を戻して帰路についていく。その中でひとり、じっとこちらを見ている若い男性がいた。


「…水上先輩?」


茶色い癖っ毛を短く切りそろえた、まだ新しいスーツに身を包んだ人。誰だ?と思ったけれど、その顔をよく見たらすぐにわかった。


「やっぱり、水上先輩だ。なにしてるんですか?こんなとこで」


「春原くん…?」


「あ、覚えててくれたんですね。嬉しいです!」


春原と呼ばれた彼は、私へにっこりと笑顔を返す。大学時代、私の後輩だった彼は、なにかとつけて私のあとをついてきたものだった。当時は犬みたいで可愛いなとしか思っていなかったが、知らない間に人は変わるものだ。


「…先輩?」


くりっとした丸い瞳を見つめると、まるでぐちゃぐちゃに荒れていた私の心まで見透かされているようで少し痛い。大丈夫ですか?と聞く彼の言葉に、うん、まぁねと歯切れの悪い返事を返す。

このままいっそ、全部ぶちまけてしまおうか。久しぶりの再開がこんな形で申し訳ないな。いろんな思いが心を巡ると、どうしても涙が溢れそうになる。


「すんません、先輩」


なんの断りだろうと思った矢先、彼の腕にぎゅっと抱きしめられる。それがトドメだった。アルコールでふやけ、ひび割れていた私の心は決壊した。


結局、私はあらいざらいすべてを話した。みっともない大人の片思いを。私の独りよがりを。鼻の頭が暑い。少しの恥ずかしさはあるものの、彼は神妙な顔で私を見ていた。


「その…俺にはなんも言えないんですけど」


じっと地面を見つめながら、彼は言葉を絞り出してくれる


「水上先輩ならきっと、もっといい人が現れますよ」


その言葉に、私の心の中のなにかが、ぐしゃっと音を立てて潰れた。


「…ねえ、春原くん」


「私の家さ、すぐそこなんだよね」


「このあとってさ、暇?」


ぽかんとする彼の腕を引いて、すぐ向かいの私のアパートへと引きずり込む。あの、ちょっとという彼の言葉を聞かないふりをして、後手にドアを閉める。


「先輩…?」


「ごめんね」


返事を聞かないために、彼の口を私の口で塞ぐ。女の一人暮らしを絵に書いた2Kの最奥へと彼を引きずりこみ、私はすべてをさらけ出す。さっき潰れたのはきっと理性だったんだろう。彼の服を脱がせながら、ずるい女だなと思うけれど、ただ今は、ずるさに身を任せる以外の選択肢はなかった。


---


一夜が開け、生まれたままの姿で私達は背中合わせにベッドの中にいる。薄目を開けると、あちこちにいろいろな行為の残骸が転がっているのが見えた。

不思議なほど、罪悪感も、後悔も、何の感情も湧かなかった。満たされたとも思いきれないけれど、ただ悪い気持ちはなかった。


それでも私は、彼の好意にタダ乗りしたのだ。いや、本当に嫌なら彼だって拒否したはずだ。それをしなかったのだから、誰も悪くない。

もぞもぞと動く彼の気配を察知して、なんとなく私は彼に抱きつく。ただ、誰かのぬくもりが欲しかっただけなのかもしれない。


私に向き直った彼の目を見て、軽くキスをしたあと、思い切って起き上がる。


「ごはん、作るね」


まだぼんやりしたままの彼だったけど、それでも素直にこくりとうなずいた。

2人で簡単な朝食を食べ、改めてシャワーを浴び、そそくさと服を着る。私だって処女じゃない、こういう経験くらいあるけれど、なんでこの時間はいつもこんなに気まずいんだろう。


部屋着に着替え、スーツの彼を玄関まで見送る。

なにかを考え込んでいるようだから、私は何も言わず、返事を待った。


「先輩のこと、ずっと好きでした。だから…」


その先の返事を聞きたくなくて、私はまた彼の口を塞ぐ。

観念したように私を抱きとめ、今度は長いキスをする。


「ねぇ、また来てよ。鍵、開けておくからさ。もう家、わかったでしょ?」


はい、と愁傷な返事を返す彼を見送り、ずっとやめていたタバコになんとなく火をつける。ああ、やっちゃったなぁとひとりごちるけれど、その言葉は不思議なくらい私の胸には落ちてこなかった。


---


彼がふたたび私の家にきたのは、それから3日ほどしてからだった。

いや、正確には私が彼を呼んだのだ。他に誰もいなかったからだと言えばその通りだけど、やっぱり私は彼の好意にタダ乗りしている。


スーツではなく、ラフな普段着で来た彼を迎え、近くのコンビニでお酒を買う。

2人で他愛もない昔話に花を咲かせ、いつのまにか隣同士に近づき、あとはなし崩し的に体を求め合う。

彼は私のことを拒否も拒絶もしないけれど、それでも私が言わない限り、彼の方から私に触れてくることはしなかった。


「春原君、いいんだよ…?私、嫌じゃないよ?」


細身だけどしっかりした彼の胸板にしなだれかかりながら、私はそう甘える。

指だけを絡ませながら、私の目を見て彼は言う。


「そうしたら…本気になっちゃうじゃないですか」


「春原君が?」


「どっちも、ですかね」


そうかもしれない。私達の関係は丁度よいだけの関係なんだろう。でも、それで良いんだろう。確かに彼の言う通り、なにも本気になる必要なんてないのだ。

彼の上に馬乗りになって、いい?と聞けば、小さな頷きだけが返ってくる。彼は私を拒絶しない。その事実と彼のぬくもりが私を満たしていく。これで良いんだ、お互いに丁度良かっただけだから。

彼の上で汗だくになりながら、私は自分にそう言い聞かせていた。


---


次第に、彼が私の家に来る頻度も上がっていった。

下着が増え、歯ブラシが増え、部屋着が増えていくと共に、彼と過ごす時間も増えていった。


それでも、一緒にどこかに出かけるということはほとんどなかった。

どちらかが行こうと言えばきっと出かけたのだろうけど、不思議なほど私達の関係は、清純に不純だった。

私に影響され、彼も一度だけタバコを吸ったことがあるが、すぐにむせてしまっていた。ただ、私が隣で時折吸うことを咎めはしない。何をするわけでもなく一緒にいる時間は、不思議なほどに心地よかった。


そんな日が一週間続き、一ヶ月続き、三ヶ月続いた。どちらも何も言わなかった。別れようとも、付き合おうとも、この関係ってどんななの?とも。言った瞬間に、それが形を持ってしまい、そこから崩れてしまいそうだと思ったからかもしれない。


けれど、終わりというものは、そういうことに関係なく、いつだって突然に訪れるものだということを、私は忘れていたのだろう。


いつものように春原君を迎え、玄関を開けても、彼は敷居をまたごうとしなかった。どこかいつもよりも思い詰めたような顔をしている彼に、私は「何かあったの?」と声をかける。


「…好きな人が、できたんです」


玄関先に立ったまま、彼はぽつぽつと喋り初めた。

会社のよしみで合コンに行ったこと、そこで知り合った子と仲良くなったこと、彼女から好意を伝えられたこと、自分もまんざらじゃなかったこと。


ただ、彼には私が居た。それがどんな関係なのかはっきりとしなくても、特定の女性と関係があることは事実だった。

春原君のことだ、その狭間で苦しんだのだろう。その結果、その子のことを取ったとして、私にそれを咎める権利も、引き止める道理もありはしなかった。


「そっか」


絞り出すように、私はその一言を言う事しかできなかった。


「ごめんなさい、でも、本当に水上先輩のこと…」


「いいよ、言わないで」


始めて彼の言葉を、言葉で遮る。優しい人だ。自分が悪いということにしたいのだろう。でも、それは私が許さない。誰が悪いわけじゃないはずだ。悪者なんていないはずだ。


「コップ、捨てとくね」


「はい」


「下着もいい?」


「はい」


「部屋着、私が着ちゃってもいいかな」


「はい」


部屋の中のひとつひとつを思い出しながら、彼に確認を取る。不思議なほどに心は暖かった。思い出せる記憶の一つ一つが、まるで光を浴びたビー玉のように綺麗だなと思えた。


「じゃあね、春原くん。幸せになってね」


ぐっ、と彼が手を握るのが見えた。最後のキスをしたい気持ちを抑えこんで、私はドアノブに手をかける。それでも、あえてさよならはいいたくなくて、そっと扉を閉めて、鍵をかけた。


---


なんとなくそのまま、彼に言った通りに、諸々をゴミに詰めて整頓し、私の暮らしはまた「ひとり」に戻った。

最後まで彼が吸えなかった私のタバコの、最後の一本に火をつける。


午前中の日当たりが悪い、薄暗い部屋で白い煙が立ち上る。ふと伸ばした手が空を切る。なんのためらいもなく、私の口から「幸せだったな」という言葉が溢れる。手を繋いだリビング、一緒に料理したキッチン、愛し合ったベッド。その全てに居ない人の面影を重ねてしまう。

ああ、いつのまにか好きだったんだな、と、失って始めて気づいた。「勿体なかったなぁ」という言葉とともに、とめどもなく涙が溢れてしまう。


好きだったんだ、本当に。君と一緒にいられて幸せだったんだ。もっと一緒に居たかった。


言えなかった言葉を飲み込んで、私は子供みたいに泣きじゃくる。膝を抱え、あふれる涙を手のひらで拭う。後悔したって遅くって、私はバカだと責める。


「先輩も、幸せになってください」


別れ際に言った言葉が胸をえぐる。

君と幸せになりたかった、その言えなかった言葉を今更口に出して、私はただ、失ったものの大きさに泣くことしかできなかった。



<了>


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夕暮れがこんなに赤い理由は だめこ @dameko0053

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