きっと、約束だよ

櫻葉月咲

それは遠くない未来の話

「……文香ふみか


 ソファに座って携帯を弄っていると、達輝たつきが深刻そうな顔でドアから出てきた。


 先程誰かから電話が来て、一言断ってから別の部屋に行ってていたのだ。


 私に聞かれたくない事かな、と思って何も言わなかったがどうやらまた違う意味らしい。


「どうしたの、そんな顔して」


 いつもにこにこと笑顔で、達輝があまり悲しんだ表情を見たことがなかった。

 文香は少しの不安を覚えつつも、安心させたい一心で『おいで』と両手を広げる。


 しかし、達輝が腕の中に飛び込んでくる事はない。

 普段なら喜んで、時として悪戯っ子のように飛びついてくるのに。


「達輝……?」


 段々様子のおかしい達輝に気付き、文香は手を下ろした。

 どうやら電話の相手が悪かったのか、と邪推する。


「えっと、どうしたの……? 何かあった?」


 文香はもう一度同じ言葉を繰り返す。

 こうなった時の対処法を文香は知らず、相手からの言葉を待つだけしか持ち合わせていなかった。


「──んだ」

「え?」


 よく聞き取れず、文香はソファから立ち上がって達輝の目の前まで行くとその手を握る。


「聞こえなかったからもう一回言って?」


 努めて安心させるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 手の温もりに勇気をもらったのか、達輝は蚊の鳴くような小声で、けれどはっきりと文香の耳に入った。


「アメリカに来ないか、って電話があったんだ」

「っ」

「今すぐってわけじゃないけど、今年……早ければ三月に。向こうに居る父さんから電話があった」


 達輝は大学で映像を専攻している。

 将来は映画監督になりたい、という夢を持って日々研鑽を積んでいる達輝にはまたとない縁だ。


 父親はアメリカに拠点を置いている映画監督で、ハリウッド映画を撮っている人間だった。

 そんな父から『お前もこっちに来ないか』と言われ、迷っているのだと。


「文香を置いていくわけにもいかないし……でも、断ったらもう」


 チャンスは無いかもしれない、と達輝は呟く。


 文香は大学に行っておらず、働いている。

 服飾系の高等専門学校を卒業してから忙しい日々を過ごしているが、今日は久しぶりにゆっくり出来る日だった。


 文香が心配だから、という心優しい達輝らしい理由でアメリカ行きを迷っているのだ。

 本来であればまたとないチャンスで、嬉々として報告してくれるであろう事を。


「……なんだ。そんなこと?」

「へ」


 ぼそりと文香が呟くと、達輝は顔を上げた。

 その瞳は少し潤んでおり、今にも泣き出しそうだ。


「あのね、私は達輝と違ってもう働いてるの。それも四年目よ、四年目! 今更私が『心配だから』って理由で諦めるの?」


 私はそんな理由で諦めてほしくない、と文香は続ける。


「だって達輝が頑張ってるの、よく知ってるもの。気付いてないとでも思ったら大間違いよ」


 文香は仕事で遅くまで帰らない時がままあり、そんな時は寝ているであろう達輝を起こさないように家に入っている。


 しかし二人で眠る寝室の隣りの部屋で、何かを打ち込む音が聞こえてくるのだ。

 それは寝室にいない達輝のものだろう事は想像せずとも分かる。


 文香はあえて気付いていないふりをして、一人で眠っているのだ、と。


「だから、ね。行ってきていいの。どれくらい居るのか知らないけど……後悔しない方を選んで欲しい」


 そうしてくれたら、文香は日本に残ってからも頑張れる。


 時差はあれど、達輝も頑張っているのだと思えばそれが生きる糧になるのだ。


「達輝はどうしたい?」


 文香はもう一度訊ねる。


「……俺、は」

「うん」

「──たい」

「うん?」


 口の中で呟かれると、至近距離であっても聞き取るのは難しい。


 文香はこてりと首を傾げ、『もう一回言って』と続けた。


「離れたくない。……一緒にいたい」


 でも、と不意に達輝の腕が文香の背中に回る。


「父さんがくれた縁を無駄にしたくもない。だから」


 達輝はそこで言葉を切ると、今度は肩に重みが加わる。


「アメリカから帰ってきて、俺が一人前になったら──結婚してほしい」


 そっと耳元で囁かれ、文香は何を言われたのか一瞬理解するのが遅れた。


「……わ、私でいいの?」


 それはプロポーズというやつで、そう遠くない未来があるという事だった。


「文香じゃないと駄目なんだ。むしろ俺でいいなら……ううん、嫌だって言っても離してやれない」


 ぎゅうと抱き締められ、少し苦しい。


「たつ……」


 名を呼ぼうとしたが、唇に温かいものが触れたことで声になることは無かった。

 達輝の性格を表すような優しいキスに、文香の脳は甘く痺れる。


 もどかしいと思うほど何度も口付けては離れてを繰り返し、やっと解放された頃には文香は達輝の首に腕を絡めていた。


「文香、返事は?」


 とろりとした蜂蜜を煮詰めたような甘さのある声に、文香はしばらく目を閉じる。

 あまりにも文香の予想とは違う言葉が次々に飛び出て、このまま失神しそうになった。


 しかし、それは幸せから来るものだ。

 達輝じゃなければ成せない事がいくつもこの先にはあり、文香はその甘い夢を頭に浮かべる。


 傍には愛しい人がいて、文香は小さく温かい『いのち』に向けて微笑んでいる。

 その時はそう遠くない未来、必ずやってくる──文香はそう予感していた。


 やや拘束の緩んだ達輝の腕の中で、文香は猫が甘えるように擦り寄った。


「離さないで。ずっと……傍にいて」


 最後は言葉にするのが恥ずかしくて囁き気味だったが、達輝にはしっかりと伝わったらしい。


「うん、きっと──」


 約束だよ、と達輝が言葉にした声ごと、今度は文香が唇を塞ぐ。


「……待ってるから、絶対帰ってきてね?」


 唇を触れ合わせたまま文香は小さく呟くと、それはすぐに重ね合わされた。


 不意打ちでされた事をそのまま返しただけだが、達輝のわずかな理性が切れるには十分過ぎるようだった。


 キスは次第に深く甘いものになり、やがて達輝の小さな囁きがリビングに響く。


「──それまで取られないように、ちゃんと縛っておかないと」


 文香の手を取ると、薬指にそっと口付ける。


「わたしは、逃げないよ……?」


 達輝が何を言おうとしているのか、ぼんやりとした頭で理解した瞬間を、きっと文香は忘れないだろう。


 不安な達輝を安心させるように、文香はぎゅうと首に両腕を絡めた。


「俺がそうしたいんだ」


 もう黙って、と達輝に耳元で囁かれ、そこから先は言葉にならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きっと、約束だよ 櫻葉月咲 @takaryou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説