その手をはなさないで
帆尊歩
第1話 はなさないで
「先生、今夜が山ですか?」
「そうだね。今日は私も当直だからここにいるけれど、ご家族とは連絡は?」
「いえ、でもいらっしゃらないようで」
「そうか」
「誰かいるなら、会わせてあげたいですね」
「そうだね。入院してきた時は気丈で、一人で死んでもいいとは言ってたけれど」
「寝ているときも見に行くと、ゴメンね、ゴメンねと言いながらうなされていたことがありました」
「まあ、我々医療関係者は家庭の事情に口は出せないからね」
「そうですね」
アタシは、無機質な強大なスロープのくぼみにいる。
アタシの体は固定はされていないけれど、アタシの体にぴったりとはまるくぼみに、すっぽりはまっている。
少し体をよじれば、この巨大なスロープを滑り落ちる。
滑り落ちて行く先はあまりに長く、暗く落ち込んでいて、先がどうなっているのかも分らない。
アタシは、そこから手を出し、二十歳くらいの女の子の腕をつかんでいる。
スロープなので、そこまでの負担はアタシの腕には掛かっていないけれど、アタシが手をはなせばこの子は、このスロープを滑り落ちて行く。
とはいえ、いくらさほども負担が掛からないとはいえ、いつまでもこうしている訳にもいかない。
この子の命は、アタシのこの手にかかっている。
アタシが手を握っているのは。
娘?
いや、アタシに娘はいなかった。
「あなたは誰?」
「イヤだ、お母さん、娘の顔を忘れたの?」いまにも滑り落ちそうなのに、アタシが手を離せば滑り落ちて行くはずなのに、この子はひどく冷静に言う。
「娘?アタシに娘はいなかった」
「本当に。本当に私のこと分らないの」
「ええ」
「お母さんは私の手を離したのよ」
「アタシが手を離した?」
「そう。忘れたの?」
アタシは考える。
アタシが手を握っている女の子は、アタシが手を離せば、巨大なスロープを滑り落ちてしまうのに、アタシの顔を見つめる。
「忘れてしまったの?私は二十歳、お母さんが二十歳の時、同じように私の手を離したのよ」
「えっ、まさかアタシが二十歳の時に堕ろした子?そういえば女の子だったような」
「やっと思い出してくれたお母さん」
「あなたなの?」
「そう。あの時私の手をお母さんは離した。もう一度私の手を離す?それとも離さない?」
「そんな事言われても・・・」
いつまでもこうしている訳にはいかない。
この子を引っ張り上げるスペースもない。
ここは巨大なスロープの中間。
上にも行かれない。
スペースはアタシの体一つ分だけ。
「お母さん、一つ教えて。私には名前があったの?」
「いえ。早い段階で堕ろしたので、名前はおろか、水子供養もしていない」
「それはそうよね。私のことなんか、今の今まで忘れていたんだものね」女の子は皮肉まじりに言う。
「ごめんなさい」
「で、どうするの?お母さんはまた私の手を離すの?簡単よね。お母さんはその安全なくぼみにうつ伏せになっている。私の手を離せば、その手に掛かる負担はなくなるものね。楽になる。あの時と同じ。」
「仕方がなかったの。まだアタシは何もわからなくて、欲望のままあなたを身ごもった。
相手の男はいなくなり、パパもママも育てられないから堕ろせと言うし」
「だから私の手を離したの?」
「だって仕方がないじゃない。二十歳の娘に子供なんか育てられない」
「だからなんの躊躇もなく、私の手を離したんだ」
「躊躇もなくって」
「だって忘れていたものね」
「違う。忘れようとしただけ」
「忘れようとしただけ?」
「だって辛いでしょう」
「堕ろされた方はもっと辛い」
アタシの腕はそろそろ疲れてきた。手をぷるぷるいっている。
「お母さん、手が限界なの?」
「ええ、でも信じてあなたを忘れていたのは、あなたのことをなんとも思っていなかったからじゃない。辛くて、意図的に忘れようとしていたの。でも十年くらいは忘れられなかった。赤ちゃんを抱いている人を見れば、あなたを思い出した。生んでさえいれば、アタシにだってあんな赤ちゃんがいたのにって」
「何を今更」
「ごねんなさい」
「お母さんには三つの選択肢があるわ」
「なにそれ」
「一つは、もう一度その手を離して、私だけを滑り落とす。二つ目はそのくぼみに私をひっぱりあげる。でもそこは狭いから、一緒に滑り落ちて行くかもしれない。
そして、三つ目。初めから私と一緒に滑り落ちて行く」
「それをここで決めろというの」
「そう。簡単よ私の手を離せば、私だけが滑り落ちて行く。お母さんはその安全な場所にいられる。
私の手を離さななければ、一緒に滑り落ちて行く。
私をそこに引き上げて数時間後、二人で滑り落ちる。もう一度私を見捨てるか、共に落ちるか、不可抗力で落ちるか」
「一緒に落ちようと、不可抗力で落ちようと一緒でしょう?」
「違うわ。私と共に逝くか、たまたま、事故でイヤイヤ共に逝くかでは、天と地ほども違う。さあどうするお母さん」
究極選択だ。アタシは決められない。
「あたしにそんなこと決められない」
「どうして?簡単よ、その手を離せば良いだけじゃない。アタシを見捨てれば、お母さんは助かるのよ」
「だって、もうこの手を離したくないの。あなたを堕ろして、子供を連れている同じくらの女の人を見ると、辛かった。ちっちゃな女の子が、ママとたどたどしく言って、ヨチヨチ歩くの。たまに尻餅をついて、それでも立ち上がってまた歩き出す。
アタシにも、アタシもあなたの手を離さなければ、こんな風に目を細めて、成長を見守れたのに、アタシが、自らこの手を離したんだって。だからもう二度と手を離したくない」
「なら、一緒に奈落の底に滑り落ちて行く?」
「えっ」そんなことないはずなのに、アタシの言葉は、一緒に滑り落ちたくない、一緒に滑り落ちたくないと言っているようだった。
女の子は落胆の色をその顔ににじませた。
「そうよね、簡単よお母さん。そのぷるぷる震えている手を離しさえすればいい。そうすれば、手の疲れもなくなるし、お母さんも助かるのよ。ね、簡単でしょう」
「あなたはどうなの、アタシに手を離して欲しいの?」
「えっ」
「手を離してほしいの?」
「えっ」
「答えなさい、あなたはもう一度手を離して欲しいの?」すると女の子の目から涙がこぼれた。
「手を、手を離さないで、お母さん」
「分った、分ったから、泣かないで。お願い、もうあなたの手を離しはしない」
「先生、パルスが。電機ショックいきますか?」
「いや。もう高齢だ、心臓が持たない。会いたいご家族もいないし、このまま」
「はい」
二人は横たわる老婆に合掌した。
その手をはなさないで 帆尊歩 @hosonayumu
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